2024年ウズベキスタン旅行2日目(2024-04-27)の記録です。 この日はタシュケントからヒヴァまで移動し、ヒヴァを観光します。 普通は全部鉄道(夜行寝台列車)でヒヴァまで行く or 空路でウルゲンチまで入って残りを陸路、かと思うのですが、今回はウルゲンチまでの航空券がとれず寝台列車も日程があわなかったので、空路でヌクス→そこから陸路で移動しました。
今回の旅全体のまとめはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
ヌクスまで
ホテルからタシュケント空港へ
この日は朝7時過ぎの便*1に乗るので、朝4時半くらいとかなりの早起きです。
チェックアウト時に登録証明を受け取ります。 朝早いしYandex Goだとタクシーが捕まらないかもなと思って、ホテルのスタッフの方にタクシー呼ぶのをお願いしたら、結局スタッフがYandex Goでタクシーを呼んでくださいました。 Yandex Goすごい。
ホテルは前日に到着した国際線ターミナル(T2)からは近かったのですが、この日乗る国内線ターミナル(T3)まではもう少し遠かった記憶があります*2。
空港
国内線ターミナルには、まだ夜も明けぬ午前5時頃着。 簡易的な手荷物検査を受けてロビーに入った後はその先には進めず、しばらく待ちました。 離陸2時間前ということでこの時間に来てみたのですが、もう少し遅くても良かったかもしれないです。 ちなみにロビー内にはお菓子の自販機などもありました。
事前に買っておいたドーナツを朝食として食べつつ周りの会話に耳を傾けると、ここでも日本語が聞こえてきました。 団体客の方もいて、どうも西遊旅行のツアーのよう。
手荷物検査が開くまで待っていると、関西から来たおじ様(以下、Aさん)に声をかけられました。 我々と同じくヌクスからヒヴァまで陸路で行くとのことだったので、タクシーを割り勘することにしました。 Aさんはかなり旅慣れた方ようで、これまで行った旅の話を聞くことができました。 特にフンザやラダックの話や写真が印象に残っていて、かなり行きたくなりました。 このブログは「西安からイスタンブールまで陸路」を掲げているのですが、そちらが落ち着いたら中国から陸路国境越えで行けると面白そうだな。
しばらく待って保安検査が開始したのですが、"crew only"と書かれたレーンを利用しました。 前日の入国審査*3もそうですが、柔軟な運用してますね。
保安検査後、写真のとおり売店はあったのですが、残念ながら店員さんがいなくて買えませんでした。 搭乗前に水を確保しそびれてフライト中は喉が乾いたので、これはミス。
さて、我々の便の搭乗...の前に、ウルゲンチ行きのフライトの搭乗が始まりました。 本当はこの便に乗りたかったのですが、予約できなかったので泣く泣く見送り、ヌクス行きに乗ります。
フライト
残念ながら窓際席ではなかったので、窓からの眺めの写真はありません。 ただ、かすかに見えた範囲では砂漠の眺めが見え、窓際席にしておけば良かったなーと思いました。
軽食としてサンドイッチ?が出てきました。
1時間半ちょっとのフライトで、定刻より少し早めにヌクス国際空港に着きました。
ヒヴァまで
ヌクス空港
ヌクス空港の出口。 左側の"SHAHARGA CIQISH"はウズベク語なのですが、中央のは恐らくカラカルパク語。 というのも、ここヌクスはウズベキスタンの中のカラカルパクスタン自治共和国の首都だからです。
水を買って*4から、外に出たところ。
空港の周りは比較的長閑な眺めでした。
ヌクスからヒヴァの車移動
さて、ここから約170km先のヒヴァに陸路で向かいます。 乗り合いタクシーなどの手段もあるのですが、今回は3人いるので、Yandex Goで読んだ車でヒヴァに向かいます*5。お代は、comfortでだいたい420千スム*6でした。 ドライバーの方はなかなか言葉が通じなくて少し大変だったのですが、Aさんが関西弁で意思疎通ができた(?)ようで大変助かりました。 なお、ドライバーはカラカルパクの方。
ここから約3時間のドライブです。 路面は、ヌクス近郊は良かったのですが、それ以外はあまりよくなかった記憶があります。 振動でお尻が試される。
乾燥した大地が続きます*7。
途中、列車ともすれ違いました。 写真を見返してみると、機関車にパンタグラフが見当たらないので、たぶん非電化区間?
車窓からの眺めは乾燥した砂漠や荒れ地が続いていたのですが、途中(地図を見た限りではMangitあたり)から農地の緑が目に入るようになりました。
道中で何度も見かけた、メタンガスステーション(?)の看板。 ウズベキスタンでは車の燃料としてはガソリンよりメタンガスの方が主流のようです(要出典)。 途中で給ガス(?)にガスステーションに一度立ち寄ったのですが、写真を撮りそびれました。 ちなみに給ガス時は車から降りて待つように言われました(たぶん)。 そういえば敦煌でタクシーチャーターしたときもメタンガスステーションを利用したことがあり、そのときもこんな感じだったなと思ったり。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
また、写真は撮っていないのですが、牛を積んだトラックや、道中車道沿いに立っている人達(1人もいれば、子連れもいました。ヒッチハイク待ち?)がいたのが印象的でした。
ちなみにドライブはなかなか刺激的で、道中、警察に止められて運転手が指紋を取られたり、対向車がいるのに対向車線にはみ出して車の間をすりぬけて追い越しをしたり、なんてこともあったりしました。 ただ、周りを見た感じだと他の車の運転はもっと荒かったです(ウィンカーを出さないのが基本。。。)。
イチャン・カラのチケット購入
西門の外のチケット売り場でイチャン・カラの共通チケットを買いました。 チケットの値段や有効期間などについては別記事に書いたので、そちらを参照。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
ちなみにチケットの有効期間について「1日ですか? 2日ですか?」とウズベク語で聞いたら、「ウズベク語上手いですね、ウズベキスタンで働いてるのですか?」(意訳)と言っていただけたので、お世辞入ってるだろうけど嬉しかったです。
昼食
眺めが良いと評判のTerassa Cafeに夜の予約をしに行ったのですが、夜は予約ですでに満席とのことだったので、そのままお昼にします。
屋上のテラス席はこんな感じ。
評判通り眺めを満喫できました。 と言っても、実際は日除けなどもあって、席からここまで綺麗に見えたわけではないです。
こちらの緑色の麺は、当地ホラズム地方の名物料理シュヴィト・オシュ。 麺に香草を練りこんでいるよう*8で、香りが良かったです。
肉も美味し。
なお店員さんは全員ではないですが英語が通じました。
イチャン・カラ観光
昼食後、ホテルに荷物をおいていよいよ観光開始です。
今更ですが歴史の予習 : イチャン・カラは「内城」の意味。ここでは特に、城壁に囲まれた旧市街を指します*9。 ここヒヴァの町は、17世紀頃からヒヴァ・ハン国の都、ホラズム地方の中心地として栄え*10*11、イチャン・カラには往時の歴史的建築物が残されています。と言っても、現在残っている建築物の多くは18世紀後半や19世紀あたり以降のものが多いようです*12*13。
散策
街中を散策しつつ、いったん西門の方まで戻ります。 なお、気温は最高22℃くらいで一見涼しいのですが、日差しが強くて体感ではなかなか暑かったです。 帽子とサングラスと日焼け止めは必須。夏はつらそうです。
土日だからか、ウズベキスタン国内からと思しき観光客も多く、賑わっていました。 女性は写真にもあるように、おそろいの民族衣装っぽい衣装を着てる(羽織ってる)ことが多かったです。 たぶんここで買ったもの。
こちらの、西門からまっすぐ東に伸びる通りに人が集中しています。 お土産屋も多数。 写真に撮りそびれたのですが、ナンに模様をつける道具(ティケッチと言うそう*14 )が数多く売られていて面白かったです。 自分の場合は使う機会なさそうだなということで購入は見送り。(でもこれだけ売ってるということは、買う人がいて、そして買った人も使う気ががあるということ...?)
奥に見える塔は通称カルタ・ミノルと呼ばれる未完の塔。 19世紀半ばに建築がはじめられたものの、ハンの死により建築が中断し、このような姿のまま残されているそうです。 当初の計画では高さ70m~80mだったとも、完成していたら100mになっていたのではないか、とも言われています*15。
モフモフ帽子がたくさん並べられていました。 売り物かと思ったのですが、写真撮影用のレンタル用品かもしれません。
帰国後に「khorezm fur hat」で雑にgoogle検索したところ、どうもchoʻgirma(英語だとchugurma)という名前のようです。 この時期や夏に被るのは暑いのでは???と現地では思ったのですが、wikipediaには"In summer, a chugurma protects from overheating and in winter from the cold."という記述もあったので驚きました*16。もしや外気温が体温より高くなるから頭部を守るために断熱性の高い帽子が役に立つ、ということでしょうか。
ちなみにこの後博物館を訪れて古写真を見ると、ヒヴァ・ハン国時代の人々が(王族も街の人々も男性は)多くがこの帽子を被っていました。 他の地域(ブハラなど)の写真ではほとんど見かけなかったので、上記のwikipediaの記述にもある通り、ホラズム地方限定の文化のようです。
西門すぐそばまで戻ってきて、東方向を見るとこんな感じ。
ところで、イチャン・カラを散策していると、子供/若者*17に声をかけられることが多く、「一緒に写真撮ってください!」というイベントが多発しました。 イランのときもこんな感じだったのですが、主要観光地を除くと東洋人が珍しいからかもしれません。
なお、声をかけてきた子供/若者は英語が話せる人が多かったです。 英語で外国人観光客と会話したい少年少女 vs. ウズベク語を現地で使ってみたい私...とはならず、少年少女の英語のほうが私のウズベク語より数段上手いので、英語での会話に落ち着きました。ただ、ウズベク語で二言三言話すと反応が良かったのは嬉しい。
博物館いろいろ
共通チケットで行ける博物館を巡っていきます。 以下、各博物館の名称は、現地の銘板の写真がある場合はその銘板に記載のウズベク語名と英語名を併記し、ない場合はチケット付属の地図に記載の英語名を記します。
Qozixona (Qozikhana)
まずは西門近くのQozixonaと書かれた小さな建物(2部屋くらいしかなかったです。)。
解説パネルによると、qoziはイスラーム法に基づいた判断を下す裁判官*18で、qozixonaは法廷のことのようです(たぶん)。
往時の道具や、裁判文書の一部なども展示されていました。 鎖みたいなものは拘束用の枷とかでしょうか。
なお、この建物自体は法廷だったわけではなく、アルク城の衛兵の詰め所兼一時的な拘置所だったようです*19。
Oq-Masjid Mennonitlari ko‘rgazmasi (The Exhibition of Ak-mechet Mennonites)
Mennonites(メノー派)とは、プロテスタントの一派のこと*20。 元々ドイツに住んでいた人々がエカテリーナ大帝の時代にロシアに移住し、さらにその一部が19世紀後半に紆余曲折を経てヒヴァ近郊に定住し、ヒヴァ・ハン国への西洋の技術の移入に寄与したそうです*21。 ここは彼らMennonitesについての展示で、展示物は一見した限りでは日常の品々が多かったと思います。
Muhammad Rahimxon II Madrasasi (Madrasah of Muhammad Rakhimkhan The II)
中は“Museum of the Ruler and the Poet”と銘打った、ヒヴァ・ハン国についての博物館になっていました(正確には、Muhammad Rahimxon IIの治世についての博物館?)。 個人的にはイチャン・カラ内の展示で1番が2番目くらいに良い展示だったと思います。
なお、大統領閣下の言葉が入り口に掲げられてるあたりはさすがウズベキスタン。
Muhammad Rahimxon II(在位1864 ~ 1910)の写真と、ヒヴァ・ハン国の国旗。 Muhammad Rahimxon IIは君主であると同時に詩人としても知られ、詩人や作曲家を集めたり、中央アジアで初めてリトグラフを導入したりしたとのこと*22。 ヒヴァ・ハン国は存在は知っていたのですが個人名はあまり把握しておらず、こうやって業績を知ることができて興味深かったです。
本とリトグラフ。 と並んで展示されているのですが、リトグラフは版画の制作に使われる印象が強くて、文字主体の本を印刷するのに使う印象はあまりないので、この2つに関係はあるのか気になります。。。
賑わうバザールの様子を写した写真。 ほとんどの人々があの特徴的な毛皮の帽子を被っている様子を見て「あの帽子、観光用でもなければ、王侯貴族だけが身に着けるものでもなく、本当に往時の人々の日常生活で普及していたものなんだ」と強烈に印象に残りました。
近代史はあまり予習しておらずヒヴァ・ハン国についてはほぼ予備知識皆無の状態で行ったのですが、その分新しく知ることが多く、かなり面白かったです。 団体客がいたのであまりじっくり見れなかったのが若干心残り。。。
お茶
朝から移動続き+その後即観光だったので、少しお茶しながら休憩します。(今回は同行者もいるのでまったりモードです。)
せっかくなので、椅子とテーブルではなく、奥の台に座ることにします。
屋根カーテンつきなので日差しも遮られ、極楽極楽。 歩いている間は日差しがきつかったのですが、湿度は低く温度もそれほど高くないので、日にさえ当たらなければだいぶ涼しく感じられます。 我々はほへーとくつろいでいたのですが、近くにはノートPCでカタカタ作業している方もいました。旅先で仕事してたのかな。
こちらの台、使うときは地べたに座る感覚なのですが、わざわざ脚をつけて地面から離すのは、地面の熱を避けるためでしょうか。 なお、後から調べたところではこの台はtapchanと言うそう*23。 ちなみに「タプチャン ウズベキスタン」でgoogle検索したら、なんとも魅力的な記事が見つかりました。 dailyportalz.jp 読んでるだけで、あのまったりした時間が恋しくなり、チャイを飲みながらくつろぎたくなること請け合いです。
日も少し傾いてきたので、再び観光に向かいます。
クフナアルク
次はクフナ・アルク。西側の城壁すぐ傍の、旧宮殿跡です。
こちらは19世紀の建物はいくつかあるのですがそれ以外は失われているとのこと。 直近だと2021年に発掘調査があり、陶磁器などが見つかったとのこと。 層を下に進むにつれて時代も遡り、古いものだと13~14世紀の品もあったそうです*24。
こちらは19世紀に造られたと思しき建物。 青いタイルの装飾が印象的です。
柱を支える礎石には、優美なアラビア文字(たぶんナスタアリーク体)が掘り出されているものもありました。 解説パネル*25をGoogle lensで読んだ限りでは、テュルク系の言語で書かれた詩だそうです。
テラス状の空間の奥の部屋。
また、その他のいくつかの部屋には、ホラズム地方の歴史についての展示がありました。 旧石器時代やアケメネス朝あたりなど、割と古めの時代の扱いが大きかった気がします。 ...と思ったのですが、公式webサイトらしきページの写真を見ていると、どうも後の時代を扱った部屋の展示を見逃していたかもしれません。。。
さて、地球の歩き方platで、見張り台から城内の眺望を楽しめると書かれていたのですが、どうも写真奥の塔のようなものがそれっぽいです。 ただ、スタッフらしきおばさまに訊いてみたらこの中からは直接は行けないようで、いったん外に出ました。
Ak Shikh-bobo tower
ということで、見張り台にGo。 こちらは別料金で、1人100千スムでした。
中庭のようなスペースを抜けて、
そこそこ急な階段を登り、
最後にもうひと頑張りすると
この眺望が迎えてくれます。 たぶんですが : 左の塔は大モスクのミナレット、真ん中のミナレットはイスラーム・ホジャ・ミナレット(翌朝登ります)、その隣のタイル貼りのドームはパフラヴァン・マフムード廟、中央右はカルタ・ミノル、その右下は、さきほど見てきたばかりのクフナ・アルクのテラス状の建物。 イチャン・カラは歩き回るだけでも楽しいですが、こうやって上から俯瞰すると本当に博物館都市なんだなと実感できます。
北方向。 確か別料金で城壁に登れると書いてあったと思う(そして実際歩いている人がいる)のですが、ここからの眺めで満足したので、そちらはパスしました。
なお、ここはイチャン・カラの西側の城壁にあり、東側に街を望む形になるので、今回のように夕方に行くと順光で景色も見やすそうです。
夕食
素敵な眺めのレストランで夕食...と行こうと思ったのですが、予約でいっぱいらしく、席が取れませんでした。
ということで写真だけ撮って、城壁外のお店に行くことにします。 google mapsで調べるとヌルラボイ宮殿前の北北東に伸びる通り沿いにいくつかレストランがありました。 ちなみに余談ですが、イチャン・カラを歩くにはYandex mapsの方がGoogle mapsより便利だったのですが、レストラン検索はYandex mapsよりもGoogle mapsの方が口コミなどが多くて使いやすかった気がします。
小さいローカルっぽいお店(お店の外観写真は撮り忘れたのですが、地図を見る限り、たぶんAta Gamburdというお店。)にしたのですが、なんとここでも店主さんには英語が通じました。(というか英語で話しかけてくださった。) サラダにもサモサのタレにも香草たっぷりで美味しかったです。 ちょい塩味強めだったのでビールに合いそう。
イチャン・カラに戻ると、城内がライトアップされていました。
昼間とはうってかわって涼しく、通りは人で賑わっていました。 9月に河西回廊を旅したときにも思ったのですが、こういった乾燥して日差しが強い地域は日が沈んでからが賑わいの本番な気がします。
ホテルに戻り、翌日に備えて、共通チケットで行く予定の場所をYandex mapsでお気に入り登録しておきました*26。
翌日に続きます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
参考文献
- [1] 地球の歩き方編集室(2023)「地球の歩き方Plat P23 ウズベキスタン」 ISBN: 978-4-05-802008-1
- [2] 小松久男, 梅村坦, 宇山智彦, 帯谷知可, 堀川徹 編 (2005)「中央ユーラシアを知る事典」平凡社 ISBN: 4-582-12636-7
- [3] 小松久男 編者代表 (2023)「中央ユーラシア文化事典」丸善出版 ISBN: 978-4-621-30806-6
*1:HY11 : Tashkent-T3 7:15 -> 8:55 Nukus
*2:T3はぐるっと回って空港の反対側にあります。
*3:「ウズベキスタン市民専用」との旨書かれたレーンも外国人観光客に開放してた。
*4:空港の到着ロビーには売店はないのですが、出発側に行くと売店があり、そこで買いました。
*5:ただ、Yandex Goはドライバー側で受諾前に目的地を確認できるのか気になります。これ「近場のつもりが、取ったら170km先のヒヴァ行きだった」とかだったらかなり申し訳ない。。。
*6:42万スム。ただし、英語でもウズベク語でも1000の部分を省略して言うことが多かったので、~千スムという形で書きます。
*7:色が不自然なのは、窓ガラスのフィルムの影響。
*8:参考文献[1] p.51
*9:参考文献[2] p59「イチャン・カラ」の項目。「直訳すれば<内城>で, 城壁に囲まれた旧市街地を意味する. 中央アジアのオアシス都市の基本形である要塞と市街地の部分をさし, 後に発達した郊外部分はディシャン・カラ(外城)と呼ばれる. 」
*10:参考文献[2] p.439「ヒヴァ・ハン国」の項目。「国の名(通称)は, 当初国の中心であったウルゲンチが水路の変化による水不足のために衰退し, 17世紀前半からヒヴァが首都となったことに由来している.」
*11:参考文献[3]p.358「ヒヴァ」の項目。「16世紀初頭にキプチャク草原(現在のカザフ草原, 南ロシア平原)から南下したウズベク遊牧集団がホラズムを征服すると, ウルゲンチはその中心都市となった. しかし1570年~1580年代に起きたアム川の流路変更に伴い, ウルゲンチ一帯が荒廃すると, 住民はホラズムの南北へと移住を余儀なくされ, 南に移住した人々はヒヴァを中心としたベシュ・カラ(原義は「五城市」ホラズム南部を指す呼称)に定住するようになった. こうしてヒヴァはホラズムの政治的中心都市へと成長し, そのハン国は名実ともにヒヴァ・ハン国と呼ばれるようになった. 」
*12:参考文献[2]p.439「ヒヴァ・ハン国」の項目。「1740年に, イランのナーディル・シャーの攻撃を被ったのに続き...(中略)...70年, イナクのムハンマド・アミーンはトルクメンを破り, 政治的安定を回復してヒヴァの町の再建に乗り出す. ロシアの進出によって活発化した交易にも支えられて, 現在ヒヴァに残る建物のほとんどがこの時期以降建設された.」
*13:参考文献[3]p.358「ヒヴァ」の項目。「1804年ウズベク・コングラト族の王朝が創始されるとようやく政治的安定が訪れた. (中略)こうした富を背景に, コングラト朝期には, 現在目にすることができるヒヴァの内城(イチャン・カラ)の相貌が整った. 」
*14:参考文献[1]p.45, p.52
*15:以上、https://www.khivamuseum.uz/en/muhammad-aminkhan-minaret と https://www.khivamuseum.uz/en/muhammad-aminkhan-madrassah-1855 (おそらく、ヒヴァのイチャン・カラの公式webページ)より
*16:wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Chugurma より
*17:ヒヴァ在住者ではなく、ヒヴァに観光しに来てると思しき人々。
*18:世界史でも「カーディー」という単語を聞いた記憶があるので、それが訛ったもの?
*19:https://www.khivamuseum.uz/uz/qozixona
*20:コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88-141624#w-644216
*21:以上,http://www.uzbekjourneys.com/2011/09/mennonites-in-khiva-1880-1935.html より。きちんとした出典は探してないです。
*22:解説パネルより
*23:tapchanは英語版wikipediaの表記であり、ラテン文字ウズベク語でもこの表記になるかは未確認です。
*24:以上、現地の解説パネルより。
*26:チケットの地図はあんまり役に立たないので。。。