世界史ときどき語学のち旅

歴史と言語を予習して旅に出る記録。西安からイスタンブールまで陸路で旅したい。

2024年ウズベキスタン旅行 5日目 : ブハラ観光

2024年ウズベキスタン旅行5日目(2024-04-30)の記録です。 古くからオアシス都市として栄え、ソグド人の都市国家、サーマーン朝、ブハラ・ハン国と様々な国・王朝の中心となり、歴史を積み重ねた街です*1。 この日を含めてブハラだけで3日近く滞在するので、ゆっくり観光します。

今回の旅全体のまとめはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

朝食

前日が移動日だったので朝はまったり8時前まで寝て、朝食に向かいます。

ホテルの中庭エリア。 既にして日差しが強い。

朝食は洋風メニュー?

まずはホテル近くのラビハウズに向かいます。

ラビハウズ近辺

ナーディル・ディヴァンベギ・ハナカ

まずはハウズ(貯水池)西側のこちらの建物。 入場料は確か1人20千So'm。

広角で撮ったので大きめに見えますが、後で訪れるマドラサよりかは横方向には小規模です(中庭もなし)。 扉の横の銘板によると1619年~1620年に建てられたものだそう。ティムールよりはだいぶ後、ブハラ・ハン国の時代ですね。

着いたのは9時過ぎで上の写真の通り扉も閉まっていたのですが、写真を撮った直後くらいにスタッフの方が出勤してきて開けてくださいました。

中の解説パネルによると、こちらの建物はイスラーム神秘主義教団の修道所だったところとのこと。 修練や教学の場であるだけでなく、生活の場でもあったようです*2

内部は現在は小さな博物館として利用されています。 解説によると、展示物は、近郊のブハラオアシス(特にその中心都市のVarakhsha)からの出土物が多いようです。

水道管と壺。水道管は10~11世紀のものだそうです。 前近代の上水道技術に興味があるので、地味ながら気になります。

こちらはアナヒタ神の像。 3~4世紀と古い時代で、イスラームの誕生・到来よりも前の品です。 2年前のイラン旅行の際にビシャプール遺跡で見たアナヒタ神殿*3が印象に残っていたので、名前を見てビビビっと反応しました。 この地域もやはりペルシア文化圏なんだなーというつながりを感じられて嬉しいです。

ミフラーブの上の華やかな天井。 細かいアーチネット(?)を組み合わせた意匠は、割と新しいものな気がする...? ハナカ内部は、ここ以外は白漆喰塗でシンプルな見た目でした。

中央に置かれた模型、ブハラ旧市街を俯瞰できて、これからどこに訪れるかを整理するにかなり良かったです。 ちょうど団体客も来て、ガイドさんが「この後ここに行きますよ」みたいな説明をしていた気がします。

30分ほど滞在しました。

出て道を渡ったところでATMを見かけたんですが、銀聯が使えるのが面白いなと思いました。 中国からの観光客も多いのかも?

クカルダシュ・マドラサ

お次は道路向かいのこちらのマドラサ。 銘板によると1579年建造とのことで、さきほどのハナカより古め。 基本は無料ですが、一部に有料の展示(後述)があり。

内部はほぼ民芸品店。

品物は金属細工からスカーフ、刺繍などいろいろ。

書見台(写真右)には心動かされたのですが、「読む本、だいたいおさえておかないと閉じるタイプの本だし、出番がないのでは?」と冷静になって思いとどまれました。

刺繍のお店(上の写真とは別の)には日本語が少し話せる方もいたので、少し話しました。その人のお母さんが刺繍の先生でザイナブさん?という方で、日本語のgoogle検索で出てくるくらいには有名だそう*4。 なお、私には刺繍の良しあしは全く分からないのですが、同行者(刺繍経験者)曰く質の特に良い品とそうでない品があり、良いものはやはり高かったです(100-300USDくらい)。 ところで、この記事を書くまで、ウズベキスタンの刺繍のことを「スザニ」と雑に呼んでいたのですが、正しくは刺繍は「カシュタ」*5で、「スザニ」は大判の壁掛け(に刺繍を施したもの?)を指すようです*6

中庭。

中庭の奥の方に進むと、展示スペースもあります。 こちらは有料で、確か20千スム。

往時の学生?の小部屋の様子が再現された部分のよう。 扉枠や天井が低いところもありました。 マドラサの部屋でもここまで小さい部屋が開放されているところは珍しい気がするのでなかなか興味深い。 (ヒヴァのマドラサで博物館になっていた部屋はここまで狭いものはなかったと思います。広めの部屋は教室/教員の部屋とかで狭い部屋は学生の居室とか?) 奥の肖像に描かれているのはサドリッディン・アイニー、次に見る文学についての展示の主役の1人です。

ということで、文学についての展示。 主に19世紀末から20世紀前半のウズベキスタンの文学に貢献した人々についての展示のようです。 パネルはウズベク語のみのものが多かったので撮影だけして後でgoogle lensで読んだのですが、作品からの引用や、他の人々からの賛辞などが多く、生涯や業績の説明はあまりありませんでした。

展示の中でも扱いが大きいのは、先ほども触れたアイニーと、アブドゥラウフ・フィトラト。 2人の人生の前半を見ると、2人ともここブハラの人で、ミール・アラブ・マドラサ(この後午後に訪問します。)で学び、そしてブハラの社会変革の運動(「青年ブハラ人運動」)に参加する、という共通点の多い半生を送っていたようです*7

左下の写真は、青年ブハラ人運動が弾圧を受けた際に、アイニーが鞭打ち刑を受けたときのものとのこと。

こちらはフィトラトについての展示。

ソヴィエト連邦成立後、特に1924年の民族・共和国境界画定後は2人は異なる道を歩むようになったそう。 具体的には、アイニーはタジク/ペルシア文学の、フィトラトはチャガタイ/ウズベク文学の創始/確立に努めたとのこと*8。 もともと中央アジアはペルシア語話者とテュルク系言語話者が混在し、ここブハラの街では長らくペルシア語が公用語の地位を保持していた*9ことを考えると、民族・共和国境界画定によって引かれた境界(タジクとウズベクという2つの共和国と、タジク人とウズベク人という2つの民族)と、ブハラの街がウズベク人の国に属すとされたことには、やや人為的なものも感じます*10。 なお、アイニーはソヴィエト体制下で高い評価を受けて生涯を全うしたものの、フィトラトは汎テュルク主義的として批判され、スターリン体制下の粛清で処刑されたとのこと*11で、その生涯の幕の閉じ方も大きく分かれることになりました。

紹介された文学者の著作以外にも、関連する本も何冊か展示されていたのですが、一番驚いたのはこちら。 なんと日本語の本が展示されています。 「革命の中央アジア」という本。 近代史には食指が動かない方なのですが、ここで出会ったのも何かの縁ということで、少し読んでみたくなりました。

展示と民芸品を眺めるのとあわせて40分ほどいました。

ナーディル・ディヴァンベギ・マドラサ

お次はすぐ隣のナーディルディヴァンベギマドラサ。 最初に訪れたハナカと、ラビハウズを挟んで向かいに位置しています。 銘板によると1623年の建造。 こちらは無料でしたが、ショー(後述)の最中だと入れないかも。

ラビハウズ近辺の建物の中でも一番華やかなタイル装飾が印象的です。 鳳凰や朱雀のような鳥が描かれており、イスラームの宗教建築にしては珍しい気がします。

近くで見るとよくわかるのですが、絵付けタイルではなくモザイクタイルです。 これはなかなか手間暇かかりそう。

中庭は民族ダンスのショー会場のよう(マドラサの前に"folklore show song and dance"と書かれた看板が出ていました。)。 中庭の周りの小部屋は工芸品売り場になっていました。

30分ほど滞在。

チョル・ミノル

東側に少し歩きます。

住宅街を抜けると、

お目当ての4本の塔が現れます。 これだけぽつんと立っていて不思議なのですが、後でアルク城で見た写真のタイトルにchor-minor madrassaとあったので、元はマドラサだったようです。 右側にも少し建物が繋がっていますし、

反対側(確か)にも、かつての建物の痕跡らしきものも見えます。

中にも入れて、1階はお土産売り場(写真略)、

2階はこちらのがらんどうの空間

屋上はドームの周りを周れます。 ちなみに塔の上にあるのはコウノトリの人形で、昔ここにコウノトリが巣を作っていたことを偲ぶものだそうです*12

ところでこちらの塔、チョル・ミノルのチョルはたぶん4の意味なんですが、toʻrt(ウズベク語)とかdört(トルコ語)みたいなテュルク系の言葉じゃなくて、ペルシア語っぽい言葉なあたり、ペルシア語の当地での影響力を感じます(たぶん私が気づいていないだけど、他の観光地とか地名とかにもペルシア語由来のものがたくさんありそう。)。

こちらは小さめで展示などもないので、20分ほどで撤収。

昼食

チョルミナルから戻る途中に見かけたレストランでお昼にします。

店内写真を取り忘れたのですが、Jam restaurantというお店。 英語をアラビア文字風のデザインにしているのが面白いです。 12時前に行ったら他にほとんどお客さんがいなかったのですが、もしかして昼食にはまだ時間が早かったのか...?

マスタヴァ、サラダ、マンティ、ソムサを注文。 特にマスタヴァが美味しかったです。 こういう煮込み・スープ系が好き*13

こちら、たぶんソムサを注文して出てきもの。 ヒヴァや日本のウズベキスタン料理レストランで食べたもの(たぶんタンドールで焼くタイプのサモサ)とはまた別物っぽい?

移動・散策

今度は西に移動。 暑いんですが、1~2kmと近いし、タクシー利用で点と点だけの観光をするのももったいない気がする(なるべく歩いて街を体感したい)ので、歩いていきます。

タキ・テルパクフルシャン。

バザールやキャラバンサライの建物っぽいのですが、延々と続いているわけではなく、交差点のあたりを覆うだけです。 元からこうだったのか、それとも当時はもっと大きかったものの一部だけが残ったのか気になります。

道中で見かけたマドラサ。 今は特に利用されていないのか、扉は閉まっていました。 後でYandex Mapsで見てみた限りでは、たぶんDomulo Tursunjon Madrassahかと思います。

学校。 maktabっていう言葉はたぶんアラビア語由来かな。

ここまででたびたび見かけたのですが、街路樹として桑らしきものが植えられていました。

実が多数なっていて、落ちた実をうっかり踏むとべとつくので要注意。 熟すと黒くなる印象があったのですが、こちらのは黒くなるものも、熟しても白いままのものもありました。 桑の実は食べたことがあってけっこう好きなんですが、街路樹のを食べる勇気がなかったので、見送りました。。。*14

アルク城すぐそばのブハラ・タワー。 確かかつての給水塔を利用した展望タワーとどこかで読んだ気がするのですが、要出典。 そんなに高さもないから登らなくても良いかーとパスしたのですが、今思うとアルク城を俯瞰できて良かったかもしれないです。

アルク

ということで、アルク城に着。 こちらはブハラ・アミール国の支配者の住まいとして1920まで現役で使われていた城塞です*15

外では何かステージ設営中のようでした。

門をくぐったところでチケットを購入します。 クレジットカードが使えました。

モスク

城に入ってすぐのカーブした坂を上ると、まず目に入ってくるのがこちらの金曜モスク(Jome' masjidi). 18世紀初頭に建てられたものだそうです*16。 テラス状の半屋外空間と、木の柱が気の平屋根を支える形式は、先日のヒヴァの宮殿や、2年前に訪れたイランはイスファハーンの宮殿などでも見かけました。 ペルシア文化圏のモスクというと大ドームを戴くものという印象が強い(イスファハーンの王の広場のモスクなど)のですが、こちらは全く違う装いで、違いが気になります*17

モスクの内部。

天井はカラフルに装飾されています。

カリグラフィーや細密画が展示されているのですが、内部は暗めなのに対し、外の光が入ってくるので、反射でなかなか見にくい/写真に撮りづらいかも。 上のは古さを感じさせるクーフィー体で書かれていて、解説には「8th century」と書かれていたのですが、本当にそんなに古いものだとしたら陽光が入る場所に置いておいて良いのか心配になります。。。

ミフラーブ。 装飾はタイルでもなく漆喰の表面に描かれたもののようで、たぶん割と最近のもの。

考古学公園

むき出しの土が広がりところどころに廃墟が点在するエリアが開けます(上の写真はしばらく進んでから、さきほどのアルクを振り返ったところ。)。 なんで城がこんなことに?と思ったのですが、アルク城の半分以上は、ロシア革命時の内戦により焼け落ちたそう(要出典)で、それがこの部分のよう。 案内板には"archaeological park"と書かれていました。

たしかモスク*18

ハンマーム。

また、端の方まで行くと、カラーン・モスクなどのあるあたりを見渡すことができます。 というかそれが推しのようで、親切にも考古学公園入口のところに"photo area"と書かれた案内があった気がします。

玉座の間

玉座の間(解説パネルだと"throne hall")と書いてしまったのですが、中庭の周囲を回廊が囲むだけの開放的な空間です。 降水量が少ないからこそ屋根なしOKなんだろうなという気がします(でも冬は寒い気がする...?)。 ここでブハラの君主の戴冠式が行われたとのこと。

玉座の上の部分の天井は美しく装飾が施されています。

もうちょい近くで。

玉座の前には仕切りベルトっぽいものが置かれていて玉座には当然座れないかと思いきや、座って写真を撮ってる人もいたり、写真用の小道具も用意されていたり、係の人らしき人もいました。もしかしてお金払ったら記念写真を撮れるとか? (いずれにせよ、座れるということは玉座は複製品っぽいですね。)

展示いろいろ

屋内には、いくつか展示のあるエリアもありました。

19世紀後半~20世紀初頭のイスラーム神秘主義修道僧*19の装束や装備一式。

いくつかの古写真を見た限りでは、人物はターバンを巻いていることが多く、ヒヴァのもふもふした毛皮帽子(cho'girma)とは違うようです。 やっぱりホラズム地方とは別の文化圏なのかもしれません(と言っても、単に時代や身分や季節の違いだけかもしれないですが。)。

個々の品の簡単な説明(名称や時代など)はあり、英語も併記されていて助かりました。 ただ、それらの関連や位置づけなどの説明はほぼなく、若干「ものを並べただけ」のやっつけ感を覚えてしまいました。。。

アルク城には合計で2時間近く滞在しました。

先ほど考古学公園から見たカラーン・モスクの近辺に向かいます。 カラーン・ミナレットも見えますが、カラーン・モスクの青いドームが目立ちます。 円筒状のドラムの上にドームが乗っているところに中央アジアらしさ(というかティムール朝建築の流れ?)を感じます*20

カラーンモスク近辺

こちらは地図を見ると分かりやすいのですが、広場を挟んでミール・アラブ・マドラサとカラーン・モスク(とカラーン・ミナレット)が建ち、ブハラの中ではラビ・ハウズ近辺と並ぶ観光地かと思います(建物の壮大さだとこちらのほうが上かも。)。

ミル・アラブ・マドラサ(Mir Arab Madrasasi)

広場の東側に建つのは、こちらミル・アラブ・マドラサ。 タイルで美しく装飾された正面ファサードと、2つのドームが目を惹きます*21。 1536年の建築*22マドラサで、上のクカルダシュ・マドラサの箇所でも触れたようにフィトラトとアイニーが学んだ*23場でもあります。

ソ連時代には一時閉鎖されるも1945年にマドラサとして公式に再開が許可され*24、今も現役のマドラサとして機能しているようです。そう、なんと現役です! (大事なことなので2回書いた。)ということで(?)、建物の中には入り口近くのほんの一部にしか入れません。 なお、入るときは服装に注意。

入口すぐ近くの透かし越しに中庭を見ることができます。

マドラサの方と思しきおじさまに"Ichkariga kirsam bo'ladimi?"(「中に入っても良いですか」)と訊いたら、ウズベク語で丁寧に答えてくださったのですが、残念ながら私の語彙力ではほとんど聞き取れず、"dars", "tarix", "Ingliz"(解説パネルを指さしながら)などしか聞きとれず。。。おそらく「中は授業の場で入れないが、歴史の解説が英語であるからそれを読んでみてください」みたいなご説明だったと推察します。。。

解説パネルによると、このマドラサを建てたのはMir Arab(マドラサの名前の由来にもなっている)とUbaidullohon(シャイバーニー朝君主)。 Mir Arab(本名はSayyid Abdullah Yamaniy)は出身地のイエメンからサマルカンドに渡り、ナクシュバンディー教団の重鎮(?)となり、Ubaidullohonの師を務めたそうです*25

教学の様子を伝えるパネルもってなかなか興味深かったです。 本を持って行き来する少年たちの姿と併せて、ここが現役のマドラサであることを感じさせます。 ちなみに解説パネルによると、課程は4年、在籍する生徒は約120人、教員は27人とのこと。 生徒は単純計算すると1学年あたり30人なので、学校と捉えると小規模かもしれません。 運営とか卒業生の進路とかどうなってるのかなーと思ったら解説パネルに少し言及があり、どうも公営っぽく*26、卒業後は基本的にはウズベキスタン各地のモスクに配属?されるようです*27

カラーン・ミナレット

派手さはないですが、広場でひときわ目立つのがこの塔。 カラハン朝時代、1127年に建造されたカラーン・ミナレットです。 カラーン・モスクはチンギス・ハーンの侵攻時に焼失しましたが、こちらのミナレットは無事に残され、その後修復を経て現在まで残っているとのこと*28

900年近くもの時を経て今も立ち続けているのは驚きです。 ところで日本の木造建築だと修復時には解体して修理したりしますが、こういった組積造の建物の修復はどうやって行うのか気になります。

一見地味ですが、煉瓦の積み方を変えることで、様々な模様が表されています。

ミナレットの入り口(写真右側)は高いところにあり、モスク(写真左側)から橋?を渡って入ることになるようです。(もちろん観光客は入れないはず。)

ちなみに物騒な話ですが、罪人を塔から投げ落とすという形での死刑執行の場でもあったそう*29

カラーン・モスク

最後に、広場の西側に建つカラーン・モスク。 御覧の通り見事に逆光になってしまったので、こちらは午前に見たほうが良かったかもしれません。 元々はカラーン・ミナレットより前の1121年の建造ですが、そちらの伽藍はチンギス・ハーンの侵攻時に焼失し、現在の建物は1514年の建築*30。こちらもミル・アラブ・マドラサと同じく、シャイバーニー朝の時代の建築です。

中に入ると、中庭が広がります。(これは入ってすぐに入り口側を振り返って撮った写真。) 中庭全体を収めた写真がないので確証がないのですが、確か4つのイーワーンが中庭を囲む典型的なペルシア様式のモスクだったと思います。

ちなみにこのときは入って左側は工事中。 一方右側はあんまり観光客向けじゃなくて現在も使われている礼拝室があるようで、こんな注意書きもありました。 women onlyの意味だと思います*31

午後なので猛烈に逆光ですが、西側のイーワーン。 ウズベキスタンから見るとメッカの方角は西なのでこちらが正面というのは納得ですね。 イーワーンに隠れていますが、奥にドームがあります。 イーワーン手前の小さな建物は、礼拝前に身を清める水場だと思うのですが、周りにロープが渡されていたので、今は使えないようです。

イーワーンから中に入ると、白の漆喰塗りで意外と簡素な空間が広がります。

なんなら少し横に逸れると、漆喰もないところもあります。 これを見ると、ほぼ全面タイル貼りだったイスファハーンのイマーム・モスクは恐ろしく贅沢なものだったんだろうなという気がしてきました。

カラーン・モスク近辺のこの3か所で、だいたい1時間ほど滞在。

夕食

夕飯は、近くのこちらのレストランで。

注文したのは確か、トマトのサラダ、ドルマシャシリクドルマは、肉より米が多いのかな~と思ってたら意外と肉メインでがっつりでした。

同行者の希望で、飲み物はこちらのタルフーン。 スターアニスっぽい香りがして面白く、個人的にはけっこう好きです。 タラゴンを使っているらしい*32のですが、一方で中に入ってる葉っぱの見た目はあまりタラゴンらしくない気がする...?

シャシリクがなかなか来ないなと思ったら、存在を忘れられていたのか、冷めたシャシリクが届いて残念。。。 これだと不完全燃焼感があるので、もうシャシリクを追加でもう一本注文。 「次は焼きたての熱いのでお願い!」(意訳)と一言添えたおかげか、今度はきちんと熱いものが出てきました。 やっぱりシャシリクは焼きたてに限る。

散策

夕食後、ホテルに向かっていたら、まさかの日本語の看板を見つけました。 お店の人は日本語で接客してくださいました。 ウズベク語で少し話してみたらこの旅で2回目の"O'zbekistonda ishlaysizmi?"(「ウズベキスタンで働いてますか?」)を言っていただけたので、お世辞だろうけど嬉しい(単純)。

いったんホテルに戻り、日が暮れてからもう一度繰り出すと、ライトアップされたカラーン・モスクなどを見ることができました。

ただ、一部はややカラフルすぎる気もする...?

ホテルのあるラビハウズ近辺に戻ってくると、御覧の通り大いに賑わっていました。 なお時刻は既に現地時間21時半前。 やはり日差しが強くて暑い地域では、日が暮れてからが人々が外に繰り出す時間帯なのかもしれません。

翌日に続きます。

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

*1:参考文献参考文献[1]p.360「ブハラ」の項, 参考文献[2]p.453「ブハラ」の項。

*2:台所があったことは解説パネルに書かれていました。

*3:でも写真を見返したら解説パネルにはso-called "Anahita Temple"と書かれていたので、確証があるわけではなさそう。

*4:なんですが、ざっと検索しても見つからず。。。

*5:ただしザルドゥズと呼ばれる金糸刺繍やミシン刺繍は除く

*6:参考文献[1]p.558「中央ユーラシアの刺繍」の項。

*7:参考文献[1]p.202 「フィトラトとアイニー」の項。

*8:参考文献[1]p.202 「フィトラトとアイニー」の項。

*9:参考文献[2]p.465「ペルシア語文学」の項「中央アジアでは, ティムール朝期以降, しだいにチャガタイ語が文章語として使用されるようになる. しかし, その普及の度合いは地域によって差があり, テュルク系住民の間でも依然としてペルシア語が文章語としての地位を保っていた地域は多い. 例えば, いわゆるウズベク3ハン国の支配が確立した18~19世紀には, 代々の君主の事績を記した歴史書は, ヒヴァ・ハン国ではチャガタイ語で, ブハラ・アミール国ではペルシア語で, コーカンド・ハン国ではペルシア語とチャガタイ語の両語で書かれていた. とくに, ペルシア語話者住民の多かったブハラ・アミール国では, 1920年のアミール国崩壊までペルシア語が公用語であった.」

*10:このへんの詳細は参考文献[3]p.90~「ソ連体制下のウズベキスタンの成立」など参照。

*11:参考文献[1]p.202 「フィトラトとアイニー」の項。

*12:参考文献[4]p.23

*13:おととしイランを旅した時は、ケバブよりもホレシュテを食べる頻度が高かった。

*14:と言いつつ、翌々日に別の場所で食べることになるのですが、その話はまたあとで。

*15:現地解説パネル "Before 1920, the fortress used to be a residence of the Bukhara rulers."

*16:現地解説パネルより。

*17:時代が異なるだけか、地域に依るものなのか、はたまたこれは城塞の中で小規模だから、大ドーム不要なのか、とか。

*18:Xonaqoh masjidiと書かれていました。

*19:"dervish"

*20:ペルシアの方だと、膨らんだ玉ねぎ型に近いドームの印象があります。(e.g.)イスファハーンのイマーム・モスク。とはいえ、エジプトのマムルーク朝にもこの円筒ドラム+ドームの形のものがあった気もします。要出典。

*21:内部の解説パネルによると、右のドームの下はモスクで、左のドームの下はMir Arabと親族の墓となっているそうです。

*22:現地の銘板に"1530-1536yillar"と記載。

*23:参考文献[1]p.202「フィトラトとアイニー」の項

*24:参考文献[1]p.361「ブハラ」

*25:解説パネルに英語が一部ぐちゃぐちゃで意味が通じないので、https://uz.wikipedia.org/wiki/Mir_Arabgoogle翻訳して参照しています。ということで信憑性にはご注意ください。

*26:"The madrasah is administered by the Muslim Office of Uzbekistan"

*27:"After graduation, the graduates are distributed as an imam-khatib in various cathedral mosque of the republic."

*28:参考文献[2]p.147「カラーン・ミナレット」の項目より。

*29:参考文献[2]p.147「カラーン・ミナレット」の項目より。

*30:現地の銘板より。

*31:ヒヴァで"Hodimlar uchun/Staff only"の英語併記の注意書きを見たので。

*32:参考文献[4]p.56