世界史ときどき語学のち旅

歴史と言語を予習して旅に出る記録。西安からイスタンブールまで陸路で旅したい。

2024年ウズベキスタン旅行 8日目 : サマルカンド観光

2024年ウズベキスタン旅行8日目(2024-05-03)の記録です。 この日はサマルカンド観光1日目! サマルカンドと言えば青の建築物が有名で、実際シャーヒ・ズィンダ廟はその期待を裏切らないものでしたが、他にも一見地味ながらも魅力的なスポットもありました。 この日見たものの中では、科学史好きの自分としてはウルグ・ベク天文台がイチオシ(博物館が併設されて意義などが分かるのが良い。)。

今回の旅全体のまとめはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

シャーヒ・ズィンダ廟

ホテルで朝食後、Yandex goで街の北西のシャーヒ・ズィンダ廟群に向かいます。 レギスタン広場あたりからで、タクシー代は20千So'm(comfortを利用しました。)。

この日のサマルカンドは曇り空。 前日まではヒヴァとブハラと「日差しが強い...暑い...」と散々暑さに文句を垂れていたのですが、この日は風もあり、少し寒いくらいでした。

ドームを戴いた建物が立ち並んでいるのが外からも良く分かります。 奥の丘に見えるのは墓石とかでしょうか。

門の外にはかつてのハンマームの遺跡*1がありました。 霊廟に隣接してハンマームがあるのも不思議な気が一瞬したのですが、私のあやふやな記憶ではモスクやマドラサなどと公共施設(病院や給食所等)をワクフに基づく複合施設として整備する例がイスラーム圏にあるので、そのようなものかもしれません(たとえばオスマン帝国のキュッリエいろいろとか、カイロのカラーウーンの寄進施設とか。)*2

さて、写真で分かる通り廟に向かうためには道を渡る必要があり、横断歩道と信号があるものの信号は点灯しておらず、

こんな感じの道路を横断することになったので動体視力と判断力を試されました。 この旅で信号無視して道路を横断する能力が上がったかも。

さて、今更ですがここで歴史の予習。 シャーヒ・ズィンダ廟群と総称されていますが、「シャーヒ・ズィンダ」(ペルシア語で「生きている王」の意)は元来はこの中の特定の1つの廟、具体的にはクサム・イブン・アッバース*3の廟を指していたのですが、時代が下るにつれて周りに次々と廟が建ち、それらも含めてシャーヒ・ズィンダ廟群と呼ばれるようになったとか*4。 ティムール時代のティムールの縁者の廟が有名なのでそれくらいの時代創建かと思いきや来歴はもっと古いようで、前身となる建築群は11世紀のカラハン朝時代に建てられたそうです(と言っても、現存する建物はチャガタイ・ウルスの時代以後のもののよう。)*5。 現地で見た銘板でも、建築年代が記載されているものは、14世紀後半~15世紀頃のものが多かった気がします。

入場料(1人40千So'm)を払い、中に入ります。 ちなみにこの時点で朝9時頃なのでまだ空いていますが、出るころ(10時半頃)には大混雑でした。

階段を登りきると、見事な青で彩られた空間に迎えられます*6

特に、一番奥のエリアはタイルで彩られた霊廟正面に三方を囲まれており、視界いっぱいの青が印象的でした。

とは言え、こうやって見渡してみると、全ての廟がタイルで覆われているわけではなく、また、タイルがある廟でもタイルは正面やドームのみの場合も多いことが見て取れます*7。 また、どれも霊廟本体は四角い建物の上にドームを戴いていることが分かります。 2日前に訪れたブハラのサーマーニー廟もこのタイプでしたね。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

これはイスラームの墓廟建築あるあるの形式だったはず(要出典)。

ちなみに日本のゴールデンウィークと同じく中国も5/1あたりには連休があるからか、ここでは中国からの観光客とも多数会いました。 彼らどうしの中国語の会話で「日本からの人多いね」というのが聞こえてきたので、中国語で「日本も今は連休なんですよー」と話したりしました。

タイル

さて、こちらの霊廟群のタイル、近づいてみて見るといくつかの種類があることが見て取れます。

まずはモザイクタイル。単色のタイルを切って貼り合わせ、絵柄を表現したものです。 とんでもなく手間がかかりそう。 だし、これでアラビア文字のような曲線を表現しているのは恐れ入ります。 これなんかもお見事。

続いて絵付けタイル。 四角いタイルに釉薬で絵を描いて焼成したものです。

そして最後にこちら。 彫刻を施した上で施釉した(たぶん)タイル。 こちらなんかは前面の装飾ほぼ全体にこの種のタイルが使われているのが見て取れます。

モザイクタイルと絵付けタイルはイランなど他地域のイスラーム建築でも見かけたのですが、このタイプのものはあまり見かけなかったので印象に残りました。 帰ってから調べたら、参考文献[2]p.562「青のドーム」の項曰く「この地と時代に特有なのは, 一つの部材に詳細な彫刻を施し色付けした陶板タイルで, ムカルナスと呼ばれる鍾乳石飾りの部品をつくることもある. 中国の磚との共通性がうかがわれ, 新彊イーニンのトゥグルク・ティムール廟にも同じ技法が確認できる. 西のイランと東の中国との合間にあってこその技法だが, 1360年代からわずか40年ほど用いられただけで, 上記2主の技法が主流となる.」とのこと。

なお、この文脈の磚は、おそらく画像磚(表面に彫刻などを施してから焼成した煉瓦?という理解)を指していると思われます。前年に中国の宝鶏の博物館で見た宋代のものを思い出しました。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

廟内部

基本的に、廟の内部には立ち入りOKでした。

(断面で見て)四角い建物に円のドームを乗せるわけですが、だいたいの廟では四角の四隅にアーチ(いわゆるスクィンチアーチ)をかけて上に8角形を作り、その上にドームを乗せていました。 このへんの話はブハラのサーマーニー廟で書いたので、詳細はそちら参照。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

左下の写真のものはちょっと違うのですが、ムカルナス(鍾乳石飾り)でうまい具合にせり出しを作ってドームを乗せてる感じなんですかね...たぶん...?(よくわかってない)

また、下2つは内装がだいぶ綺麗(傷みがない、という意味)で、後から修復したものかもしれません。

こちらはKusam Ibn Abbas廟(上述した本来のシャーヒ・ズィンダ)の建物の一部。

何やら古めかしい木製の部材も露出しており気になります。(一番下の行はもしかして文字が刻まれてるのかな...?)

ここは他の霊廟と比べて内部が大きめで、さらに奥に進むと、

ひときわ華やかに装飾された部屋がありました。 写真で見て分かる通り、中には椅子が設けられており、ある程度人が集まったところで朗誦が始まり、周りの人を見ると、両手を顔の前に(水をすくうような形で)上げて朗誦が終わったらまるですくった水を顔にかけるような動きをしていました。 あとで調べたところ、イスラーム圏のduaと呼ばれる祈祷/祈願のようです。 ヒヴァのPakhlavan Mahmud Mausoleumの朗誦もそうですが、やはり魅力的でかっこいい節回しでした*8

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

なお、↑の写真ではタイルなどで装飾された内装を主に挙げましたが、霊廟によっては、無地の白漆喰だったり、煉瓦がむき出しになったりしているものもありました。

墓石など

霊廟内部にあるものとは別に、露天に並べられた墓石も目に付きました。 発掘で見つかったものとかかも?(特に根拠のないあて推量です。) 煉瓦を組み合わせたものと石造りのものの違いはなんだろうかとか、表面にびっしりと文字が刻まれてるものも多いけど何が書いてあるんだろうかとか気になります。

遠くに見える巨大な建造物は、おそらくビビハヌムモスクかと思います。 また、手前には墓地らしきものが広がっています。「聖者の墓近くに埋葬されるとご利益がある」という信仰?があるとどこかで聞いた気がする(要出典)ので、その慣習が今も息づいているのかなと推察されます。

ウルグ・ベク天文台

再びタクシー(Yandex goのcomfort。お代は15.5So'm。)でさらに北西に足を延ばし、ウルグ・ベク天文台跡に向かいます。 天文台跡の入場料はあったはずですが、メモに残ってなくて忘れました。。。

天文台の遺構はほんの一部で、分量的には併設された小さな博物館がメインです。

ざっと予習しておくと : ウルグ・ベクはティムールの孫で、ティムール朝の第4代君主。 その在位は2年ほどと見かけ上は短い*9のですが、在位の前からサマルカンドとマーワラーアンナフルを統治しており、実質的にその治世は40年に及ぶとのこと。というのも、君主で父のシャー・ルフ(ヘラートを拠点とした)から当地の統治を任されたからだそう*10*11。 学問を重視した君主として知られ、マドラサの建築を進める*12だけでなく、自らもマドラサの授業に参加し、教師や生徒に試問を課していたとか*13。 ちなみに後で訪れるサマルカンドのレギスタン広場には有名なウルグ・ベク・マドラサがありますが、ブハラにも同名のマドラサがありましたね。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

さてさて、そんな彼の庇護のもとで栄えた学問の代表的なものが天文学で、この天文台はその象徴とも言えるかもしれません。

博物館

博物館の展示の冒頭はティムール朝自体の話から始まり、ウルグ・ベクの生い立ちが紹介されます。

こちらは当時(15世紀)のマドラサで使われた教本?のよう*14。 言語が何なのか(アラビア語なのかペルシア語なのかはたまたテュルク系の言語なのか)気になります。 ただ、15世紀の本にしては、展示ケースがどえらい雑な気がするので、レプリカかも...?

そしてこちらがこの天文台の復元模型。

ちなみにイスタンブールイスラーム科学技術歴史博物館でも見かけていたのを思い出しました。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

巨大な四分儀*15として利用されていたそうです。 解説パネル曰く子午線方向を向いているとのことなので、太陽の南中高度を正確に測るのが目的かなーと想像しました(自信はないです。)。

他にも様々な機材を用いて観測が行われ、それらの観測に基づく推計値の精度の高さが誇らしげにパネルに展示されていました。

さて、これらの観測の成果をまとめたものが、キュレゲンの星表/天文表/天文便覧と呼ばれる書物*16暦法は興味があるので、技術的な話も勉強してからウルグ・ベクの功績を振り返ってみたいなーと思いつつ、なかなか手を付けられていなくてもどかしい。

ウルグ・ベクの死後当地の学術コミュニティは衰退してしまったそうですが、天文台の責任者のアリー・クシュチが蔵書と共にイスタンブールに渡ります *17*18

そして、ウルグ・ベクの星表は、17世紀にはヨーロッパでも翻訳・出版され知られることとなりました。 あとは中国明代やそれを経由して韓国の天文や暦法の基礎になったとも書かれていました。 このへんの伝播経路の詳細とか、後世の各地(特にヨーロッパ)の天文学に実際どれだけの影響を与えたのかなど気になります。

さてさて、このような成果を誇る天文台ですが、長らく行方知れずとなっており、発掘によって再発見されたのは、1908年のこと。 ロシアの考古学者Vyatkinの手によるものでした。 興味深いのが、Vyatkinは発掘を行う前に、天文台の所在を記したワクフ文書を読んでいた*19らしく、もしかしたらワクフ文書のおかげで発掘する場所を絞り込めたのかも? こういう、文献学と考古学の接点みたいな話が大好きなので、個人的には興味をそそられます。

展示の最後は、ウルグ・ベクの功績を国として顕彰することや、ウズベキスタンの宇宙開発や天文学についてのコメントで締められています。 やっぱりこの博物館とかが整備されたのも国威発揚みたいな面があるんだろうなーと感じます。

天文台

天文台跡は博物館の真向かいにあります。(写真の建物はもちろん当時のものではなく、遺構を保護するために後で作ったもののはず。)

こちらがお待ちかね(?)の天文台の遺構! 解説によると、半径40mの円弧の一部で、これが四分儀(or六分儀?)の一部を構成していたようです。 これだけ見るとなんとも地味な遺構ですが、ここまでの展示を頭に入れてから見ると感慨深いです。 長さを測る精度が一定という条件なら、こうやって巨大な円弧を用意すれば角度の測定精度が上がる、というのはまあ自然な考えだと思うのですが、そのためによく600年前に人力でこれを作ろうと思ったなと感嘆の思いを新たにしました。 今更ですが、あの時代にこうまでして高精度の天文観測を行う目的がなんだったのかきちんと理解していないので、ここもきちんとさらっておきたい*20

敷地にあったウルグ・ベクの銅像。 この銅像の前で記念撮影をする際に、像のつまさきを触っている方を何人か見かけました。

その影響か、つま先がやや摩耗してるようで面白い。

昼食

天文台から歩いてほど近いレストランで昼食にします。 milliy taomlarという言葉はこの旅で何回か見かけました。millatが国家(nation)とかの意味、taomが料理(larは複数形語尾)ということは知っていたので、milliy taomlarは意訳すると郷土料理の意味のような気がします*21

メニューがキリル文字*22だったり店員さんからはロシア語で話しかけらたりで一瞬焦ったのですが、こちらがウズベク語で返したらウズベク語で話してくださいました*23。 と言っても「これは羊肉ですか?」みたいな簡単な質問くらいですが。

ナン、サラダ(たぶんアチュクチュチュク)、サモサ、ショルパ、お茶を注文。 2人で80So'mでした。

ちなみにグラスに入ったヨーグルトみたいなものは、「ケフィール」と言われました。

アフラシアブの遺跡と博物館

レストランから再びYandex Go(comfort)で、アフラシアブに移動します。お代は10千So'mでした。 遺跡と博物館はすぐ隣にあります。

遺跡

まずはアフラシアブ遺跡に。

今でこそサマルカンドと言えばティムール朝時代に築かれた建物で有名で、アフラシアブ遺跡はそれらの建築物群からは離れた場所になっていますが、ティムール時代よりも前、モンゴル帝国に破壊される前のサマルカンドは、ここアフラシアブの丘にありました*24*25

その歴史は古く紀元前6世紀まで遡る*26とのこと。 ということで、テュルク化やイスラーム化前のソグド人の文化を垣間見ることができる遺跡です(後述。)。

とは言え、目の前に広がる景色から往時のサマルカンドの姿を思い浮かべることは難しい(少なくとも私には)ので、遺跡は軽く眺めるだけにして博物館に向かいます。

ちなみに遺跡で動物の糞がやたらとあると思ったら、巣穴のようなものと、プレーリードッグのような生き物を見かけました(スマホで拡大しているので画質粗め)。 穴掘られて遺跡大丈夫なのかちょっと心配になりました。。。(もう発掘が済んでるなら問題ないのかも?)

博物館

博物館の入場料は1人40千So'm。

韓国のODAで数年前にリニューアルされたばかりのようです。 実際、今回のウズベキスタン旅行で見た中では一番きちんとした博物館だったかもしれません*27。 とは言え、見学中に一度館内の照明が落ちるなんてこともありましたが。。。

この博物館一番の見どころはさきほどの遺跡から発掘された壁画だと思うのですが、それは後回しにして、まずは一通り展示を見て回ります。

発掘の経緯についての解説。 最初の発掘は1873年に行われて、その後近年まで断続的に発掘・調査が行われているようです*28。 ちなみに1904年からの調査では、あのV.V. Bartold*29やV.L. Vyatkin*30となんとも豪華な面々が責任者を務めていたそう。

ソグディアナの歴史や、ソグド人の文化も解説されています。 こうして見ると、アケメネス朝、マケドニア王国、突厥などなど様々な勢力の争奪の的となってるなーと改めて感じます。 ちなみに右の写真の左上、左から2枚目の写真は、西安郊外で発掘された安伽墓のものと酷似しています*31西安の陝西歴史博物館で見たときの旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

展示品は壁画以外は地味目なものが多いですが、興味を惹かれるものもありました*32

調理用の囲炉裏やかまど...かと思いきや、ゾロアスター教の祭壇と書かれていました。 この見た目から祭祀用のものだと判断できる理由が気になります(少なくとも2枚目は上に鍋を乗せる開口部がないので、調理用ではないのは分かる気がしますが。)。

ソグド文字の刻まれたおもり。文字好きには気になる品です。 もしや重さが書いてあるのかも? であれば、当時の度量衡のことがうかがい知れたりするのかも? あとは周囲の文化圏の度量衡と比べても面白いかも(アッバース朝とか唐王朝とか。)。

ソグド文化らしさを感じたのはこちらの骨壺(解説パネル曰く、ossuary)。 鳥葬後に骨だけを集めてここに納めていたものと思われます*33。 日本語で骨壺と言ったときにイメージするものよりだいぶ大きい*34ですが、火葬ではなく骨をまるのまま?納めるのだとしたら納得感のあるサイズです。

さて、最後に博物館中央部に鎮座する壁画とご対面です。 解説パネルによると7世紀のもので、当時の宮殿(?)の広間の4面の壁に描かれたものだそうです。

少し離れた場所から見ると、まずは青の下地が印象的です。

現地解説パネルや、参考文献[1]p.29, [2]p.552の記載によると、壁画のテーマは、サマルカンドの王が先王のための儀式を行う様子、唐などからの使節団を迎えたときの様子、唐の舟遊びや狩猟の様子、を描いたものだそうです。 いわゆるシルクロードの壁画は仏教画などが多い気がするので、こういった世俗の様子を描いたものは珍しい気がします(私が知らないだけかも。)。

傷んではいるものの、部分部分を見ると、衣服の図柄など細かい部分がくっきり残っている個所もあります。

舟遊び(?)の様子を描いた部分。右側の人物が抱えているものは弦楽器の頭部のように見えます。

ちなみに解説には壁画の人物としてVarkhuman、武則天、唐高宗など書かれていましたが、どうやって同定したのか気になります*35

描かれた人物の髪型や服装などから民族や地位を特定したり、などなど様々な話題もあるのですが、理解不足なので割愛します。詳細は参考文献[1]p.29, [2]p.552など参照。 あとはこちらの本にも詳しい記述がありそうです : ソグド人の美術と言語 ―臨川書店

街歩き

いったんタクシーで中心部に戻り、徒歩でぶらぶら。

写真右奥の広告?は反汚職をうたうもののよう。 隣国カザフスタンについてはこんな本もあるけど、ウズベキスタンはどうなのか気になるところ。

新版 〈賄賂〉のある暮らし - 白水社

気温もちょうどよく、緑も心地よく、散歩するのが気持ち良い。 町に緑が多いなと思ったら、サマルカンドの降水量は年間380mm近くと、ブハラ(年間降水量約130mm)と比べると水に恵まれているようです*36*37

ちなみに、さきほどから歩いているこの通りはレギスタン広場前を東西に走る通り(google mapsにはRegistan St.と表示)なので、他と比べてかなり綺麗に整備されているかと思います。

歩道が広いので、レストランがはりだしてたり。

アイニーの家博物館

レギスタン通りを歩いて着いたのが、こちらのサドリディン・アイニーの家博物館。 入場料25千So'm。

ブハラ・アミール国の改革を求める運動に加わり、後にソヴィエト体制下でタジク文学の創始に貢献した文学者、アイニーがかつて住んでいた家が博物館として公開されているようです。 アイニーの生涯については以下のブハラの旅行記で軽く触れたのでここでは割愛。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

さて、ブハラで活動していたはずのアイニーがここサマルカンドに移り住んだ経緯ですが : アイニーは「青年ブハラ人」の一員としてブハラで活動していたものの1917年にアミール国の官憲に逮捕されてしまい、釈放後に移り住んだのが、当時ソヴィエト政権下にあったここサマルカンドの街とのことです*38

建物は床に座るタイプの伝統的な部屋もあれば、

机と椅子の西洋式の部屋もあり。 日本で言えば和室と洋室があるような感覚でしょうか(ただ、床に座るタイプの部屋も、床部分は地面から一段上がった構造だったと思います。)。

なお、こちらの博物館、見学時にはスタッフの方が一緒に歩きながら解説してくださるスタイルでした。 ただ、スタッフの方が話せる言語がタジク語・ウズベク語・ロシア語だったので、私の弱弱ウズベク語をgoogle翻訳で補ってなんとかやりとりしたり、ARアプリによる英語解説があると教えて下さったのでそちらも利用したりしました。

ちなみに、スタッフの方はタジク系の方。 やはりタジク文学の創始者の博物館だからかな、と思ったのですが、そもそもここサマルカンドはブハラと共にウズベキスタンの中ではタジク系の割合が多いと読んだ記憶があります*39

当時の写真などの資料も展示されています。 文学(特に近代以降のもの)の予備知識ほぼなしで行ってしまったので、今思うと少しもったいなかったかもしれません。 なお、アラビア文字で書かれた資料があったのでスタッフの方に訊いてみたところ、アラビア文字タジク語は読めないそう。タジク語の読み書きにはキリル文字を使うと仰っていたと思います。

このようなウズベキスタンの言語事情の話については、こちらの記事が興味深かったです : 144. ウズベク語、ロシア語、タジク語、カラカルパク語…。とにかくカオスなウズベキスタンの言語事情 | 地球の歩き方

一通り見終えて次の目的地に向けて歩きます。

こちらは道中で出くわしたソヴィエト感溢れる壁画(?)。

ルホボド廟

かつては複合施設として他にもいくつかの建物が連なっていたようですが、現在はドームをいただいたこの霊廟と、モスク?や門などいくつかの建物が残るのみでした。 タイルなどもあまりなく簡素な建物ですが、四角い部屋→正八角形→ドーム、と移行部の様子が外からでも分かるところは建築好きには嬉しい。

霊廟内部に入るのは有料で、お代は5千So'm。 スタッフのおばさまにお札を渡すときにウズベク語で数字を言ったら、ウズベキスタンで働いてるの?と訊かれたのでお世辞かもですが嬉しい。 被葬者はティムールが崇敬したイスラーム神秘主義者の霊廟のよう*40。 また、スタッフの方は被葬者について、Married with Chinese princessと説明してくださいました。 地域を超えたつながりが見えて興味深いです。

ドーム内部は白漆喰で簡素。

ちなみに私はどうも裏側から入ってしまったようで、正面と思しき門もありました。 写真右はたぶんモスク。

近くで近代の人物の銅像を見つけました。

英語の解説もあったので読んでみたところ、Hoji Muin Shukrulloevなるジャディード知識人?を記念した銅像のようです。 解説曰く : ルホボド・モスクのイマームであった祖父に育てられ、ルホボド・マドラサで教育を受けた後、新式学校の開設や、劇作家やジャーナリストなどの文筆活動で活躍したそうです。 大粛清でシベリアの収容所に送られ、病と飢えで亡くなったとのこと。 ウズベキスタン(に限らず中央アジア)の19世紀末から20世紀前半の知識人、このパターンが多いな。。。*41

ウズベキスタン中国友好博物館

ウズベキスタン中国友好博物館。 twitter(X)で露清銀行の支店を利用した博物館と聞いて行ってみました。 入場料35千So'm。 入場時に受付の女の子に年齢を訊かれたので、何歳に見える?と聞いたら実年齢-9歳で答えてくれました。 本当に若く見えてるのか、手心加えて若めに答えてくださったのかは不明。。。

アフラシヤブでも見た、ソグド人のものと思しき骨壺。 こちらはなかなか凝った意匠。

展示は陶磁器や絹織物などが多かったです。

中国産の陶磁器。 これ、いつどうやって入ってきたものなのか気になります(鉄道敷設前だとしたら重いし割れやすいし大変では?という気がします。)。

露清銀行の話が書いてあるかなーと思ったのですが、そういった内容の展示は特にありませんでした。 2階には企画展?でシルクロードの遺跡や絹織物の歴史を紹介する展示(主にパネル展示)もあったのですが、そちらは割愛。

街歩き

てくてく歩いてホテルに戻ります。

アカデミックガウンで胴上げしたり記念写真を撮ったりしている人たちがいました。 Samarkand State University と書かれていたので、大学の卒業式とか?

バスと、ウズベキスタン名物(?)のダマス。 Yandex Goがとても便利なので、思えば今回の旅だと長距離鉄道とタシケントの地下鉄以外は公共交通機関に全然乗らなかったですね。 次回はせっかくなので体験してみたい気もします。

ちなみにバスは新しいタイプの車両も見かけました。

コカ・コーラペプシのパラソル(?)は街中や観光地周辺でやたらと見かけました。

夕食と夜の散策

ホテル近くのレストランで夕食にします。

お昼そこそこ食べたので、軽めにラグマンにします。 英語ができる店員さんは限られていたので、フォークください、とかをウズベク語で伝えたりもしました。

混雑していたので、席は東アジア人っぽい方と相席。 相席の方は頼んだシャシュリクが多すぎたらしく、「もしよかったら1切れどうぞ」(英語)と話かけてくださいました。 少し話したところ、韓国の方で、今はキルギス在住でKOICA?の派遣で教師をしているそうです。 なんとキルギスから10時間以上かけてバスで来たとのこと。 KOICAについては「日本ならJICAがあるでしょ?それの韓国版」(意訳)と説明してくださり、日本のことよく知ってる! と思ったら、なんとJICAの人がキルギスにもいたそう。

レギスタン広場ではライトアップされた建物が濡れた地面に反射し幻想的な雰囲気を醸し出していました。

翌日に続きます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

*1:現地解説パネルにはHammom Tahoratxonaと記載あり

*2:要出典。後者については https://qalawun.aa-ken.jp/ 参照。

*3:預言者ムハンマドのいとこで中央アジアでの布教に従事したとされるそう。ただ、このへん伝説が混じっているようで、どこまで本当かわからないです。

*4:聖者廟にあやかってその周りに墓が建つのはイスラーム圏あるあるな気がします。要出典。

*5:以上、この段落の内容は参考文献[2]p.239 「シャーヒ・ズィンダ」の項より。

*6:2枚目は後で撮ったものなので人が多め。

*7:ということで、巨大な建物ほぼ全体をタイルで覆った、サマルカンドのレギスタン広場のマドラサや、イスファハンのシャーモスクとか、ものすごく贅沢なのかなーと想像されます。

*8:あの記事を書いたときはduaという言葉にたどり着けなかったのですが、今回は人々のジェスチャーとかを詳しく書いてperplexity AIに訊いたら分かりました。技術の力はすごいし、適切な情報を与えるの大事。

*9:なんと息子に暗殺された

*10:参考文献[2]p.182「ウルグ・ベク」の項「王朝の君主としての治世はわずかであったが, 父シャー・ルフが政権の座に就いた1409年からサマルカンドを中心とするマ・ワラー・アンナフルの統治を委ねられ, ほぼ40年にわたって半ば独立君主として君臨した.」

*11:参考文献[3]p.224「一四〇九年、サマルカンドを占領したシャー・ルフは、当地を十五歳になる長子ウルグ・ベクに委ね、ティムールの寵臣であったシャー・マリクを後見役に任じてヘラートに戻った。」「自らの本拠地であったヘラートを首都としたシャー・ルフは」

*12:参考文献[1]p.87「ウルグ・ベク」の項。「その他, ウルグ・ベクは現存するサマルカンドとブハラのマドラサをはじめとして, モスク・校風浴場・スーフィー道場などの公共建築物を建て, 学者・文人の保護者として学術の発展に寄与した.」。ここで言及されているサマルカンドマドラサが、このウルグ・ベク・マドラサのことかと思います。

*13:参考文献[2]p.183「ウルグ・ベク」の項「またカーシーは父に宛てた手紙の中で, ウルグ・ベクが週に1, 2回はマドラサでの講義に参加していたことを伝えている. 彼は教師や学生に問いかけ, 彼らを試したり, その問答によって教師の入れ替えを行っていたりもしていた.」

*14:展示にはThe samples of teaching books in madrasahs in 15th century.と記載あり。

*15:現地解説パネルにはquadrantとあったので「四分儀」と書きましたが、wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Ulugh_Beg_Observatory にはsextantと書かれています。「四分儀」と「六分儀」の違いについては私は理解していないので、ここは眉につばつけて読んでください。。。

*16:現地解説パネルにはZiji Jadidi Koragoni、英語版wikipediaにはZij-i Sultaniとあり、おそらく同じものを指しているかと思います。

*17:参考文献[2]p.183「ウルグ・ベク」の項。「彼の死後, この地の学術サークルは解体していくが, クシュチはその後にイスタンブルへと渡り, その地にサマルカンドの学術伝統を伝えた.」

*18:現地解説パネル "After the death of Mirzo Ulug Begh (1449) Ali Kuschchi undertook complete management of the work in the observatory. In 1470 he left for Istanbul with the caravan loaded with works, books and the most important, copies of the work “Ziji Kuragoniy”, taken from the observatory."

*19:現地解説パネル

*20:暦が農業のために重要なのはぼんやりと知っているのですが、どれくらいの精度が求められるのかとかはよくわかっていないです。あと日蝕を予測できると王の権威とかは上がるのだろうなー、とか。

*21:一応、google翻訳でもそうなりました。

*22:私はラテン文字ウズベク語を学んでいったので、キリル文字はあまり読めないです。でも親切に写真がついてるので特に問題なし

*23:これ、私が海外の人だから親切にロシア語で話してくださったという可能性もあります。が、もしウズベク母語話者じゃなかった場合はちょっと申し訳ない。。。

*24:参考文献[2]p.552 「アフラシアブ遺跡」の項。「13世紀にモンゴル軍によてて破壊されるまで, サマルカンドのまちはこの丘にあった.」

*25:参考文献[1] p.29~p.30 「アフラシアブ遺跡」の項。「1220年, モンゴル軍によって破壊されるまでの旧サマルカンド.」

*26:参考文献[1]p.30, 参考文献[2]p.552

*27:タシケント国立博物館やティムール博物館は定休日にあたったので行きそびれました。

*28:私のメモの範囲だと、解説パネルに記載のあった調査の記録は最新のものだとearly 2000sまで。ただし私がより新しいものを見逃して/メモし忘れている可能性もあります。

*29:私みたいな素人でも知ってる東洋学者。予習復習の本で何度も引用/言及されているのを見ました。

*30:見覚えのある名前ですね。さっき見たウルグ・ベク天文台を発掘した考古学者です。名前がたまたま一致しているとかでなければ。。。

*31:手元の写真だと完全一致はしなかったので、同一とは断定できなかったです。

*32:本当は土器/陶器の形状についての知識や観察眼があれば、一見地味な土器/陶器でも、時代による変化や外部の文化の影響などが分かって面白いだろうなと思いつつ。。。

*33:解説パネルに鳥葬についての言及はなかったので、あくまで私の推察です。

*34:だいたい長さ50cm~100cm程度だったと思います。

*35:参考文献[1]p.30や[2]p.553によると、壁にソグド語の銘文が書かれており、Varkhumanについてはそこから分かるとのこと。

*36:数字はwikipediaより。 https://en.wikipedia.org/wiki/Samarkand#Climatehttps://en.wikipedia.org/wiki/Bukhara#Climate 。2025-02-10アクセス。

*37:とはいえ日本に比べるとかなり少ないので、街路樹とかはさすがに天水だけでなく水やりがなされている気がします。

*38:参考文献[1]p.7「アイニー」の項。

*39:要出典。確か「ウズベキスタンを知るための60章」に記載があったはず。

*40:要出典。現地で解説パネルは見当たらず。適当にググった情報だと https://www.advantour.com/uzbekistan/samarkand/rukhabad.htm とか。

*41:ナショナリズム故にそういった人々がクローズアップされている、という可能性もありますが。