世界史ときどき語学のち旅

歴史と言語を予習して旅に出る記録。西安からイスタンブールまで陸路で旅したい。

2024年ウズベキスタン旅行 6日目 : ブハラ観光

2024年ウズベキスタン旅行6日目(2024-05-01)、ブハラ観光2日目の記録です。 ブハラはヒヴァよりは広いですが、ほぼ徒歩で周遊できます。 華やかな建築だけでなく、散策しながら水路や貯水池などを眺めて、オアシスの街としての歴史に思いを馳せる1日となりました。

今回の旅全体のまとめはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

散策

6時台に目が覚めた+同行者はまだまだ寝ているので、1人で朝の街を散策します。

タキ・サラフォン。銘板によると16世紀のもののよう。

交差点を覆う形になっています。 銘板には"trading dome"と書かれているのですが、バザールの一部がこの形で残ったのか、それとも元から交差点のみを覆う形で作られたのか、など気になります。

ヒヴァの朝の散策でも思ったのですが、人が少なくて良いですね。 自撮りをしている方がいて、「朝は人が少ないから写真を撮るのにベストな時間だね」と話したりしました。

前日夜には人であふれていたラビハウズの周りも御覧の通り。

ハウズ(貯水池)の水面に映るナーディル・ディヴァンベギ・ハナカ。 前日の観光はこの周りの16~17世紀のマドラサなど*1からスタートしたわけですが、実は貯水池自体も17世紀前半に遡る歴史のあるものだそう*2。 ただ、前近代の水道技術で、たまって流れない水は衛生的に大丈夫なのか...?と思ったらやっぱり大丈夫じゃないときもあったみたいです*3

街路樹として植えられた桑の木。 こちらは熟すると実が黒くなるタイプでしたが、熟しても実が白いタイプのもありました。 いずれもけっこうな大木(幹周り1m以上)で、ちょっとびっくりしました(日本で見たことのある桑の木は、道端に生えてる小さなものばかりだったので...。)。 鳥が全部食べるかと思いきや、地面に落ちてそのままになってる実も多く、地面がべたつくので要注意。

街路樹と言えば、こちらの見慣れない花も気になります。

昨日も通ったタキ・テルパクフルシャン。銘板によるとこちらも16世紀の建造。

昼間はお土産屋が立ち並び人でごった返す空間ですが、この時間は行き交う人は少なく、静かな空間でした。

昨日は全く気付かなかったのですが、内部にお墓らしきものがあります。

良く見たら花が供えられていました。 墓の主の名前はАхмати Парон。 キリル文字表記や英語の翻字(Ahmad Paronとか)でgoogle検索にかけてみたのですが、なかなか情報が見当たらず。。。 こちらのサイトgoogle検索にかけて読んだ限りでは、どうも昔のブハラの警察?番人?守衛?の長だったそうです。 instagramにショート動画もありました(私は全然聞き取れないのでわからないですが。) www.instagram.com 時代が分からないのですが、キリル文字表記と言うことは、亡くなったのは近代(ロシアの影響が及んでから)っぽいですね*4。 たぶんに想像を含みますが、16世紀には商人や買い物客が行き交ったであろうタキに、ここに縁のある19世紀(or20世紀初頭?)の人物のお墓が置かれ、今は(昼間は)お土産屋が軒を並べ世界各国から来た観光客が行き交う、という歴史が積み重なる様は興味深いです。

人が少ないとゆっくり観察できて、こういう発見があって良いですね。

タキを抜けたところにあったモスク。 英語表記はBozori Kord Mosqueで、16世紀のものだそうです。 このタイプの半屋外空間、今まで宮殿とかモスクとかで何回も見かけたので、そろそろ「いかにも中央アジアだなー」という認識が刷り込まれてきました(でも他の地域にもあるのかも。)。

タキ・ザルガロン。 銘板曰く、こちらも16世紀の建物。

ここまでの2つのタキに比べると、こちらはドーム裏も漆喰?が塗られていて、少し格が高い(?)のかもしれません。

開店前のお土産屋さんでお店の人と思しきおばさまが掃除をしていたのですが、扉の装飾(床ではなく垂直にたってる扉です...!)を箒で軽くはくだけで砂埃が舞い上がり、「あ、ここほんとに砂埃が多いんだなー」というのを実感しました。

カラーン・ミナレットとカラーン・モスク。 昨日は午後に来たのでモスク側が完全に逆光だったのですが、午前だとちょうど良いですね。

たっぷり1時間半ほど散策してホテルに戻ります。

朝食

ホテルに戻って朝食。 左側のはサモサっぽいものだった記憶があります。

午前

両替

ちょっと手持ちのウズベクスムの残量が怪しくなってきたので、両替します。

宿泊したホテルでは両替できないということだったので、別のホテル(具体的には、タキ・テルパクフルションの横のAsia Bukhara。たぶん高級ホテル。)の地下の両替所を利用しました。

サーマーニー廟

タクシー(Yandex)でサーマーニー廟/Ismoil Samoniy Maqbarasi*5に移動します。 運転手さんから身振り手振りで「歩いたほうがいい。タクシーだと遠回り」というようなことを伝えられた気がするのですが、同行者の体力温存のために乗ることにしました。

緑豊かな公園の中を進み(公園の入り口の写真撮りそびれた。)、緑の空間を抜けると

いよいよイスマーイール・サーマーニー廟と対面です。 9世紀頃(要出典)の建築で、ブハラで現存する建築(少なくとも今回の観光で見た建築物)の中では最も古い部類に属すると思います。 アッバース朝から自立したペルシア系イスラーム王朝のサーマーン朝の廟(要出典)

正面入り口から。 真上から見ると、ほぼ正方形の本体の上にドームが乗った形になっています。

派手さはないのですが、近くで見るとレンガを巧みに使って様々な模様をつくっていることが良く分かります。

更に近づく。

中は決して広くはないのですが、ドームの下に墓石が鎮座しています。 中国語で話していたグループのガイドの解説によると墓石はもともと3つあったものの、一部は持ち去られた?撤去された?そう。 ちなみにこれは比較的人が少ないタイミングで撮った写真で、団体さんが来るとそこそこ混雑しました。

中心から真上を見上げると、正方形の部屋の上にドームが乗っている構造が良く分かります。

ちょっとイスラーム建築のオタクの早口 : 組積造の場合、四角い部屋には丸いドームを直接乗せることができません(ドームの底の円弧を支える壁や柱がないので。)。この問題に対して、この廟でも使われているスクィンチ・アーチと呼ばれる手法では、四角い部屋の角をまたぐアーチをかけて円により近い多角形を作り、その上にドームを乗せています。 この廟だと、四角い部屋→8個のアーチで支えられた八角形→十六角形→ドームと移行している様子が分かります。煉瓦がむき出しで、移行部の構造が分かりやすくて嬉しいです。

八角形の頂点には柱も置かれていて、それらが上の十六角形のはみ出た部分を支えているのが見て取れます。 この柱の存在は事前に本の写真で見たときは気が付かなかったので、発見があって嬉しい。

ちょうどトルコからと思しき団体も来ていて、ガイドの方の話の中でsekiz(8)やon altı(16)などのトルコ語の単語が聞こえたので、たぶんこのへんの移行部のことを解説してたのだと思います。(トルコ旅行のときに勉強したトルコ語、まだ完全に忘れてなくて嬉しい!)

そのガイドさんの話の続きを聞いていると、タジキスタンという言葉と共にpara(お金)という言葉も聞こえました。 というのも、確かタジキスタンのお札の図柄にサーマーニー廟が使われているので*6。 ここウズベキスタンの建物が隣国タジキスタンのお札に使われているわけですが、これは上述したようにサーマーン朝がペルシア系の王朝であったり、その後もブハラではペルシア語が使われていたりする話と関連しています。近代については前日の旅行記でアイニーやフィトラトについて触れたあたりで少し書いたのでそちらも参照。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

四隅のアーチは装飾豊か。 ここで使われている曲面の分割が発展してイスラーム建築の特色の1つであるムカルナス(鍾乳石飾り)になると読んだ*7のですが、これだけではよくわからない気がします。

上の写真と見比べると分かるのですが、中央部分の模様が四角か丸かで微妙に違いますね*8。 ということで完全に4回回転対称ではないようで、このことに気づいてよーく観察してみると、上部の透かし窓も入口奥だけ形が異なるようです(上の、天井を見上げた写真参照。)。

存分に観察したので、再び外から。 廟のそばには貯水池跡らしきものもあったのですが、枯れていました。 あと、外からドームを眺めると、ドーム外側はレンガの平たい面が表に出ている(内部ではレンガの側面(?)が表に出ていた)ことが分かり、レンガの向きが外側と内側とで異なることが分かります。 たぶん、外側のものは見た目のために平たい面を表に出してるとかかな。

たっぷり1時間くらいじっくり観察して同行者にはやや呆れられたものの、イスラーム建築の本で何度も見た建築をこの目で見ることができて感動ものでした。

お手洗いを探していたら小さな遊園地?に遭遇。

何やら見覚えがあるようなないようなキャラが。。。

チャシマ・アイヨブ

気を取り直して(?)来た道を戻り、お次は公園の東側のチャシマ・アイヨブに。 アイヨブは旧約聖書に登場する預言者ヨブのこと、チャシマは泉の意味で、「チャシマ・アイヨブ」は「ヨブの泉」ということでしょうか。 ふと、トルコ語でも「チェシメ」という単語が泉を指す(テュルク系の言葉はやっぱり似ている)ことと、イスタンブールで見かけた泉亭のことを思い出しました。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

閑話休題。伝承によれば試練を耐え抜いたヨブの足元から泉が湧き、その水は病を癒したのだとか。それにあやかるものなのか、ヨブにちなんだ名前を持つ泉はシリア、パレスチナ、エジプト、カザフスタン、そしてここウズベキスタンと各地にあるようです*9

現地の銘板にChashma Ayub Maqbarasiとあり(maqbaraは霊廟の意味。)、実際、建物後方にテュルク系あるあるの墓塔らしきもの(ここだと円柱の上に円錐を乗せたような塔)が見えます。 墓塔の他の例は、たとえば去年訪れたトルコのカイセリの旅行記参照。(「墓塔いろいろ」の節。) amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

解説パネルによると、この建物は増築を重ねてきたようで、12世紀のカラ・ハン朝時代のもの、ティムール時代のもの、そして16世紀のシャイバーニー朝時代のものが分かるようです。 旅行記を書くにあたって解説パネルを読んで気づいたのですが、内部にはティムール時代に建てられたことを示す往時の碑文があるそうなのですが、見逃した。。。

泉は現役のようです。

天井を見上げたところ。 白漆喰のシンプルな内装ですが、陰影によってアーチネット(?)が強調されている様子が好き。

別の銘板には"The Museum of the History of Bukhara Water Supply"とあり、泉つながりということか内部は水についての展示がありました。

かつてブハラにあった数々の貯水池を示した地図。 既に実物を何度か見ていますが、なかなかの数。 尋ね歩いてみたい気もしますが、おそらくこれ全部は現存していない気もします*10

一番感動したのは昔の写真で、革袋や壺などで水を運ぶ様子や、ハウズから革袋に水を詰めている?と思しき様子を撮ったもの。 上の写真の上の方には革袋の実物もあります。

ハンマームについても。 観光していてマドラサはそこそこ見かけた(観光用に開放しているものも、そうでないものも)記憶があるのですが、ハンマームはあまり見ていない気がします。 私の観察が足りなかっただけか、たまたま通ったところになかっただけか、はたまた現存するものが実際に少ないのか。。。 イスラーム圏には何回か行っているのですが、実はハンマームは未経験でちょっと気になります。

sardobaと呼ばれるタイプの地下貯水池の模型。 地下深く(10~15m)に作られ、覆いもあることから、夏でも冷たいままだったとか*11

灌漑水車の模型。 ヒヴァでは動物を動力に用いたものを見たのですが、こちらは水力を動力源にしているタイプ。 たまたま見かけたサンプルがこうなだけなのか、それとも地域差があるのか気になります。(たとえばホラズム地方では水路の水量が少なくて水車を回すほどではないから、とか???)

他にも運河やアラル海の話もありました。(アラル海の解説は確か英語解説なし。)

前近代の水利用とその技術の歴史にはかなり興味があるので、「かつての貯水池や水路をたどり、ブハラの水利用の歴史を偲ぶ」みたいな趣旨のウォーキングツアーがあったらぜひ参加してみたいなと思ってしまいました。

チャシマ・アイヨブの正面に面して建っていた変わった形の建物。 このときは気に留めなかず中にも入らなかったのですが、後で気づいたら"Imam Al-Bukhari Memorical Museum"というAl-Bukhari(たぶん、9世紀にハディースの編纂に尽力したBukhariのこと)についての博物館のようで、行っておけばよかったなとちょっと後悔しました。 こちらはまた次の機会に。

ボラハウズモスク

チャシマ・アイヨブから少し歩いて、ボラハウズモスクに。 さきほど水についての展示を見た後だからか、貯水池を見て「今は噴水と共に観光客の目を楽しませる貯水池も、かつては地域の人々の生活を支えていたんだろうなー」としみじみ思ったりしました。

反対側には、ブハラ・タワー。 元は給水塔だったと聞いた気がする(要出典)ので、水と関係するものが並んでいることになるかも。

ちなみにハウズ周りの街路樹には桑の実もあり、街路樹の実を摘んで食べてる人もいました。(たぶん観光客。) 桑の実が好きなので真似して食べてみたかったのですが、「街路樹だと殺虫剤とかもあるかもなー」と思って自制しました。

ミナレット。と言ってもかなり小さくかわいらしいものでした。 こちらは銘板によると1917年建造とのこと。 ここからアザーンを流しても別に遠くまで届かないし、飾りとしても背が低いので、何目的で建てたのか不思議なミナレットです。

開放的な造りの正面。 このテラス状の作り、前日に訪れたアルク城のモスクや、ヒヴァの宮殿などでも見かけました。 ちなみに銘板によると、ここの複合施設は17世紀~20世紀の建造とのことで、新しめのようです(モスクそのものの建造年は分かりません。)。

天井装飾が綺麗。

モスクなので、内部に入るにあたっては服装に注意。 昨日のカラーン・モスクもですが、短パンの男性が腰巻きを巻かされてるケースをちらほら見かけました。 逆に女性は髪が短かければスカーフを巻かずとも帽子で十分なようでした。

モスク内部はドームに覆われた華やかな空間が広がります。 ただ、絵柄は漆喰の上に描かれてるだけのようです。

なお、観光客は手前の部分にしか入れません。

ボラハウズモスクを横から眺めたところ(たぶん)。 正面にテラス、奥にドームという構造が良く分かります。

ここからラビハウズのあたりに歩いて戻る途中に見かけた光景。 一瞬レンガ造りの壁かと思ったのですが、よく見たらシートでした。

こちらを見るとよくわかります。

昼食

ラビハウズのあたりで昼食。

目についたお店にふらっと入ったのですが、ちょっとおしゃれで高そうな内装。

頼んだのはラグマン。 ウズベキスタンにしては量が少なめだったのですが、日本基準だとちょうど良かったです。 あと、炭水化物ほどほど、野菜多めなのでそれも嬉しい。

同行者のプロフと、あとロシア式?のじゃがいものサラダ。

午後

マゴキアッタリモスク。

銘板には12~16世紀とあり、おそらくブハラの現存するモスクの中でも古い方。

現在はモスクとしては使われておらず、"CARPET MUSEUM"という看板の通り絨毯などが展示されていました。 ちなみに中は埃っぽかったです。

絨毯は19から20世紀のものが多めだった気がします。

絨毯や織物の美的な側面はよくわからないのですが、一番興味を惹かれたのはこちら。 左上の2つは服を収納する"to'rva"、下2つは食器を収納する"chuval"だそう*12。 食器棚とかの家具じゃなくて織物の袋を使うんだ、というところに興味が出ました。 木材が貴重だからかな、と一瞬思ったのですが、単純に遊牧生活のために持ち運びできるものが好まれたとかかもしれません。

ここまで見たところで、同行者がお疲れ(というか体調不良)だったので、同行者をホテルにおいて、続きは1人で観光します。

アブドゥル・ハーン・ティム

既に朝の散歩などで何度か通りがかっていたこちらの建物。

銘板によると16世紀の建物とのことなので、シャイバーニー朝の時代のもののはず。 wikipedia(https://en.wikipedia.org/wiki/Khanate_of_Bukhara)を見た限りでは該当しそうなAbdullah Khanは1世と2世がいて、どちらかは分からず。。。

ティム(またはティーム)と呼ばれる一種の商業施設だそうです*13

中は現在は絨毯のお店のようで、絨毯がいたるところに並べられていました。

天井から光が差し込んでいるのは、こちらの窓で採光しているから。

建物中心には広々とした空間が広がり、お茶をしながらバックギャモン(?)に興じるおじさまの姿も見えました。

上を見上げると分かるように、中心のホールは八角形。 中心部にたどり着く前に周りの部屋を巡ったときに間取りが面白い(部屋が長方形を基本にした形に並んでいない)なと思ったのですが、八角形ということに気づいて納得。

ドームを支える美しいアーチネットが印象的です。 イスラーム建築に興味があるので、こういうのが大好き。(あと力学的機能が形に反映されてそうなところも好き。)

ちなみにここで、マレーシアから来たというおばさまに写真を撮るのを頼まれました。 私は旅行中に自分の写真は撮らないのだけど、撮る人と撮らない人の違いってなんだろう*14

外に出て、北側から先ほどの建物を眺めたところ。中央の大ドームの周りに多数の小さいドームがある様子や、さきほど中から見た明り取りの構造が良く分かります。

お次は、すぐ隣に建つ2つのマドラサに向かいます。

アブドゥルアジズ・ハーン・マドラサ

向かいあって建つ2つのマドラサのうち、まずは南側に建つアブドゥルアジズ・ハーン・マドラサに。 銘板によると1652年の建築とのこと。 名前と年代からして、ジャーン朝のAbd al-Aziz Khan(wikipediahttps://en.wikipedia.org/wiki/Abd_al-Aziz_Khan_(Bukhara) )の時代の建築のようです。

中は基本的には土産物屋でした。 一室だけ?展示スペースもあったようなのですが、閉まっていました(このとき既に18時だったので、おそらく閉館時間を過ぎてたのだと思います。)

正面のタイルの剝がれ具合からも察せられますが、建物はかなり傷んでいるようです。

ボロボロのままだともったいないので修復したほうが良いのでは? vs. いやでもサマルカンドみたいにピッカピカに修復するのもなんだか違う気がする。。。

ウルグベク・マドラサ

次は北側のウルグベク・マドラサ。 銘板によると1417年建築。ここまで見てきた建物の中ではけっこう古い方ですね。 ブハラ・ハン国ではなくティムール朝時代の建築で、ウルグ・ベクが各地に建てたマドラサの1つです(要出典)。

さきほどのマドラサに比べると、イーワーンが縦にシュッとしている印象を受けます。

上の写真からも分かる通り一部が工事中で、レンガが積まれたりしていました。

こちらも中はお土産屋がメイン。 "History museum of Bukhara calligraphy art"という案内も出ていたのですが、このときは閉まっていました。

散策いろいろ

時刻は18時半頃ですが、まだ明るく夕食にも時間があったため、引き続きぶらぶらと散策します。

お土産屋でレーニン肖像画を見かけたので思わず撮ってしまいました。中央アジアだと評価が芳しくないかもと思ったのですが、少なくともタブーではなさそう?

カラーン・モスクの前の広場、再び。 ここは建物の豪壮さも、広場の開放感も素晴らしいので、ブハラ滞在中何度も訪れました。

ヒヴァのときも思ったのですが、煉瓦造りの建物に挟まれた通りの先に古くから建つミナレットが見える様はたまらん。

銘板によると、1721年建築のNughayaキャラバンサライ(隊商宿)。 中を少し覗いてみたところ、陶磁器のお店のようです。

こちらは19世紀のSayfiddinキャラバンサライ。 中はお土産屋兼カフェのようで、楽器の生演奏も行われていました。

運河からバケツで水を汲んでいる方を発見。 何に使うのかなと思ったら、街路樹に水をやっていました。

ナーディル・ディヴァンベギ・マドラサの前にある、ナスレッディン・ホジャの像*15。 ただ、現地ではこれがナスレッディン・ホジャの像であることは特に書かれていなかったと思います。 ちなみにナスレッディン・ホジャとは、中央ユーラシア各地に(主にテュルク民族で)伝わる民話の主人公*16。 原典を読んだことはないのですが、頓智話も多いようで*17勝手に「中央ユーラシアの一休さん」という印象を持っています。 最近になってUNESCOの無形文化遺産にも登録されたそう*18

広場に並べられたキックボード?と子供向けのミニカー? レンタルしているっぽくて、子供がミニカーに乗って走り回ったりしていました。 子供が操縦するの危ないのでは?と思ったら、大人がコントローラーらしきものを持っていたので、親が遠隔操作しているっぽかったです。

夕食

そろそろウズベキスタン料理以外も食べようということで、夕食はこちらのイタリアン(写真はお店を出てから撮影したものなので順番が前後します。)。

明るく広々とした店内。 なんか今日は昼も夜も比較的おしゃれ店に来てるなと思いつつ着席。

ナスのサラダ。 今までウズベキスタン料理のお店で素揚げのなすをトマトや玉ねぎとともにディルなどで和えたサラダ何度か食べた(大好物になりました)が、こちらはイタリアンということで(?)別物。 素揚げではなく薄い衣がサクっと美味しい一品でした。

ラム肉のロースト。 やはりウズベキスタンは羊肉が美味しい。

クワトロ・フォルマッジ。 生地の食感とチーズの濃厚な味わいがとっても美味しかったです。 これでも一番小さいサイズなんですが、2人でぎりぎり完食できるくらいボリュームたっぷりでした。

旅行先では現地の料理を食べるのが好きなのですが、たまには品を変えてみるのも良いですね。 とっても美味しくて大満足の夕食でした。 なお、味のレベルはかなり高いですが、お値段も高いです(ウズベキスタンの他のレストランに比べると)。2人でだいたい450千So'm。

翌日に続きます。

参考文献

*1:ナーディル・ディヴァンベギ・ハナカ、ナーディル・ディヴァンベギ・マドラサ、クカルドシュ・マドラサ

*2:参考文献[1]p.97右(20世紀初頭のブハラの描写で)「町の中心にあるブハラ最大の貯水池(ハウズ), ナーディル・ディーヴァーンベギの貯水池(1620年造営)の周辺はラビハウズと呼ばれ」

*3:参考文献[1]p.356 「貯水池」の項目 : 「乾燥地帯の稀少な水資源の利用装置の一つではあるが, 限られた水量は飛来する雑物や周辺生活排水の流入に十分対応できず, 水質は悪化して伝染症の温床ともなった.」

*4:この墓碑が後からつけられたものでなければ。

*5:現地の銘板の綴り

*6:要出典

*7:要出典

*8:対角線上のものが等しいようです。

*9:現地の解説パネルをざっくり要約。ただしパネルの英語が怪しいので、信憑性は謎です。

*10:参考文献[1]p.356 「貯水池」の項目 : 「そのため上水道の普及につれて, 宗教・観光施設以外の日常生活用の貯水池は埋め立てられ, 都市部からは急速に消滅しつつある.」

*11:解説パネルより。

*12:いずれも現地の超簡潔な解説より。

*13:参考文献[1]p.97「オアシス」の項目で、ブハラについての文脈で「また, 商店街に向かって入り口を開いて建てられたドーム屋根をもつ商業施設はティームと呼ばれ, ブハラ最大のアブドゥッラー・ハンのティーム(16世紀)では絹織物が取引されていた.」

*14:偏見ですが、日本の人の方が他のところの人より撮る頻度が少ない気もします。

*15:参考文献[3]p.23

*16:参考文献[2]p.466「笑いのフォークロア」の項。

*17:参考文献[1]p.404「ナスレッディン・ホジャ物語」の項。

*18:UNESCO Intangible Cultural Heritage "Telling tradition of Nasreddin Hodja/ Molla Nesreddin/ Molla Ependi/ Apendi/ Afendi Kozhanasyr Anecdotes" https://ich.unesco.org/en/RL/telling-tradition-of-nasreddin-hodja-molla-nesreddin-molla-ependi-apendi-afendi-kozhanasyr-anecdotes-01705