2024年ウズベキスタン旅行3日目(2024-04-28)の記録です。 この日は1日まるごとヒヴァ観光です! 数々の博物館でヒヴァとホラズムの歴史に触れ、もりだくさんな1日でした。 イチャン・カラの外になってしまいますが、ヌルラボイ宮殿の展示(特に古写真)は特に興味深かったです。
今回の旅全体のまとめはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
ヒヴァの観光情報メモ(チケットの買い方とか有効期限とか)はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
朝の散策
朝早め(といっても7時過ぎに)目が覚めたので、せっかくなので朝食前にイチャン・カラを散策します。
この時間はまだ道行く人も少なく、街がまだ賑わいに包まれる前の、落ち着いた光景を楽しむことができました。
ということで朝の散策おすすめです。
朝日を浴びるイスラーム・ホジャミナレット。
ちなみにこの後、朝食後の観光で上に登ります。
昼間は人であふれていた中央の大通りも御覧の通り。
前日にお茶をしたタプチャン
前日の昼間に見たときは気にしていなかったのですが、この木の扉の奥に部屋があり、昼間はお土産屋になっています。
この部分、よくよく考えると面白い形になっている気がします : 奥のマドラサは(道路面から見て)人の背丈より高い基壇の上に建ち(基壇が高すぎて、基壇の上に行くには階段が必要)、基壇が道路に面する切り口の部分に(中国の窰洞のように?)お店のスペースが作られています。
これわざわざこんなに高い基壇を作ったの? 何のために? など気になります。(ちなみに高い基壇はこのマドラサだけでなく、他の施設でも見かけました。)
パフラヴァン・マフムード廟の中庭。
気づかずに入ってしまったのですが、ここは別チケットが必要と指摘されたので、昼間改めて来ることにします。
ちなみに「7時にしちゃ朝早い雰囲気だなー」と思ったのですが、経度を調べて納得しました : ウズベキスタンの標準時はUTC+5なのですが、ヒヴァの経度は東経約60度で単純計算だとUTC+4。
ホテルに戻って朝食後、観光に繰り出します。
午前の観光
Minaret Said Islam Khodja(イスラームホジャミナレット)
まずは朝早くて(と言っても既に9時)人が少ないであろううちに、イスラームホジャミナレットに登ります。 こちらは観光情報メモの記事にも書いた通り別料金が必要で、お値段100千スム。 ミナレットの下の小さい建物に係りの人がいるので、そこで支払います。 支払いにはクレジットカードが使えました。


階段はなかなか急なので、ストレッチと準備運動をしてから登るのがおすすめ。 あと通路も狭くて人がすれ違うのは大変そうです。
登っている最中も、小さな窓から外の様子を窺うこともできます。
頂上にたどり着くとこんな感じ*1。
窓は小さく鉄格子越しなので、開放感は少ないです。
その意味では前日の見張台のほうが良いのですが、こちらはイチャン・カラの中心により近いので個々の見どころがよりよく見えると思います。

決して広くはないので、人がたくさん来ると厳しそうですが、幸いにしてしばらくは他の観光客も来ず、まったりと(15分くらい?)景色を眺めることができました。
しばらく景色に浸っていると、ウズベキスタン当地の方と思しき若者グループが登ってきました。 (ちなみに女性1人はサンダルで登ってきていて、歩きにくそうなのによくここまで登り切ったなと驚きました。。。) 英語で声をかけられて少し話したり、一緒に写真を撮ったりしました。 旅行に来るような若者、全員が全員ではないですがグループに1人は英語を話せる人がいる印象です。
Madrassah Islam Hodja
続いて、ミナレットの麓にあるマドラサを見学します。 こちらは共通チケット対象施設です。
中は工芸品の博物館となっていました。
精巧な彫刻が施された木製の扉。
大モスクの柱のときも思ったのですが、ヒヴァ(というかもっと広くホラズムや中央アジア?)では木彫刻が盛んなようです。
ちょっと気になったのが、こちらのワクフ文書。
詳しくは知らないのですが、ワクフ文書って普通は紙に書いて保存するものな気がするので、どういう目的で石に刻んだのか気になります*2。
ちなみにワクフとは何かや、その意義については、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所のプロジェクト「Qarawun VR project」の解説が(エジプトのマムルーク朝を念頭に置いていますが)平易かつ詳しいです:
中央アジアを念頭に置いたものだと、参考文献[1]p.280の「寄進制度」などもあります。
小部屋が連なる形になっているのですが、当時どう利用していたのか気になります。
通路が真ん中を横切ると、教室としても居室としても使いにくい気がするので。。。
中庭にも出ることができました。
さきほどはあの塔の上から周りを見渡していたんだなと思うと感慨深いです。
さてさて遅ればせながら、「イスラーム・ホジャ」という名前について。 一見すると一般名詞にも見えますが人名です。 イスラーム・ホジャは、ヒヴァ・ハン国の大宰相だった人物です。 後で写真も出てきます。 西洋の制度を導入するなどの改革に取り組んだそう*3で、さきほどのミナレット、このマドラサ、そして次に訪れる新式学校は、いずれもイスラーム・ホジャによって建設されたものです*4。
Yangi Uslub Maktabi (New Method School)
お次は、イスラームホジャ・マドラサのすぐ向かいにある、新方式学校(外観写真、もっと全体を写したものを撮り忘れた。。。)。
1910年頃完成の建物で、こちらでロシア語、歴史、地理、数学が教授されていたそうです*5。
上述したように、こちらもイスラーム・ホジャによって建てられた建物です。
素人考えでは、マドラサと西洋式の学校という、2つの教育施設を隣り合った場所に同じような時期に建てる*6というのも不思議な気がするのですが、どういう棲み分けがなされていたのかなど気になります。
追記 : この施設のウズベク語名がMaktabであることと、参考文献[1]p.282「マドラサとマクタブ」の項や参考文献[3]p.479「マドラサ」とp.237「ジャディード運動」の項を読んだ印象をあわせると、こちらの新方式学校は初等教育(読み書きや算数などの教育に主眼?)を担い、マドラサが中等・高等教育を担っていたのかも?(ただ、陽にそう書かれているわけではないので、私の誤読の可能性もあります。)。
展示は新方式学校そのものよりも、当時のヒヴァ・ハン国の様子を写した写真がメインだったと思います*7。
中央の写真の人物は、Xudoybergan Devonov*8で、なんとウズベキスタンで最初の写真家とのこと*9。
往時のヒヴァの様子を写した写真がたくさん残されている*10のも、彼のような当地の写真家のおかげかもしれません。
こちらの中央の写真の人物は、ここまで何度も名前が出てきた、イスラーム・ホジャです。
日本にいそうな顔立ちという印象を受けました。
こちらは病院前の写真。
人々が毛皮の帽子(cho'girma/chugurma)など伝統的な装いをまとっている一方で、中央左に西洋っぽい馬車(?)も見受けられ、対比が印象的です。


アラビア語の教科書/文法書? 新式学校で使われたものかどうかは分からないです(解説パネルを見落としてるだけかも。)。
大モスク(ジュマ・モスク)
お次は大モスクに。
平屋根で、林立する柱が天井を支えるタイプの、比較的古典的な造りのモスクです*11。
18世紀末の改築ですが、古い木材を転用しており10世紀や11世紀の柱も残っているとか*12*13。
柱と天井は見る限り全て木製で、精巧な彫刻が施されています。
こんなに乾燥した地域でこれだけ多くの木材を集めるのはさぞ大変だったろうなと推察されます。
ちなみに、柱が林立するモスクはイランやトルコで見たことがある*14のですが、そちらの柱はたいてい石材や煉瓦でした。
一方で、金属のたが?がはめられている柱もありました。割れたからかな?
柱の下の部分を見ると、台座の高さはまちまち。木材の長さにあわせたのでしょうか。


柱の下部の形もバラエティーに富んでいます。
天井も木材が使われていることが見て取れます。
あと、柱頭の形もけっこうバラバラ。
墓石らしきものもありました。
モスクの内部に墓があるのは珍しいと聞いていたので、少し驚きました*15。
ちなみにモスク全域に立ち入れるわけではなく、この写真のエリアあたりは立ち入り禁止でした。
Abdullaxon madrasasi
比較的小さめのマドラサです。銘板には1856年と記載がありました。
中庭の周りに小部屋が並びます。
角部屋は広いのかなと思ったら逆で、角は3部屋に分割されているのが印象的でした。
内部はホラズム地方の自然についての展示。
と言っても、動植物の剥製/標本、写真などが展示されているだけで、解説はあまりなかったです。
うーん、博物館としてはやっつけ感があり、ちょっと残念。。。
Qutlug‘ Murod inoq madrasasi
先ほどのマドラサの隣のマドラサです*16。
1800年代の前半に建てられたもの*17。
廊下は絵の展示スペースになっていました。
中庭。先ほどのマドラサと比べるとやはり広く、建物も2階建てになっています。
中庭中央には地下への階段があります。
降りてみると煉瓦で覆われたドーム状の空間が広がっていました。
どうも地下貯水池のようです*18。
Olloqulixon madrasasi

Qutlug‘ Murod inoq madrasasiの向かいに建つマドラサ。 さきほどと同じく、1800年代前半の建築*19です。 ただし、こちらはそもそも共通チケット対象施設ではなく、扉も閉まっており中には入れませんでした。
Tosh Hovli (その1)
マドラサが続きましたが、次に訪れたのはTosh hovliと呼ばれる宮殿。 前日に訪れたクフナ・アルクは西門の近くにありましたが、こちらは東門近くにあります。 時代的にはこちらの方が後の建物だったはず*20。 ちなみにTosh hovliは見学できるゾーンが2つに分かれているようで、それぞれ異なる入り口から入ります。 ここでは東側の入り口から(というこで「その1」と書いています*21。)。
入口はなんとも無骨ですが、
中に入ると、青いタイルで装飾された壁に囲まれた空間が広がります。
他のマドラサなどの観光スポットに比べると、ここは観光客の密度が高かったです。
(上の写真は人が少しはけたタイミングで撮影したものです。)
開放的なテラス状の空間が連なっています。
クフナ・アルクではこれほど横に連なることはなかったですが、テラス状の空間のつくりはそっくりな気がします。

テラス状の空間の奥の部屋。
このようなタイプの壁の装飾、イランはイスファハーンのアリカプ宮殿にもあった記憶があります。
絵や服などの展示もありました。
昼食
昼食は、イチャン・カラの中の観光客向けっぽいお店にしました。
日本語を話している方が、団体客も個人観光客が何組かいました。さすがゴールデンウィーク。


左の写真の餃子のようなものは、ホラズム料理のトゥフムバラク*22。 卵の餃子です。食べる前は「生地に卵を練りこんであって、具は肉」かと思ったら、生地には卵の黄身、具は卵の白身が入っており、あっさりしていて美味しかったです。 しかしこれ、液体状態の卵白を包むの大変そうです。
あと、左の写真に微妙に映った揚げ(?)ナスのサラダ、香草(たぶんイタリアンパセリとディルとあと、ネギっぽい何か)が効いていて美味しかったです。
右の写真、プロフは油が多い上に米が若干硬く、ちょーっといまいちな気がしました*23。
午後の観光
Qozi Kalon Madrasasi
銘板には1905年の記載がある、小規模なマドラサ。
中は音楽についての博物館になっていました。


近現代の音楽家の写真いろいろ。 ちなみに解説はウズベク語のみのものが多かったです。Google lensが大活躍。 中央アジアの音楽については、参考文献[1]p.530「草原とオアシスの調べ」の後半「定住民の芸術音楽」や、参考文献[3]p.108「音楽」の項など参照。 ちなみに参考文献[1]p.532では「シャイバーン朝の分裂期、...(中略)...ヒヴァ・ハン国でアールトゥ・ヤルム・ムカーム(六つ半の間カーム)...(中略)...が形成された.」とあるんですが、ここの展示だと上の写真で言及されているのが12マカーム、別の解説パネルでは11+7のマカームに言及されているのなんでなんだろう。
Matpanoboy madrasasi
次もマドラサ。こちらはチケットには"MUSEUM OF KALLIGRAFI"と書かれており、イスラーム書道の博物館。
ただ、展示されている品は芸術作品として制作されたものよりも、実用的な文書の方が多かった印象です。
具体的には、ワクフ文書や外交文書など。こちらの方が中に何が書かれているのか気になるので、個人的には興味深いです。
ワクフ文書。たぶんナスタアリーク体。
文字はアラビア文字ですが、下に3つの点を打つ文字が見える(1行目左側)ので、アラビア語ではなさそうです。
このあたり、口語ではチャガタイ語などのテュルク系言語を使っていたと思うのですが、こういった文書が何語で書かれているか気になります(ペルシア語かもしれないので。)*24。
なお、解説には1294と書かれていますが、h.y.と書かれているのでおそらくイスラーム暦で、西暦に換算するとだいたい1877年頃のようです*25。 ロシアの保護国となりながらも、この文書のようにワクフが設定されたりと、西洋による支配を受けつつも伝統的な社会の姿が継続している様を例示しているようで興味深いです*26。
ハンから巡礼者に授けられたTarxon yorlig’i(英語 : diploma)...らしいのですが、何を指すのか理解していません。。。


左はブハラ・ハン国のアミールからヒヴァ・ハン国のハンへの手紙。 右は少しびっくりしたのですが、庶民からヒヴァ・ハン国ハンへの陳情書?のようです。 ハンに陳情がどういうルートで行われたのだろうかなど気になります。
Muhammad Amin Inoq Madrasasi
こちらは1765年と銘板に書かれており、ここまで見た中では古めの建物な気がします。


中はイスラーム圏の科学者についての博物館になっています。
出入り口あたりに座っているスタッフのおばさまたちが写りこんでいるのですが、編み物(確か靴下?)をしていました。
イチャン・カラの博物館ではこの光景は何回か見かけました。
著名な科学者の業績紹介の展示がいくつか掲げられていました(ウズベク語ですが。)。
これは数学で顕著な業績をあげ、"algorithm"という言葉の語源にもなったフワーリズミーについてのもの*27*28。
フワーリズミーの名前や業績などはある程度知っていたのですが、「フワーリズミーって、ここホラズム出身者の意味じゃん!?」と今更ここで気が付きました。
ふわっと知っていた知識が、自分が今立っている土地と結びつくときの感覚は面白いです。


写本などの展示もありました(ただしレプリカかも)。
Tosh Hovli (その2)
Tosh Hovliには上述した通り2つの区画があり、午前中に片方は行ったのですが、今回はもう片方のゾーンに向かいます。 午前訪れたほうは建物メインだったのに対し、こちらは展示物がメインな印象です。
入口前(たぶん)の通り。
石畳が古いものが残っているのか、車輪の轍のようなものが刻まれているのが印象的です。
屋外だったので反射で全然撮れていませんが : 時のロシア皇帝アレクサンドル2世からヒヴァのハン、ムハンマド・ラヒム・ハーン2世に贈られた馬車のよう(解説の銘板曰く)。
ガラスケースで覆っているとはいえ、屋外に出しておいていいんですか...?という気持ちになりました。
屋内にも様々な展示物が並べられています。
こちらは排水口の蓋のよう*29。マドラサや宮殿の中庭などで似たようなものを何度か見かけました。
全部写真に撮ったわけではないのですが、たいていはこのような八芒星の輪郭の模様があしらわれていた気がします。
ワクフ文書が彫られた石板x2。
解説によるといずれも1720年のもので、上のものには、マドラサに与えられた土地(マドラサ運営の財源としてワクフとなった土地?)の場所などが記されているそうです。
いずれも、ペルシア語で書かれているとのことでした*30。
前近代の中央アジア、行政方面だとペルシア語が優勢だった気もするので納得感はあるのですが、ならチャガタイ語はどの領域で使われてたんだろうとか、このへんの言語環境が気になります。
もしかしたらこの本とかに書いてるかも? ペルシア語が結んだ世界 もうひとつのユーラシア史
2024-07-14追記: 「ペルシア語が結んだ世界」は読めていないのですが、さっとアクセスできる参考文献で少し調べた内容をざっくりまとめると:
- 10~12世紀頃以降の中央アジアではペルシア語が広く行政言語として使われ*31、モンゴル帝国時代には帝国で広く通用する共通語とされた*32。
- ティムール朝の支配下でチャガタイ語が文章語として成立するものの、住民の間での共通語としての性格を帯びていたわけではないよう。やや古いが、ナヴァーイーによる「テュルク系住民はテュルク語もペルシア語を話せるが、イラン系住民はテュルク語を解さない」という趣旨の記述も残っている*33。ただし、地域によって普及具合はまちまち*34なので、このへんは一概に言えなさそう。
- なお、チャガタイ語の広がりは西はクリミア東は新彊と幅広い範囲に及ぶものの、文学作品による影響が大きいそうで、行政語としての利用がどれほど広がっていたかについては評価は定まっていないよう*35。
こちらは墓石。解説によると1884年のもの。なんとも躍動的な筆致の文字が印象的です。
石に文字が刻まれたものが大好きなので、こういうのを見ると読めないけどついワクワクしてしまいます。 文化圏は異なりますが、昨年冬に西安碑林博物館を訪れたときは大量の石碑をじっくり眺めていたらあっという間に時間が溶けました。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
展示だけではなく、いかにもヒヴァの宮殿らしいテラスもありました。


木製品いろいろ。 左の歯車は、元は灌漑装置の一部で、ロバやラクダの力でこれを回していたそうです(他の観光客についていたガイドの解説。)。 ちなみにこのような動物の力を利用した揚水車輪のことを、チュクルまたはチギリ(ロシア語)と呼ぶらしいです*36*37。 灌漑と言えば日本では水力を用いることが多い印象ですが、ここでは家畜の力を用いているのは、水車を回すほどの川の流れが多くないからなのかもしれません。
こちらは天井を支える柱の頭の部分の材のようです。
近くで見る機会がないのでなかなか面白い。
実際に使われるときは上下逆で、今下にある部分が本来は上に向いていて、梁を支えているはず(さきほどのテラスの柱の写真と見比べた限りでは。)。

Pakhlavan Mahmud Mausoleum
こちらは共通チケット対象外で、確か1人で25千スムだったと思います。支払いはクレジットカード可。
朝から何度かタイルで覆われた鮮やかなドームを見てきましたが、その正体がこちらの霊廟。
被葬者のPakhlavan Mahmudは、13~14世紀にかけて、職人や詩人など様々な分野で活躍した人*38*39のよう。
門をくぐると、控えめな大きさの中庭。
正面に見える建物内部には、壁の全面がタイルで覆われた美しい空間が広がります。
ヒヴァの建物でここまでタイルで覆われているのは珍しい気がします。後はハンの宮殿のテラスくらい?
奥に見える墓石はPakhlavan Mahmudのものではなく、銘板によるとAbdulgazi Muhammad Rahimkhan Iのもののようです。
ちなみに、この写真は運良く人がはけたタイミングで撮っていますが、実際は多くの観光客で混雑していました。 また、祈祷と思しき言葉を朗々と唱えている方もいました。 (おそらくイスラームでは音楽の範疇には入らないとされているだろうなと思いつつ)非常に魅力的な節回しだったのですが、それっぽいキーワードで検索しても見つからないので、もどかしい。。。
頭上にはドームも。
この大部屋の左右に少し小さい部屋があり、左側の部屋にはPakhlavan Mahmudの墓が、右側の部屋には別のハンの墓がありました。 Pakhlavan Mahmudの墓のある部屋では祈ってる人も多かったので、写真は遠慮しておきました。
こちらはいったん中庭に出てから入った別の建物の中の墓。
3つ並べられた墓石は、銘板によるとIsfandiyar Khanとその家族のものとのこと。
Pakhlavan Mahmud廟と呼ばれてはいるものの、多くの王族の墓が集まっているのが印象的でした。
Sherg'ozixon Madrasasi
お次は向かいにあるこちらのマドラサ。
銘板には1718~1720年との記載がありました。
中には、かつてこのマドラサで学んだ人々についての紹介や展示がありました。
こちらのKomil Xorazmiyは、詩人・音楽家にして、ヒヴァ・ハン国の高官でもあった人物。
Ajiniyoz Qo’siboy O’g’liは、カラカルパクの詩人。
こちらはカザフで教師を務めた方のよう?
カザフ関係と言えば、こんなものも置かれていました。
一通り見て出ようとしたところ、スタッフの方に中庭の方に案内されました(中庭に出る扉が閉まっていたので、出られるとは気づきませんでした。)。
中庭の反対側の複数の小部屋には"Medicine Museum"ということで、また別の展示がありました。
こちらも、パネルでの解説が中心。
Khorezm Mamun Academyの話、全然知りませんでした。
言われてみると、ホラズム・シャー朝についてぱっと出てくる知識と言えば、チンギス・ハンに滅ぼされたことくらいで、ちょっと申し訳ない気分になってきた。。。
Mukhammed Abulgazi Bakhadirkhan*40、「あれ、ここ医学の博物館なのになんでハンが出てきてるの?」と思いきや、なんとこの方、ヒヴァのハンにして、歴史家・科学者・医者として名を成し、現代にもその著作が伝わっているそう。
Nurullaboy Saroyi(ヌルラボイ宮殿)
イチャン・カラの中の観光スポットはだいたい見たので、最後にイチャン・カラの外の見どころにヌルラボイ宮殿に歩いて向かいます。 yandex mapの経路検索だと、西側に案内されたのですが、こちらは学校のようなところの敷地を抜けないと入れませんでした。 学校(?)の門も閉まっていたのですが、ちょうど用務員さんがいらしたので、声をおかけして通していただくことができました。 ということで、普通に東側の大通りの側から行きましょう。
入口入って左手のKACCA/Ticket Officeと書かれたところでチケットを買います(この写真は入ってから振り返って撮ったところ。)。
こちらは共通チケット対象外。お値段は1人たぶん60千So'mくらい*41で、クレジットカードで支払いました。
まずはこちらから。ちなみにこちらはヌルラボイ宮殿本体ではないようです。
銘板にはBesh Hovli Majmuasi(Besh Khovli Complex)と記載があり、19世紀と書かれていました。

内部は改装されて博物館になっており、様々なジャンルの展示がなされていました。
現代の油絵などもありました。
ちょうど企画展”THE UNITY OF NATIONS THROUGH THE BRUSH OF UZBEK AND KAZAKH ARTISTS”をやっていたので、それ関連の展示かもしれません。
ちなみに2017年の数字ですが、ウズベキスタンの人口の2.5%(約80万人)はカザフ系だそうで*42、タシュケントはかつてカザフ・ハン国の影響下*43にあったり、カザフ語で教育を行う学校も(減少しつつあるものの)ある*44など、歴史的にはなかなかに縁が深いようです。
この宮殿の展示で一番印象深かったのは、こちらの古写真の展示。
19世紀から20世紀前半のホラズム地方の様子を写した数々の写真が並べられています。
イチャン・カラの街並みや
王族や高官の姿はもちろん
民草の日常生活の様子を写したものも少なからずありました。
上はバザールの様子。
下は家畜の力で回す揚水車輪チギリ*45。
さきほどTosh Hovliの展示でその一部と思しき車輪を見ましたし、参考文献[6]p.26にもこれを描いた絵があったのですが、こうやって実際に使っているところを写真で見るとやはり興味深いです。
歴史は近代よりも前近代に興味があるのですが、近代になるとこうやって写真が残されているのは強いよなー、と改めて思いました。
午前中に訪れた新方式学校の展示でも見た、ウズベキスタン(なんなら中央アジア?)で最初の写真家/映像作家、Xudoybergan Devonovについても紹介されています*46。
解説パネルによると、Devonovが写真に興味を持ったきっかけはドイツからのメノー派移民による写真撮影に参加したことだそうで、前日にメノー派移民についての博物館を見たところの伏線が回収された気分です(前日の旅行記のOq-Masjid Mennonitlari ko‘rgazmasiの箇所参照。)。
また、ただの在野の写真家ではなかったようで、1907年には大宰相イスラーム・ホジャが率いる代表団の一員としてサンクト・ペテルブルクを訪れて、当地に滞在して写真術を学んだりもしたそうです。
お次はヒヴァ(というかホラズム)のハン達の歴史についての展示。


武器や古文書などが展示されているのですが、
一番目立つのは蝋人形でした。
こちらは大宰相イスラーム・ホジャの蝋人形ですが、他にムハンマド・ラヒム・ハーン2世の蝋人形もありました(あともう1体はあった気がする。)。
本題(?)の宮殿本体はこちら。
こちらは20世紀初頭に建造されたものだそう*47で、さきほどの博物館のエリアよりこちらの方が新しいようです。
内部は西洋風の作り。
美しい陶磁器製の暖炉(?)がいくつも設えられており、印象的でした。
ちなみに暖炉にはMEISSENの文字が描かれているようです(という拡大写真が示されていました。)。
中国やロシアの陶磁や、古文書の展示も少しだけですがありました。
一通り見たし帰るかーと思ったのですが、宮殿本体に来る前に見た博物館にまだ見逃したところがあり、いくつかざっと見てきました。


工芸品の展示や、
高官(王族?)の私邸など


なかなかに展示が盛沢山でした。 ゆったり見て1.5時間ほどの滞在でした。
夕食
丸一日観光して、情報としてはお腹いっぱいですが、お腹は空いてきたころ合いなので、夕飯にします。
夕飯はそのまま城壁外のこちらのレストラン、ヒヴァムーンでいただきました。


ラグマンもグンマ(右の写真。名前が面白い)もちょっと油が多い気はするのですが、どれも美味しかったです。 ウズベキスタン料理、和食の旨味のような方向性ではなく、油のコク/程よい塩気/ハーブの香りの組合せが特徴な気がします。
屋外のtapchan(涼み台)に座りながら食事していたのですが、途中で猫様が乗ってきました。かわいい(語彙力)。
他にサラダとお茶などを頼んで、2人でだいたい200千スムに行かないくらい。 なお、支払いはクレジットカードでしました。
イチャン・カラ散策
夕食後、イチャン・カラに戻ってしばし散策します。
夜の帳が下りる前、刻々と色彩を変える夕空の下、朝や昼間とは異なるイチャン・カラの姿を楽しむことができました。
ヒヴァ2泊にして、ゆっくりと街を楽しむ時間を設けておいて我ながら本当に良かったです。
日がとっぷり暮れると、再びライトアップが始まりました。
同行者はお疲れだったので、1人でぶらぶら。
何やらカラフルなライトアップ(確か色がときどき変わった記憶があります)も一部にありました。
でも個人的にはこういうのを求めているわけではないんですよね。。。


モニュメンタルな建物のライトアップも良いですが、こういう何の変哲もない路地もまた良いです。
翌日に続きます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
参考文献
- [1] 小松久男 編者代表 (2023)「中央ユーラシア文化事典」丸善出版 ISBN: 978-4-621-30806-6
- [2] 深見奈緒子(2024)「世界の美しいモスク 増補改訂版」エクスナレッジ ISBN: 978-4-7678-3288-3
- [3] 小松久男, 梅村坦, 宇山智彦, 帯谷知可, 堀川徹 編 (2005)「中央ユーラシアを知る事典」平凡社 ISBN: 4-582-12636-7
- [4] 羽田正(2016)「増補 モスクが語るイスラム史 建築と政治権力」筑摩書房 ISBN: 978-4-480-09738-5
- [5] 木村靖二、岸本美緒、小松久男 編 (2017)「詳説世界史研究」山川出版社 ISBN: 978-4-634-03088-6
- [6] 帯谷知可(編著) (2018)「ウズベキスタンを知るための60章」明石書店 ISBN: 978-4-7503-4637-3
*1:らせん階段の出口がそのまま床に開いてるので、足を踏み外すと落下して怪我しそう。。。
*2:単純に考えると、寄進者の徳を称えてそれを訪れる人が見て分かるように示すため、とかがありそう。
*3:参考文献[1] p.358「ヒヴァ」の項目。「1910年大宰相に就任したイスラーム・ホジャ(在任1910~1913)は、ディシャン・カラ(外城)に郵便電信局や病院を建設し, 」。ただし、次に訪れる新式学校の解説パネルには"in 1898, 26 years old Islam Khodja was appointed the chief vizier of the Mohammed Rakhim Khan II"とあり、大宰相就任の年に齟齬があるようです(chief viierが大宰相を指すと仮定しています。)。
*4:参考文献[1] p.358「ヒヴァ」の項目。「彼の命令によってイチャン・カラ内に建設された高さ45mのミナールとその周囲にあるマドラサ, 新方式学校の建築は, 彼の改革事業の遺産である.」
*5:入り口の銘板には1910との記載あり。一方、https://www.khivamuseum.uz/en/new-method-school には"IN 1912, a two-storey building for New Style School was erected. "との記載あり。教育内容については左のリンクに"The Russian language, History, Geography, and Mathematics were taught there."と記載あり。
*6:新方式学校の解説パネルに"In 1908 1912 in Ichan Kala, a comlpex of madrassah and new-method school were erected by Islam Khodja."と記載あり。
*7:私が見落としているだけかもですが。
*8:ウズベク語綴り。ただし表記揺れがあり、こちらの写真に付されたキャプションではDevonovと綴られ、後で行くヌルラボイ宮殿のパネルではDevanovと綴られ、ウズベク語wikipediaではDevonovと綴られていました。 https://uz.wikipedia.org/wiki/Xudoybergan_Devonov
*9:この日の最後に訪れる、ヌルラボイ宮殿の展示の写真と解説曰く「Khudaybergen Divanov, the first Uzbek photographer and films cameraman」
*10:後で行くヌルラボイ宮殿では写真の展示が充実していました。
*11:参考文献[2]p.5本文の「アラブ式」の説明を参照。
*12:参考文献[2]p.87「18世紀末、ヒヴァがロシアとの交易で栄えた時代に古い材を集成する形で改築された。」「中には11世紀の銘を刻んだ柱もある。」
*13:参考文献[3]p.59 「イチャン・カラ」の項目。「幹線路の交差点西南部分に<金曜モスク>がある. 木造の柱が林立して天井を支えるタイプで, 10世紀の柱も残っている.」ただし、20年近く前の情報です。
*14:たとえば、コンヤのアラアッディン・ジャーミー。ドーム部分もあるのですが、礼拝室の大半は林立する柱が平屋根を支える形。
*15:参考文献[4]p.141「イスラム世界全体で考えた場合には、墓のあるモスクは少数派である。」「預言者のスンナ(言行)が、墓場での礼拝を禁じている」
*16:こちらは銘板の写真を撮りそびれたのですが、記憶とチケットの地図、Yandex mapsの地図/street viewを突き合わせるとQutlug‘ Murod inoq madrasasiだったはず。
*17:https://www.khivamuseum.uz/uz/qutlug-murod-inoq-madrasasi
*18:https://www.khivamuseum.uz/uz/qutlug-murod-inoq-madrasasi
*19:https://uz.wikipedia.org/wiki/Olloqulixon_madrasasi
*20:要出典。一応、Tosh hovliの入り口の銘板には1830年代の紀年がありました。
*21:もう片方のゾーンは午後に訪れます。というかこの時点では存在に気が付いていなかった。。。
*22: https://www.arukikata.co.jp/web/article/item/3000848/
*23:ちなみに翌日ブハラで食べたプロフはとっても美味しかったです。
*24:ちなみに後でTosh Hovliで見たワクフ文書の石碑は、解説によるとペルシア語とのことでした。
*25:https://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/cande/cal_convert.cgi を利用。
*26:この一文、このワクフ文書が書かれた年に新しくワクフが設定された年であることを陰に仮定しているので、やや論理に飛躍があります。
*27:参考文献[5]p.149「フワーリズミーKhwarizmi(780頃~850頃)らは代数学と三角法を開発し」
*28:参考文献[5]p.213「9世紀のフワーリズミーal-Khwarizmiは, 数学・天文学で卓越した業績をあげ, 彼の著作は中世ヨーロッパでも高い権威をもち, 英語で演算規則を意味するalgorithmは彼のラテン名Algorismumsに由来する。」ちなみに、これに続けてフワーリズミーがホラズム出身であることが述べられています。
*29:解説にはA cover of drainage systemとあり。
*30:"Language: persion"と書かれてたけど、たぶんpersianの誤植...? キリル文字ウズベク語表記は"Тили: форсий", ロシア語表記は"Язык: Фарси"だったので、おそらくペルシア語かと思います。
*31:参考文献[3]p.464「ペルシア語文学」の項「韻文の文学作品ばかりでなく, 地理書《世界境域の書》(10世紀)や歴史書《バイハキー史》(11世紀), ペルシア語訳《ブハラ史》(12世紀)などさまざまな分野で散文作品が数多く著されるようになり, ペルシア語は行政語としても広く使用されるようになった. ペルシア語の使用はイランと中央アジアだけにとどまらず, 」
*32:参考文献[3]p.464「ペルシア語文学」の項「13世紀のモンゴル時代になると, ペルシア語は, 東はモンゴル高原から西はアナトリアに至るまでの広大なモンゴル帝国領内の共通語とされ, 中央ユーラシアにおけるリンガ・フランカとしての地位を確立した.」
*33:参考文献[1]p.419「チャガタイ語」の項 「ナヴァーイーが『二つの言語の裁定』の中で述べていることによれば, 当時においてテュルクの人々は皆「サルト語」すなわちペルシア語に堪能であるのに対し, サルトの人々(イラン系住民を指す)は「卑しい者から貴顕まで, 無学な者から学識者まで, 誰もテュルク語を話せないし, 話された意味を理解しない」という状況であった. このことは, テュルク語話者とペルシア語話者との間の共通言語が実際にはペルシア語であったことを明確に示しており, チャガタイ語が公的な言語としての地位をもつものではなかったことがわかる.」
*34:参考文献[3]p.465「ペルシア語文学」の項「中央アジアでは, ティムール朝期以降, しだいにチャガタイ語が文章語として使用されるようになる. しかし, その普及の度合いは地域によって差があり, テュルク系住民の間でも依然としてペルシア語が文章語としての地位を保っていた地域は多い. 例えば, いわゆるウズベク3ハン国の支配が確立した18~19世紀には, 代々の君主の事績を記した歴史書は, ヒヴァ・ハン国ではチャガタイ語で, ブハラ・アミール国ではペルシア語で, コーカンド・ハン国ではペルシア語とチャガタイ語の両語で書かれていた. とくに, ペルシア語話者住民の多かったブハラ・アミール国では, 1920年のアミール国崩壊までペルシア語が公用語であった.」
*35:参考文献[3]p.335~p.336「チャガタイ語文学」(16世紀以降のチャガタイ語の広まりについて)「ただしこのようなチャガタイ語の広まりは, それによって書かれた文学作品が広く愛好されていたことによる面が大きく, 外交や行政の言語といった公用語としての役割を広域的に果たしていたかどうかについては, なお検討の余地があろう.」
*36:参考文献[6]p.26右上図とキャプション「チギリは、畜力を利用した揚水車輪。1930年頃のホラズム地方では、約4万台のチギリが稼働し、耕地に水をもたらしていたとされる。」
*37:参考文献[1] p.256「水利と灌漑」の項。「畜力を動力源とする揚水車輪チュクル(ロシア語でチギリ, 図1)」
*38:現地解説パネル "Pakhlavan Mahmud (1247-1326)", "Pakhlavan Mahmud was an humanist philosopher, poet, hero and craftsman."
*39:参考文献[1]p.359「1322年に没したホラズム出身の毛皮職人, 詩人, 力士として知られたパフラヴァン・マフムード」
*40:wikipediaの表記だとAbu al-Ghazi Bahadur https://en.wikipedia.org/wiki/Abu_al-Ghazi_Bahadur
*41:カード明細からの逆算
*42:参考文献[6] p.33「ウズベキスタンには、2017年現在、約80万3千人のカザフ人が暮らしている。これは、ウズベキスタンの全人口の約2.5%にあたる。」
*43:参考文献[6] p.33「かつてカザフ・ハン国の勢力がタシュケントまで及んだことを反映して、」
*44:参考文献[6] p.34「ウズベキスタンでカザフ語学級を有する学校は、2002年度の581校から2007年度の505校へと徐々に減少した。」
*45:解説パネル曰く「Chigir. The water-lifting device in Khorezm.」
*46:というかこの展示の大半の写真を撮影したのはDevanovかもしれないのですが、解説には明言されていなかったので、確証はないです。
*47:コトバンク ヌルッラバイ宮殿「ウズベキスタン西部、ホラズム州の都市ヒバのディシャンカラにある宮殿。20世紀初めに建造。」https://kotobank.jp/word/%E3%83%8C%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%90%E3%82%A4%E5%AE%AE%E6%AE%BF-672842