世界史ときどき語学のち旅

歴史と言語を予習して旅に出る記録。西安からイスタンブールまで陸路で旅したい。

2024年新疆旅行15日目 : パミール高原ツアー3日目

ムスターグ・アタの氷河

2024年シルクロード新疆の旅15日目(2024-09-25)の記録です。 この日はパミール高原ツアー最終日。 2日前にカラクリ湖から仰ぎ見ていたムスターグ・アタの氷河を間近で眺め、大自然のスケールに思いを馳せました。 いまだにあの氷の塊が流れるのが信じられない。。。

今回の旅全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

移動

前日に同じく、朝9時(実質7時より前)にタシュクルガンのホテルを出ます。 パミールの山嶺が陽を浴びてて美しい。 昨日(の前半)と一昨日は南に走りましたが、今日は最終日ということで反転し、北に戻ります。

30分ほど走ると、この日の目的地が見えてきました。 2日前にカラクリ湖の湖畔から眺めたムスターグ・アタです。 2日前の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

初日に通りがかってるのにそのときは行かず最終日に行く理由ですが、ドライバーさん曰く、「標高が高い上に歩くので、高地に体が慣れた最終日に行くのが良い」(要約)とのこと。 確かに、タシュクルガンの町でも標高3000mを越えているようなので、この1.5日で高地順応できてそうな気がします。

ちなみに今日の行き先は少し歩くのですが、往々にして南疆*1の観光地は北疆に比べて体力がいらないことが多く、南疆に比べると北疆に来る観光客は高齢者が多いそうです。 北疆の観光地は草原を歩いたり馬に乗ったりすることが多くて高齢者にはきついとか。

ブレブレですが、外に見えたのは、なんと車道の端を走る馬! 観光用とかではなく、人々の生活の中で利用されているそうです。

一方、(写真は撮りそびれたのですが)トラックに載せられた馬たちも見かけました。 ドライバーさん曰く、こちらは氷河公園(この後の目的地)で観光客を乗せる馬が出勤するところだとか。

遠景の氷河を戴いた山と、近景の草地+馬、なんとも絵になります。

慕士塔格冰川公园

タシュクルガンから1時間ちょっとで、慕士塔格冰川公园に到着です! 上の方は寒いと聞いたので、着替えに持ってきたズボンやシャツを重ねました。 あと、サングラスも(単純に海抜が高く紫外線が強いのと、氷河からの反射も多いので。)。

中国の大規模観光地あるある、とりあえず最初はビジターセンターに入ります。 ちなみに、「高地なので3歳以下、60歳以上、基礎疾患(高血圧や心臓病など)のある方は入園禁止」との注意書きがありました。実運用がどこまでこの通りかはさておき、年取る前じゃないと行けないところってあるんだなと再認識しました。 ドライバーさんがチケットを購入してくださるのを待つ間、しばし待機。

模型があって、鳥瞰したときの概要をつかめます。 中央やや右、麓にある「游客服务中心」が現在地で、そこからシャトルバスで氷河の端のあたりまで登っていきます。 左に「国际登山基地」が見えるのですが、こちらは山頂を目指すガチ登山家の方向けのはず。私は雪山も登るのですが、7000m峰は想像もつかない世界ですね。

ということで、乗車。 このときは朝一番の第一便で人が少なかったからか、後ろに並んだバスではなく、バンでの移動でした。

乗車時間は意外と長く、15分くらいかけて標高を少しずつ上げていきます。 この道中の眺めも良かったです。がしかし、進行方向右側に座ったのに対し、反対側はムスターグ・アタを望めたので、上りは左側の座席の方がよさそうです(ということで、帰りはそちらが見える側に座りました。)。

バスの終点からは徒歩または馬で先を目指します。

ドライバーさんに事前に聞いた話だと800mくらい歩くので上りは馬、下りは徒歩がおすすめとのこと。 ただ、片道1人100元とそこそこ良いお値段がするのと、そもそも馬が朝早すぎてまだ来てなかったので、自力で登ることにします。 一緒のツアーに参加していた重慶女子は自力で登ったのですが、広東夫婦は馬を待つことに(ただ、鍵のトラブル?とかでこの日馬が来たのは11:30頃で、ご夫婦は上まで行くのを諦めていました。残念。。。)。

海抜が高くてきついけど、深呼吸してゆっくり登れば特に問題なく歩けました(登山と違って荷物もないのも大きい。)。

遠くに別の氷河も見えます。

だいたい20分くらいの登りで、一番上の氷河展望台に到着! 看板の海抜表示を見ると、バス終点からここまで標高差約100m程度でした。

近くで見ると、まるで岩山のよう。 近くの人間と比べると大きさも良く分かります。

氷河は「河」の字の通り流れるはず*2なのですが、目の前の氷の塊を見るとこれが流れるとは俄には信じがたく、時間スケールの長さに気が遠くなります。

遠くの氷河を眺めると、シワのような模様らしきものが見て取れました。

もしかして、眼の前のこの周期的な形も、同様に流れる過程でできたしわしわだったりするのかな。

溶岩表面にもしわのような模様ができるし、もしかしてゆっくり流れる流体には普遍的に見られる現象なのかな?と思ったのですが、後でざっと調べた限りでは原理が異なる気もします*3

振り返って下を眺めても良い眺め。

もう少し近くで観察してみます。 横方向の縞模様はおそらく雪が降り積もったときにできたものかと思われます。 ちょっと面白いのは、右下あたり、岩(人の頭より大きいくらいのサイズでした)を巻き込んでいるところ。

こっちのほうがわかりやすいかも。 たぶんなんですが、氷河に押し流されてきた岩・石が、氷河が溶ける先端でこぼれ出てるところなのかな、と思います。 モレーンってこうやってできるのか。

改めて氷河の表面を見てみると、縦方向の模様が走っている部分もありました。 これは氷河表面が溶けたときの水によるものかな? そして触ってみると、完全に硬い氷です。これが流れるとは俄には信じがた(2回目

そろそろ良い時間になった + 馬に乗った一団も上がってきて人も増えてきたので、下り始めます。

観光客は馬に乗り、その前を人が手綱を引いて歩くのですが、この高地の上り坂にもかかわらず、私たちが普段の町中を歩くようなペースで歩いていらして驚きました。 ドライバーさんに聞いた話では、近くの村*4の方々が馬を引いてくださってるとのことで、やはり普段から高地に暮らしている方は違います。

馬は下りは空荷のこともあるよう(上りの片道でお世話になる人が多いので、それはそう)で、その場合は引いてた人が乗って下りていました。 やはり観光客を乗せてた時よりはペースが速く、山道で華麗に馬を操る姿はかっこいいです。

当然ですが上りよりはだいぶ楽なので、息も絶え絶え(?)に上る人たちとすれ違いつつ、バス乗り場まですんなり下山できました。

上りのときの反省を活かし、下りのバスではムスターグ・アタが見える側に座ったので、絶景を満喫できました。 しわのような模様や、全体的に枝分かれしてでろーん(語彙力)とした形から、確かに流れているようにも見えるので、間近に見たときとのギャップが印象的です。 見る空間スケールを変えると見え方が変わって面白いです。

隣に見えるゴングール山?方面。あちらもでろーんと氷河が発達していると思しき姿が見えます。

バスでビジターセンターに帰って来ましたが、帰りの集合時間までまだ時間があったので、ムスターグ・アタの勇姿をしばし堪能しました。

カシュガルへの帰路

3日間のツアーもいよいよ終わり、後はカシュガルへ戻るだけ。

とは言え、帰路の道中も絶景です。この日かどうかは覚えていないのですが、ツアー参加者の広東夫婦の旦那さんが「路上睡一觉,看不到一生的美景。」とツアー中に仰ってて、心から同意でした。

ムスターグ・アタを背景に草をはむヤク?の群れ。 後で写真を見返したときに気づいたのですが、牧夫の方の帽子はキルギス族などが被るタイプの帽子を被っていますね。 あと、写真は撮りそびれましたが、道中で犬も見かけました。野良犬などではなく牧羊犬だそう。

昼食の時間はないので、道中で日本から持ってきたカロリーメイトで栄養補給。 やはり高地だけあって、袋がパンパンに膨らんでいます。

水と緑に恵まれた眺めもあれば、

乾燥して荒涼とした眺めのところも。 降水が少なく河に水を依存するので、河から離れたときの差が激しいです。

一方で、同じ川沿いでも緑の気配のないところも多いです。 何がこの違いを生むんだろ?(ぱっと思いつくのは傾斜と流れの速さとか?)

白沙山白沙湖景区あたりを過ぎて、山間の道に入っていきます。

往路も通ったのですが、土砂崩れの復旧作業中のところも通りました。 今回は幸い通行止めになりませんでしたが、運が悪いと通行止めや渋滞などで数時間ロスするそうです。

だいたい4.5時間くらいのドライブで、17時前にカシュガル着! 現地時間の感覚だと15時前なので、だいぶ早めの到着な気分です。

順次お客さんを降ろして解散です。 広東夫婦は、明日も同じドライバーさんと1日ツアーとのことでした(行き先を聞いたはずなのですが、忘れました。。。)。 重慶女子はウルムチに夜行列車で帰るとのこと。初日は朝着の夜行列車から直行、帰りも夜行列車、でなかなかの弾丸旅行です。

夕食など

ひとまずホテルにチェックインします。 心なしか階段を歩く足取りが軽くなったように感じられます。「これが高地トレーニングか」と一瞬思ったけど、大して上で運動してないしこんな短期間で効くとは思えないので、単に上がきつかっただけな気もします。

夕飯はこちらのお店で。

ラグマンと、薄皮包子を頼みました。 薄皮包子が何かを知らずに頼んだのですが、

ウズベキスタンで食べたマンティと類似したものでした。 確かに中国の普通の包子に比べると皮は薄いので、尤もなネーミング。 具はかぼちゃとのことだったので、かぼちゃの方はつぶしたかぼちゃが餡になってるのかと思いきや、さいの目切りのかぼちゃが入ってで少しびっくり。 ピリ辛で、肉も少量入ってた気がします。

夕食後、ホテルに戻ったら太鼓の音が聞こえてきたので、外に見に行ったところ、車(ピックアップトラック?)の荷台で演奏する人たちがいました。 視認はできなかったのですが、ズルナのような音も聞こえました。

その後ろにカメラを構えた車、さらに後ろに花で飾られた車が続いていました。

ホテルの警備員さんに聞いたところ、ウイグル族の結婚式の始まりを告げるパレード?だそう。

翌日に続きます。

参考文献

  • [1] 日本雪氷学会 監修 (2018)「新装版 雪と氷の事典」朝倉書店 ISBN:978-4-254-16131-1
  • [2] Slim et al (2009) “Surface wrinkling of a channelized flow” Proceedings of the Royal Society A

*1:新疆のうち南側の部分のこと。と言っても、トルファンあたりまでは含む気がします。対して北疆はイリあたりなどの印象。

*2:参考文献[1]「氷河は「重力によって長期間にわたり連続して流動する雪氷体(雪と氷の大きな塊)」と定義される.」

*3:参考文献[2]などでは、溶岩のしわは「粘性のある流体の上に、薄くて固いシートが乗っている」モデルで説明されていました。溶岩は表面が冷えて固まるためこのモデルが自然に思えますが、氷河の場合は「表面に薄くて固いシートがある」というモデルで説明するのは無理がある気がするので、おそらく違う原理なのではないかと思われます。

*4:確か5つ(?)の村が輪番

2024年新疆旅行14日目 : パミール高原ツアー2日目(クンジュラブ峠など)

クンジュラブ峠、パキスタンとの国境すぐそばの門

2024年シルクロード新疆の旅14日目(2024-09-24)の記録です。 この日はパミール高原ツアー2日目。タシュクルガンの町から出発し、さらに南下してクンジュラブ峠でパキスタンとの国境を眼前に眺めたり、ワハーン回廊の入口でアフガニスタンへと続く道に思いを馳せたりと、陸路国境を感じた1日でした。

今回の旅全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

朝食と移動

やはり(時計の上での)夜明けは遅く、写真は午前9時頃のもの。

8時半過ぎから朝食だったのですが、その時点ではまだ夜が明け始めたくらいの感覚でした。 朝食はバイキングは食器は使い捨てでメニューもシンプルなもの*1だったのですが、まあ標高3000m越えてるところだし、丹沢とかの山小屋よりは豪勢だなー、と思うと特に気にならず、むしろありがたいくらいでした。

9時過ぎに出発。 前日はカシュガルからタシュクルガンまで約290kmを走ってきましたが、今日はさらに100km以上南下します。

道中、前日に引き続き、ドライバーさんの身の上話なども聞かせてくださいました。

  • 甘粛出身の漢語話者ですが、ウイグル語をある程度話せるそう。カシュガルで生活するには、やはりウイグル語はある程度は必要とのこと。
  • かなりお酒を飲める方で、白酒を一斤?飲めるらしい。ただ、前と違って人に酒を進める文化はだいぶなくなったらしい。というのも、何人かで酒を飲んでそのうち誰かが亡くなったら(その場とかでなく家に帰る途中とかでも)、一緒に酒を飲んだ面子が賠償する必要があるからとか。
  • 実家は農家だけど、畑は今は人に貸してるらしい。借りた人は漢方薬の栽培をしていて、ちょうどCOVID19が流行ったあたりに板藍根を栽培してたのが大当たりしてかなり儲けたらしい。

進行方向右側の席だったので、朝日に照らされる山並みを拝むことができました。 前日も思ったのですが、山に植生がない、という点で日本の山の風景とは大きく違う印象を受けます。

ひたすら人の気配のない荒涼とした土地が続く...わけではなく、ところによっては人家もあり、街とは呼べずとも村と呼べるくらいの場所もありました。

途中、名物(?)の案内標識でいったん停車し、写真撮影タイム。 英語表示からも分かりますが、上から「パキスタン」「アフガニスタン」「ワハーン回廊」。 車道の案内標識に国名が並ぶというのは、島国で生まれ育った人間としてはワクワクするものがあります。 ちなみにパキスタンもアフガニスタンもここから見えるわけではなく、アフガニスタンにいたっては国境まであと400km程度あるとか(ドライバーさん談)。

後ろを振り返っても絶景。 遠景の雪山は、方角的には昨日近くで見たムスターグ・アタかも...?(いや、でもこんなに高くなかった気もする。)

ユルト?と家畜(写真を拡大すると牛っぽい)の群れ。 観光用などではなく、放牧のための(一時的な?)移動生活のためのユルトだそうです。 今は9月後半でこうやってユルトで遠くの牧草地に来ているのですが、冬は家の近くにとどまるそう。

牧点(pasture point)の標識。もしかしてどこでも勝手に放牧しては良いわけではなくて、「放牧可能なエリア」が指定されてるとかでしょうか...? モンゴルの事例ですが、遊牧民であっても自由にどこでも遊牧できるわけではない(季節の変わり目での放牧地からの立ち退き期限が決まってる、など)、という話は以前読んだ記憶があります*2

こちらにも、ユルトと家畜。

以前、 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com などの本を読んだときに「セルロースを消化する家畜の力*3を利用し、農耕が不可能な乾燥した地域でも人の営みを成立させるのが牧畜の本質」とふんわり理解したのですが、過酷な環境で実際にその姿を見ると、地に足のついた理解というか、本で読むのとはまた違う感慨を覚えた気がします。

なお、タシュクルガンの街を出てすぐあたりで「業者さんが家畜を買い付けに来て、カシュガルまで出荷する」とドライバーさんが話してたので、おそらく「家畜が人の営みを成立させる」具体的な形は、以前とは異なったものになっているのではないかと思われます*4

山間部に入り、ぐいぐいと標高を上げていきます。

道沿いに並んだ下向き矢印の標識が現れました。 なんだと思ったら、ドライバーさん曰く積雪時にも道路の範囲が分かるようにするためのものだそうです。

この旅でも随一の数と密度の家畜の集団を目撃。 ドライバーさん曰く「家畜は財産なので、ここの所有者はお金持ちに違いない」だとか。

写真を拡大してみるとヤクのようです。 前日に白沙山白沙湖景区で見かけた、観光客を乗せるヤクは、白い毛の個体がほとんどだったと思うのですが、ここでは白い毛の個体はむしろ少数派っぽいです。 やっぱり観光用には映える個体を連れて行くのかな。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

写真は取りそびれたのですが、中国ではなかなか見ないデコトラ?ともすれ違いました。 ナンバープレートも中国のものとは異なり、パキスタンの車だそうです。

そしてナンバープレートといえば、見かけた中国車のナンバープレートもなかなかすごくて、「京」(北京)や「魯」(山東省)などと書かれたものもありました。 google mapsで経路検索したらここまで4000km以上あるのですが、ほんまにここまで運転してきたの???

クンジュラブ峠

タシュクルガンの街から約2時間のドライブで、中国・パキスタンの国境のクンジュラブ峠に到着です! 高山の中の陸路国境って辺境も辺境のはずなのですが、大きな駐車場に、トイレ、売店まで並んでいて、思った以上に観光地でした。

駐車場から国境のゲートまでは、カートで移動です。

しばしの乗車で、「国门」(国境ゲート、というか検問所?)までやってきました! 陸路国境を目にしたのはこれが人生初です。

写真撮影禁止という注意書きも1箇所だけあった気がするのですが、周りの人は写真撮りまくってたし、警官?や兵士?も見てても一切止めなかったので、陸路国境ってこう、写真撮影禁止とかもっとピリピリした場所じゃなかったんか...?と若干困惑しつつも私も遠慮なく写真撮ります。 ちなみに、警官?に「写真撮りたいからこっちに立ってもらえますか?」って声かけてる観光客はいたのですが、さすがにこれは断られてました。

さらに先に進むと、正真正銘の国境ゲートがありました。 このゲートの先はもうパキスタン。 向こう側にはパキスタン国旗が翻り(あと、テントのようなものにもパキスタン国旗が描かれているっぽい)、

I ♡ PAKISTANのオブジェがあるのも見えて、ふおお、ほんとうに陸路国境を目にしてるんだなあ、と感動しました。 今回は国境は超えないのですが、パキスタンを旅する力が身についたら超えてみたいなー。

隣では、国境の標識?と記念撮影する人で長蛇の列ができていました。

なんと海抜5100mだそう! …と思ったのですが、web上の情報をいくつか見た感じだと、もう数百m低いっぽいです*5。 が、いずれにせよ、これまで訪れた最高地点が富士山(3776m)なので、自己ベスト大幅更新です! 富士山と違って自分の足で歩いてるわけではないので達成感的なものはないですが、とはいえ、相応の感慨はあります。

随分ときっちりした制服の警官?がいるなと思ったら、国旗降納?を見れました。

一通り満喫したので、カートで駐車場に戻ります。

移動

再び、車で移動。 ここが今回の旅程の最南端なので、来た道を北に戻ります。

しばらくは高山らしい光景が続きますが、徐々に標高を下げていき

比較的なだらかで開けたところまで戻ってきました。 でもそれでも標高3000mくらいあるかと思うので、日本の標高感覚だと一瞬変な気分になります。

何やら車の流れが止まってる?と思ったら、家畜が道路横断中でした。 ドライバーさん曰く「牛も羊も止まってくれないから、あっち優先。」。 ちなみに今回出くわしたのは山羊や羊のようでした。

こちらも山羊など。 往路よりも家畜に出くわす機会が多かったです。往路は朝早すぎたから、とかかな。

ワハーン回廊

クンジュラブ峠から1時間弱、次の目的地のワハーン回廊に到着です。

google mapsより
中国は様々な国と国境を接しており、そのうちの1つがアフガニスタン。 地図を見るとアフガニスタン東部に、北のタジキスタンと南のパキスタンに挟まれた細長い領域があり、その東端が中国に接しています。 ワハーン回廊は、この細長い領域の山間を走る谷をつなげた回廊地帯のことです。

今回訪れたのは、その中国側の東端のさらに東の国道(地図にG314とあるもの)近くの観光エリアです。 ということで、「ワハーン回廊を訪れた」とはとても言えず、あくまで「ワハーン回廊入口をチラ見した」と言うべきな気もします。

がしかし、あの山と山の間の谷が回廊になっていて、ひたすら歩いていけばアフガニスタンにつながる、と思うと感慨深いものがあります。 とはいえ、パキスタンとの国境のクンジュラブ峠とは異なり、こちらは国境は開放されていなかった気がします(要出典)。

向かって左(南側)に目を転じると、草原が続くのが見て取れます。 このへんは確か川沿い。

パノラマにするとこう。

クンジュラブ峠ほどではないですがある程度は観光地化していて、オブジェや記念碑や解説パネルなども置かれていました。 ちなみに、このオブジェの前ではおじさんどうしの怒鳴りあいの喧嘩が発生してたりしました。たぶん写真撮影の順番をめぐってのものかと思うのですが、血気盛んやな。。。

玄奘ここを通ったことの記念碑。他にも、東晋の法顕、後漢時代の安世高の2人の訳経僧がここを通過した旨の記念碑と解説パネルがありました。 こういうのを見ると、どうやって場所を特定するのとかいつも思ってたのですが、ここの解説パネルには少し言及があり、冯其庸氏の文献研究と実地踏査により1998年頃?にこの見方が確立したっぽいです*6

13時も過ぎた頃で、レストランと売店もあるので、ここで軽く昼食にします。

ただ、レストランは簡単なビュッフェの割に38元と高め。ということで、私は前日に買ったナンの残りと、あと売店で買ったソーセージで昼食にしました。 まるで登山の行動食。

ツアーで一緒の面々は、売店でカップ麺を買ってました。 がしかし、水道は当然通っていないので、ペットボトルの水を買って、それをお店の電気ポットで沸かす、という形式でした。 まるで登山(2回目)*7

移動

再び車に乗り、北に戻ります。

相変わらず家畜の群れにちょくちょく遭遇します。 これは最接近したときのもの。 基本的に羊ですが、少数の山羊が混ざっていました。 確か、羊の群れに山羊を1頭とか少数混ぜておくと、群れのコントロールがしやすくなるみたいな話をどこかで聞いた気がします(要出典)。

パキスタンからと思しきデコトラ?を写真に収めることができました。 どちらもウルドゥー語と思しきアラビア文字が印象的です。

次の目的地は、この向かって右手の山を東西に超える道です。

盘龙古道

国道(G314)をそれて、盘龙古道に入っていきます。 ちなみに「古道」と言ってるけど最近できた名所かと思います*8。 看板にある通り、一方通行です。

最初はなだらかなのですが、いくつもの急カーブを経て標高を上げていきます(動画は撮ったのですが、写真は撮りそびれました。。。)。 連続する急カーブに車酔いする人も多いそうですが、今回は幸いにして全員無事でした。

20分近くの上りで峠に着き、いったん休憩。

ここまでも眺めは良かったのですが、ここの一番の見どころはここからの下り。

ヘアピンカーブが続く道を上から見下ろすことができます。

展望台が整備されているところもありました。

よくこんなところに道を通したなと、人類の土木技術に敬服するばかりです。

ドライバーさん曰く(超早口中国語だったので、私が正しく理解できていれば)、どうも元々鉱山開発のために道路を通したけど、規制で鉱山を掘れなくなって、一般道路兼観光名所に転用した?っぽいです。

さきほどまで眼下に見えていた連続するカーブを下って標高を落としていくと、

ようやく平地が見えてきました。

下り終えたところには、こんなオブジェが。 「今日走过了所有的弯路 从此人生尽是坦途路。」 先程までの急カーブの連続と人生の道のりをかけているようで面白い。

移動

道を進んだ先にサービスエリア的なところがありました。 私たちツアー参加者はワハーン回廊で昼食を摂ってたのですが、ドライバーさんはまだだったので、ここでドライバーさんのご飯休憩。

その間、景色を見ながらのんびり。 ここもなかなか景色が良かったです。 湿潤な地域に育った身としては、乾燥して山肌が見える山並みというだけで目を引かれる景色なのですが、さらにそこに氷河の雪解け水(たぶん)に育まれた緑が彩りを添えるという点が、いかにも中央ユーラシアの景観でたまりません。

待ってる間に、同行者の方から夕飯に四川料理のお誘いを受けました。 が、タシュクルガンに着いたら1人で博物館に行く予定だったのと、辛いのには弱いので、残念ながら見送り。

ドライバーさんも戻ってきたので、再び移動開始。

移動中に、路肩に生えてる気が面白いらしいという話が出たので、しばし停車して観察

近くで見ると、小さい黄色い実がたくさんなっていました。 沙棘(shā jí)と呼ばれる木だそう。 実は未熟なときは酸っぱく、熟したら酸味は減るものの渋みが強いとのこと。 食用に向かないのでは?と思ったら、健康ドリンクの原料として人気だそうです。

話によると、育てて実をならせるところまでは簡単なものの、収穫が大変でお安くはないそうです(棘が多かったり、実は触るとすぐに皮が破れてしまう、など。)。 ということで、冬に実が凍ったときに木をゆすって落とすのが定石とのこと。凍ってるので皮が破れる心配がないんだとか。

土の表面に見える白いものはドライバーさん曰く塩だそう。

さきほども書いたばかりですが、乾燥した山肌と、谷沿いの緑の対比が鮮やかです。

班迪尔蓝湖

先程から谷の川沿いを走ってきており、そのまま進むと湖にたどり着きました。 こちらは通称「班迪尔蓝湖」と呼ばれる湖。 正式には「下坂地水库」と呼ばれるダム湖のようです*9。 ドライバーさん曰く、この水もやはり雪解け水が集まったもので、遠くヤルカンドに流れるそう。

湖面が鏡のように、山並みを見事に映していました。 映えスポットなのか、路肩に駐車して写真撮影している人たちが他にも何組かいました。

博物館(帕米尔文化博览园)

初めての町では現地の博物館に行く、というのをモットーにしているのですが、タシュクルガンにも博物館があります。 今回のツアー日程には入っていなかったので、この日町に戻ったところで博物館でおろしてもらい、1人で見ることにしました。

がしかし、「この博物館は移転しました」との張り紙が...! 移転先は歩きで行ける範囲なのですが、時刻は既に18時半過ぎ(新疆基準だと-2時間~-3時間くらい)、博物館の開館時間を考えるとかなりギリギリです。 ということで急いで向かおうとするのですが、さすが標高3000m越えの町、走らず早歩きするだけでもすぐに息切れしてしまいました。

移転先の帕米尔文化博览园には、10分かからないくらいで到着。移転先が近くで良かった。。。

ゆっくり見る時間はなかったので、現地ではざっと流し見+写真を撮りまくりました。 かなり新しい博物館のようで建物はかなり立派ですが、展示はモノよりもパネルが中心かな。マルチメディア展示があまり稼働していなかったのは、博物館ができたばかりなのかもなので、今後に期待です。

自然編

パミール高原は、自身と周囲に世界の8000m峰14座が全てあることから「万山之祖」、また氷河の雪解け水が多数の河の水源となることから「万水之源」と呼ばれるとか。

植物標本や動物の模型?なども展示されていました。 タシュクルガンには野生動物自然保護区も設定されており、チルー、ヤク、チベットノロバ、ユキヒョウなどさまざまな貴重な動物が生息しているそう*10

歴史篇

解説はところどころ熱いナショナリズムが迸るのですが、そのへんは脇に置いて見ていきます。 まずは石器時代から始まるのですが、私は文字記録がない時代への興味が薄いので、スキップ。

張騫の西への旅や、西域都護府など、新疆の博物館あるあるの話題なのですが、意外と面白かったのが、右下の漢の様式の銅鏡の出土地域についての図。現在のウズベキスタン・キルギス・タジキスタンあたりから、遠いものではカザフスタンの北西部からも出土例があるそうです。日本の古墳などから見つかる例は知っていたのですが、西の方にもこれだけ広がっていたのは知りませんでした。

これも今回の旅で何度も見かけた、求法僧の話。 玄奘や法顕がパミールを越えた話は、今日ワハーン回廊の入り口でも見かけましたね。

こちらの図の出典の「欽定皇輿西域図志」は、乾隆年間に編纂された新疆の地誌?地図?だそう*11。 前近代の地誌はかなーり興味があるので、気になる。

公主堡古城遗址、海抜4000mの峻険な山の上に築かれた唐代の遺跡だそう。中国最高(物理)の遺跡とも。 地図(高德地图)で調べたところ、今日のお昼に訪れたワハーン回廊入口の近くにあるようです。 石頭城(前日の旅行記参照)のときにも思ったけど、あの時代によくこんなところに城を建てたものだなと驚かされます。

この後は、清代のジュンガル平定や、左宗棠の話、近現代の話もあるのですが、近現代はあまり興味がないので、ここではスキップ。

民俗編

主にタジク族の文化を紹介しています。 「タジク」という言葉からはタジキスタンとのつながりを連想し、実際、イラン系の民族ではあるようですが、言語はタジキスタンのタジク語(イランのペルシア語と同様?)とはやや別系統のようです。

伝統的な装い。 さすがにここまで華やかなものではありませんが、円筒形の帽子にスカーフを巻いた女性は町中でも見かけました。

鷹の舞と伝統楽器。 鷹の舞(塔吉克族鹰舞)は国の無形文化財(国家级非物质文化遗产)にも登録されているとのこと。 タジク族の伝統文化では鷹を強者や英雄の象徴とみなしていて、民話や民謡によく登場するそうです。

国境編?

中国の博物館あるある、赤い展示。 今まで訪れた博物館の赤い展示コーナーでは、たいていは新中国成立に関わる功績などの展示が多かったのですが、ここは国境の町だけあり、国境警備隊をテーマにしていました。

今朝訪れたばかりの、クンジュラブ峠の国境について。

なかなか興味深かったのが、国境の巡視などの移動にヤクを利用していること。 確かに、道路も通っていない高山地帯を移動するのには理に適っています。

国境巡視の過酷さを伝える展示。 険峻な地形や氷河・雪などは想像ついていたのですが、「斗野狼」は想像ついてませんでした。狼出るんか。。。

この後、近年のタシュクルガンの経済発展についての展示もあったのですが、ここでは略。

タシュクルガンの街+夕食

博物館からホテルまでは町中を歩いて戻ります。

道行く人々は彫りの深い顔立ちの方が多く、円筒形の帽子+スカーフをかけてる女性も3人ほど見かけました(ただ、スカーフをまとっていたのは皆さん高齢の方だったので、若い人はあまり伝統衣装は着ていないかも?)。

新华书店站というバス停があって、こんな小さな町に新华书店があるのかと驚いたのですが、店舗らしきものは見当たらず、高德地图を見たらさすがに閉店済みでした。

あと、小さい町ですが、美团外卖の配達員の方を見かけて驚きました。それだけの需要があるんだ。。。

夕食は道中のお店でラグマン。 砂肝っぽいものが入っていたり、目玉焼きが乗っていたりと、ここまでであまり出会ってなかったタイプのものでした。砂肝はちょい臭みがあったけど、半熟目玉焼きはよくあうし、何より野菜多めで嬉しい。

ホテルに着いたので、明日に備えて早く寝よう...としたところで、鍵が開いて他の人が部屋に入ってこようとするというイベントが発生しました。 私は課金して1人で1部屋を占拠していたのですが、どうもホテル側の手違いっぽいので、その旨本人とカウンターで説明して無事解決。

翌日に続きます。

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

  • [1] 相馬拓也(2024)「遊牧民、はじめました。 : モンゴル大草原の掟 (光文社新書)」光文社 ISBN: 978-4-334-10423-8
  • [2] 平田昌弘(2014)「人とミルクの1万年 (岩波ジュニア新書 ; 790)」 岩波書店 ISBN: 978-4-00-500790-5

*1:写真撮りそびれたのですが、手元のメモによると、マントウ・漬物・簡単な炒め物・プリプリの凉皮のようなもの・お粥・豆乳

*2:参考文献[1]p.91

*3:参考文献[2]p.7-p.8「反芻動物は、主に第一胃の中に細菌類や原虫類を生息させているため、胃が一つしかない動物(単胃動物)では消化しにくい食物繊維(セルロース)などをも消化し、栄養素を吸収することができます。だからこそ、草だけを食べていても、ウシのような大きな身体を維持でき、大量のミルクも生産することができるのです。乾燥地などで家畜が、栄養価の低い植物だけに依存して生きていける理由がここにあるのです。」

*4:ただし、あくまでタシュクルガンの町を出てすぐのときに聞いた話なので、ここクンジュラブ峠近くまで業者さんが来ているかはわからないです。

*5:百度百科の「中国红其拉甫国门」 https://baike.baidu.com/item/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%BA%A2%E5%85%B6%E6%8B%89%E7%94%AB%E5%9B%BD%E9%97%A8/1658158? には4733m、日本語版wikipedia「クンジュラブ峠」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%96%E5%B3%A0 には4880m、英語版wikipedia ”Khunjerab Pass” https://en.wikipedia.org/wiki/Khunjerab_Pass には4693mと、かなりまちまちな数字。

*6:論文タイトルも解説パネルに書かれてました :「玄奘取东归入境古道考实 – 帕米尔高原明铁盖山口考察记」

*7:というか、日本の山だと水場でタダで水汲めることも多いので、そっちの方が恵まれてる。。。

*8:一応、玄奘がここを通った言い伝えたがある、みたいなことも現地のパネルに書いてたのですが、真偽の程は不明。

*9:百度百科 下坂地水库 https://baike.baidu.com/item/%E4%B8%8B%E5%9D%82%E5%9C%B0%E6%B0%B4%E5%BA%93/64345376

*10:塔什库尔干野生动物自然保护区是目前喀什地区唯一的自然保护区,也是我国大型珍稀濒危高原野生动物的密集分布区,栖息着藏羚羊、野牦牛、藏野驴、雪豹、黑鹳、胡兀鹫等国家一级保护野生动物10种、国家二级保护野生动物25种,被誉为“高寒生物种质资源库”,是我国雪域高原地区重要的物种基因库。

*11:百度百科「钦定皇舆西域图志」 https://baike.baidu.com/item/%E9%92%A6%E5%AE%9A%E7%9A%87%E8%88%86%E8%A5%BF%E5%9F%9F%E5%9B%BE%E5%BF%97/10116618 「《钦定皇舆西域图志》是清代新疆首部官修通志,始纂于乾隆二十一年(1756年)」

2024年新疆旅行13日目 : パミール高原ツアー1日目(カラクリ湖、タシュクルガンなど)

カラクリ湖から眺めたムスターグ・アタ

2024年シルクロード新疆の旅13日目(2024-09-23)の記録です。

今日から3日間はパミール高原の少人数ツアーです。 カシュガルから車で、300km近い道をひた走り、パミールの絶景を堪能した1日でした。

今回の旅全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

概観

google mapsより(地形表示)
パミール高原ツアー1日目、この日は車でカシュガルからタシュクルガンまで約290kmの道のりを走ります。 上図の行程は実際の軌跡ではなく、経路検索で出てきたものなので、あくまで参考程度に(とはいえ、他に道もないはずですが。。。) 道中訪れた観光地は星マークで表示しています(カシュガルのものは無視してください。)。

ツアーは、前日にカシュガル古城で通りがかった旅行会社で手配しました。

あと、このへんを訪れるには辺境通行証(通称「边防证」)が必要になるので、事前に取得しておきましょう(前日の旅行記参照。ただし情報が古いです。)。 中国国内の人でも、自分の車でくる人の中には辺境通行証が必要なことを知らない人もいるらしく、途中の検問でとんぼ返りするはめになるんだとか(確かドライバーさんから聞いた話。)。

この日の移動では、タシュクルガンまでの道中で検問が数カ所ありましたが、検問の方とドライバーさんが二言三言話すだけで、すんなりと通行できました。 がしかし、欧米系の観光客の乗った車が検問でがっつり止められてるところも見かけたので、常にゆるゆるというわけでもなさそうでした。

カシュガルからの道中

なかなかの長距離移動、ということで、夜明け前に早々に出発します。 今回は私も含めて参加者全員が辺境通行証事前取得済みなので、早々に出発でしたが、そうでない場合は辺境通行証の手続きが必要になって出発が遅れるとか*1

ツアー参加者は、自分・広東省の夫婦お2人、重慶の女性お1人。 ちなみに重慶の女性はなんと当日朝着の夜行列車で合流という弾丸スケジュールでした。

カシュガル市街地を出て、一路南西へとひた走ります。 途中、写真のような大型バスを何台も見かけました。 ドライバーさん曰く、いずれも私たちと同じような旅程でタシュクルガン方面に向かう団体ツアー客だけど、大抵は高齢者が多いとか。

道路の舗装が新しい箇所も多く、ドライバーさん曰く「国亲节連休にあわせて工事してたのが終わって数日前に開通したばかりのところもある」とか。道路は新しいし連休前でまだ混んでないしで、良いタイミングだね、とのこと。

ドライバーさんはホスピタリティあふれる方で、道中いろんな面白い話をしてくださいました。観光地や地元の話もですが、昔の変わったお客さんの話も面白かったです:

  • 上海育ちの潔癖なお客さん、1人でスーツケース2個も持ってきてなんだと思ったら、枕や布団、洗面器まで自前で用意してたり、
  • 福建の人で「朝は墓地には行くのは縁起が悪い」とみなす人がいて、朝一でアパクホージャ廟につれていこうとしたら怒られたり、
  • 広州のお客さん、休憩時に「お茶にでもしますか」と言ってスッと荷物から茶器セットを出してきたり、

などなど。

山間エリアに近づくと、荒々しい山並みが迫ってきます。

克州冰川公园

克州冰川公园に立ち寄り、小休憩の時間です。 ちなみに「克州」とは、おそらくこの地域クズルス・キルギス自治州(克孜勒蘇柯爾克孜自治州)の略称。

あくまで短時間の小休憩なので、入場料が必要なエリアには入らなかったのですが、

遊歩道が整備されており、間近に赤い山肌を眺めることができます。 鮮やかな赤は、酸化鉄によるもの*2。 その色ゆえに红山と呼ばれているそうです。

そしてこれまた印象深いのが、山の前を流れる盖孜河。 なんと水が灰色! おそらく、氷河が岩などを削ってできた微粒子が含まれている影響ではないかと思います*3。 水量も意外と多く、どうもぎりぎり水の多い季節だったみたいです*4。 我々が走ってきたカシュガル方面に流れ、近くの農地や街を潤しているようです。

赤い山肌と、滔々と流れる灰色の川、なんとも異世界感のある眺めです。

移動

休憩を終え、盖孜河を遡る形で南に向かいます。

山肌に何やら黒い部分が見えます。影か何かだと思ったのですが、ドライバーさん曰く石炭だそうです。

地図からも分かる通り、ここから本格的に山間部に入り、山間の谷を走っていきます。 この日は天気に恵まれ、絶景を拝むことができていますが、天気が悪いと道中真っ白で景色を見れないそうです(ドライバーさん談)。 7月あたりは山中では雨が降ることもあるとか。 逆に晴れてても雪解け水が増えて土石流が発生することもあるそうです。

このへんは以前は道路が川の向こうの山すそすぐ下を通ってたけど、土砂崩れの危険があったという話を聞いた気がします。

途中、ナンバープレートのついてない車列(マイクロバスと迷彩柄の車)に追い抜かれました。 なんだろうと思ったら、ドライバーさん曰く「当地的领导」だそう。

車窓からは雄大な峰々を仰ぎ見ることができます。 このルート、観光地も良いのですが、道中の景色が素晴らしすぎる。

谷を抜けると、眼前に湖が広がります。 これが目的地の白沙山白沙湖景区。

白沙山白沙湖景区

大観光地だけあり、観光客も多数。 記念写真撮る人が多くなかなか進まないかなー、と思ったけど、「你先走」と通してくれるケースもそこそこあったので、助かりました。

空と湖面の青にはさまれた山の白が鮮やかなコントラストをなし、印象的です。 ただ、全部真っ白なわけではないですね。尾根筋はあまり白くなく、谷筋が白めのようです。 白い部分は、風化してできた白い砂が堆積してできたもののように見えます*5

一方で、周りの山を見渡すと、他はさして白くないです。 山の地質が異なるから風化しても白い砂にならないせいかなーと思ったのですが、後で読んだものには、「かつて湖水が枯れた時期に湖底の砂が季節風によって吹き上げられたのが、あの白い砂丘」という趣旨の説明もありました*6

湖の方は、ダム湖も含めた複数の湖を総称して白沙湖と呼んでるようです*7が、google mapsの航空写真を見た感じだと、全て一体化しているように見えます。 もともとの湖の成因については、土石流堆積物やモレーン堆積物による堰止めが有力なようです*8

課金するとヤク?(中国語だと牦牛)に乗って歩き回ったり写真撮影したりできます。 看板には30元って書いてあったのですが、値切ってあっさりOKもらってるおっちゃんも見かけたので、もうちょい安くなりそう。 なお、ヤクの落とし物(婉曲表現)もちょいちょい見かけたので、足元注意。

ヤクは高地に強い家畜で、チベットやヒマラヤあたりの地域で飼育されている印象が強いです(要出典)。 ってことはこの時点でけっこう標高高いのかと思って後で調べたら、既に海抜3600m以上*9、富士山山頂に近い標高ですね。

ということで、酸素缶も売られていました。 物と支払い用QRコードだけ置いてある無人販売方式でした。盗られないか心配になる。。。

観光客も多いですが、良い景色でした。 たっぷり1時間ほど滞在できて大満足で、次に向かいます。

移動

景区を出発しても、しばらくは白沙山を眺めながら走ります。

我々が訪問したところとは別に、もう一箇所展望台や木道が整備されていました。ドライバーさん曰く、こちらは山が近すぎて写真が撮りにくいとのこと。 ただ、こうして近くで見ると、山体表面の色と白砂の部分の色の違いがよくわかります。

さらに進むと、巨大な雪山が現れます。 こちらはムスターグアタ(慕士塔格峰)。 山頂の標高は約7500mと、日本国内の山しか登ったことがない自分にはちょっと想像がつかない標高です。 なお、2日後にはムスターグアタの氷河の先端まで行きます。

次の目的地のカラクリ湖は、この山の麓にあります。

カラクリ湖

ということで、カラクリ湖(喀拉库勒湖)に到着。 カラはテュルク系言語で「黒」の意味だよなー、と思ったら案の定「カラクリ」は「黒い湖」の意味だそう*10

湖の住んだ水に、背後にそびえるムスターグアタの威容もよく映えます。 しかもカラクリ湖の成因をたどるとムスターグアタの氷河にたどりつくそう*11で、山が湖を生み、今この景色を目にできると思うと、自然の采配に思わず感謝したくなります。 日本でも富士山に富士五湖、男体山に中禅寺湖、と山と湖の組み合わせはなんとも絵になるものが多いですが、そちらも富士五湖も中禅寺湖も火山噴火による堰止湖で、(成因は違えど)山が湖を生んで景勝地となる、というところの類似性は面白い気がします。

視線を左に向けると、こちらにも雪をまとった美しい峰々が並びます。 こちらは地図からしてたぶんゴングール山方面*12

谷筋などにでろーんと突出している氷雪は、おそらく氷河なのではないかと思います。 何本もの氷河(たぶん)が流れ出す様はなかなか壮観。

こちらも馬やラクダに乗るオプションつき。ということで”落とし物”もあるので要注意。 ただ、白沙山白沙湖と違って、こちらではヤクは見かけなかった気がします。 あと、馬の写真の背後に映っているようにゲルらしきものが複数並んでいました。もしかすると泊まれるのかも?

こちらも1時間くらい滞在したのですが、雪をまとった峰々と青の対比があまりにも美しく、あっという間に時間が過ぎました。

移動

名残惜しいですが、カラクリ湖を出発し、一路南に向かいます。

ムスターグアタのベースキャンプ?の看板を発見。 登頂を目指す人々が集結する場所でしょうか。 7000m峰は私にとっては本当に未知の世界なので、尊敬します。

道はムスターグアタを囲うように伸びるので、さきほどとは違う角度から山体を拝むこともできました。 さきほどカラクリ湖から見た姿とは異なり、氷河(たぶん)が発達している様子が見て取れます。

そうこうしてるうちに、タシュクルガン・タジク自治県に入ります。

卡拉苏口岸はタジキスタンとの国境、红其拉甫はパキスタンとの国境です。 陸路国境という日本で育つと縁遠い存在を感じられてそれだけでワクワクします。

途中、自分の目を疑うような光景に遭遇しました。 なんと竹馬で歩く人物2人とすれ違いました(写真は2人目を撮ったもの)。 何言ってんだこいつと思われるかもしれませんが、私も自分で何言ってるんだかわからないです。 運転手さん曰く、カシュガルから往復してるらしく、挑戦の様子を動画に投稿して話題になっているそうです。 どこまで行って帰ってきたのかは覚えていないのですが、カシュガルからカラクリ湖までだけでも片道200km近く、歩くだけでも大変で、それを竹馬で歩き通すとは恐れ入りました。。。

またしばらく走ると景色が開けてきて、人の暮らしの気配が戻ってきました。

農村風景の中で小休止。 運転手さんの知り合いと出くわして、生のプルーンをいただいたりしました。

この並木のトンネルも当地の名物だとか? ただ個人的には、険しい山と谷を抜けた先のこの地に、こうやって人が住み生活を営む場所があること自体が感慨深く思われました。

水かなりきれい。これも氷河の雪解け水由来とかなのかな。

休憩を終えてさらに南下していきます。

展望スポット「塔合曼湿地」でしばし景色を堪能します。 蛇行して緩やかに流れる川に、一面に広がる植物の姿は確かに湿原。

あれだけ乾燥した光景の中を走ってきたので、対比に驚きます。 「降水量は少ないけど周りの山の雪解け水は豊富」というのは乾燥地帯のオアシスあるあるですが、こうやって広大な湿地を形成する例はあまり多くなさそう? 比較的平坦な土地ゆえに、雪解け水がとどまり、こうやって湿地を形成しているものと思われます(どうしてこんな広大な平坦地ができたかも気になるところ。せき止め湖の堆積が進んで、湿地になったとか?)。

google mapsより
衛星写真を見ると、周りとの色の違いと、ここに流れ込む水の道筋が見て取れます。

ちなみにここのトイレは壊れて利用不可だったのですが、ドライバーさんは把握していて、事前に別の場所で公衆トイレに寄ってたので、セーフ。 ドライバーさん、仕事ができる...!

ここから今夜の宿のある街、タシュクルガンまではあともう少し! 道路がやたらときれいだなーと思ったら、やはり前年の11月にできたばかりの新しいものだそう。

石头城

この日最後の観光スポット、石头城は、タシュクルガン市街地のすぐそば帕米尔旅游景区の中にあります*13

一瞬話が飛ぶのですが、道中で、広東夫婦の旦那さんの方が帕米尔(パミール)の帕(pà)をbaと読んで、「正しくはpà」って突っ込まれてたのですが、「有文化的人可怕呀~。」っておどけててお茶目でした。 あと、もしかして帕と怕をかけたダジャレだったのか...?

中国あるある、敷地の入口から観光スポット本体まで距離があるので、カート?で移動です。

博物館

まずは博物館に。 実物よりはパネルがメインの展示でしたが、パミール高原全体の歴史や、タシュクルガン・タジク自治県に点在する文化財、タシュクルガンの石头城そのものについてなど、大小幅広いスケールで当地の歴史を紹介していて興味深かったです。 いわゆる「シルクロード」 の歴史をさらっても、だいたいはタリム盆地周辺のオアシス都市などが主役になることが多いので、パミールの山中の街の歴史について知れる貴重な機会でした。 とは言いながらも、かなり時間がおしてたので、現地ではざっくり見て写真を撮るだけでした(ということで、以下に書いた内容は帰ってきてから復習したもの。)。

前漢の時代、ここタシュクルガンには、「漢書」に記された西域三十六国の蒲犁国があったそう(いつも思うんだけど、史書に登場する都市国家の場所ってどうやって現実の場所と対応づけるんだ。。。)。遊牧民からなる国だったとのこと。

インド方面とタリム盆地の都市を結ぶ道がこのパミールの地周辺を通ります。

仏塔や砦や宿駅?など、人々の往来の名残が今も残されているそうです。

玄奘三蔵もインドからの帰路にタシュクルガンに立ち寄って経を講じたとか(要出典)。ちなみに上の地図中の「朅盤陀国」は、ここタシュクルガンの大唐西域記での呼び名です(要出典)。 今回の旅、トルファンやクチャでも玄奘の足跡に触れているのですが、ここでも名前を聴くとはびっくりでした。我々は鉄道と自動車とで飛ばしていますが、タリム盆地の周辺も、ここパミールの険しい山の中も自分の足(or馬とか)で一歩一歩歩いたのかと思うと気が遠くなります。

トルファンとクチャで玄奘の足跡を訪ねたときの旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

他にも、鳩摩羅什や高仙芝などなど、パミールを越えた人々の業績が紹介されていました。 ちょっと変わったところだと、高仙芝とともに行動してタラス河畔の戦いでアラブ軍の捕虜になり、イスラーム圏各地を旅した杜環なども。

ついで、石头城自体についての展示も。 ここには唐代には葱嶺守捉所が置かれ、後の清の光緒帝の時代にはその一部を利用・改修?して蒲犁庁がおかれたとのこと。

あとで実際に見るように、石头城の建つ場所は小高い丘で、あたりには多数の石がごろごろと転がっているのですが、これらの石は氷河の作用でここまで運ばれてきて丘を形作ったそうです*14。 灰色の川、高地の湖、そして城の建つ丘と、今日1日で氷河にって形作られた様々なものを見たことになりますね*15

時間も限られているので、本物の城の方を見に行きます。

google mapsより
航空写真を見た感じだと、タシュクルガン市街地は、西側から広がる扇状地の上に位置しているようです。 扇状地の先、東側には網目状の広がった川の流れる湿地が広がります。

google mapsより
で、石头城はその扇状地?の先端部分にあります。

南側の入口から城に入ります。 写真でも分かる通り高低差があります。これがさっき書いた、氷河に作られた丘かな。

階段を登ると、眼の前には大小の石が散乱しています。右奥に見えるのが清代の内城。

今立ってるあたりは外城。

自由に歩き回れるわけではなく、遺跡保護のため、木道の上を歩きます。 時間に余裕がなかったので早歩きしたのですが、すぐに息が上がり、深呼吸しないととても早歩きを続けられなかったです。 海抜3000mを超える街*16、というのも納得です。

内城内部にも石が散乱しています。

城壁は基部は一部に石を使っていますが、それ以外はほぼ土作りのようです*17

東側を望むと、緑豊かな湿原が広がります。 高低差もあって、なかなかの絶景。 この高低差もあってここに城が築かれたのかな。

湿地には遊歩道やイベント用?のステージらしきものも整備されているので、まったり歩き回りたかったのですが、時間切れ。

ということで、湿地は近くで少し眺めるだけ。 とはいえ、乾燥した山肌と眼前の緑の対比は強く印象に残りました。

一通り見たので、カートに乗って撤収! ...と思って駐車場に戻ったのですが、実は外城の北西側には馬面が残っていたよう(衛星写真を見てもわかる)なのですが、現地では気づかず見逃してしまいました。 全体的に駆け足だったし、次行く機会があればもっとゆっくり見て回りたいところ。

夕食

夕飯はタシュクルガンの町中で、ドライバーさんや他のツアー参加者と一緒に火鍋。

火鍋は陰陽型?の鍋で、半分は辛くない味付けにしてもらえたので、セーフ。 ちなみにこれは完全な偏見に基づく感想なのですが、重慶女子は当然辛い物平気で、広東夫婦も旦那さんは意外と辛い物行けるクチでした。

お肉はヤクの肉です。

翌日に続きます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

  • [1] 今村遼平, 中家惠二, 上野将司 編著 (2021)「シルクロード1万5000キロを往く 上巻 天山南路・天山北路 大草原と氷河の旅」古今書院 ISBN:978-4-7722-4225-7

*1:なお、当日に辺境通行証がスムーズに発行できるのは中国大陸の身分証持ちの方だけだと思うので、そうでない場合は事前に取得しておきましょう。

*2:参考文献[1]p.85「山肌は新第三紀~第四紀の酸化鉄を含む赤色砂岩で構成されるため、紅山と呼ばれている。」

*3:参考文献[1]p.84-p.85「灰色の川」という意味の盖孜河は、名前が示すとおり氷河起源の粘土分を多量に含んで灰色に濁っていた。」ただし、百度百科 https://baike.baidu.com/item/%E7%9B%96%E5%AD%9C%E6%B2%B3/3974944 には「维吾尔语“盖孜”即“灰色”之意」とあるので、名前の由来はちょっと違うかも。

*4:百度百科 https://baike.baidu.com/item/%E7%9B%96%E5%AD%9C%E6%B2%B3/3974944「每年5月至9月为洪水期,12月至次年2月为枯水期」

*5:百度百科 https://baike.baidu.com/item/%E7%99%BD%E6%B2%99%E5%B1%B1-%E7%99%BD%E6%B2%99%E6%B9%96%E6%99%AF%E5%8C%BA/60629721 「白沙山因长期风化作用形成独特地貌,山顶岩石沙化后形成银色白沙覆盖山体,风吹沙鸣的特性使其得名"响沙山"。」

*6:参考文献[1]p.88「以前は湖水の枯れた時期があったようだ。東西方向に長い湖(布崙湖)が、冬には水がなくなり乾涸びて、底の白い沙粒(花崗岩室のマサに相当する砂)が、北西の季節風によって山腹へと吹き上げられて、あたかも雪が積もったように全山が真っ白に見える」ただ、でも航空写真を見ると、季節風の向きが逆じゃないとこうならない気がするけど、これいかに...?

*7:百度百科 https://baike.baidu.com/item/%E7%99%BD%E6%B2%99%E5%B1%B1-%E7%99%BD%E6%B2%99%E6%B9%96%E6%99%AF%E5%8C%BA/60629721 「白沙湖由布伦库勒湖、恰克拉克湖及布伦口水库融合形成」

*8:参考文献[1]p.89「この広い谷と湖の成因については、いま通ってきた山脈の隆起と、土石流堆積物やモレーン堆積物(氷河堆積物)が広い谷の出口を塞いだために生じた堰止湖の性格が強い。」

*9:百度百科 https://baike.baidu.com/item/%E7%99%BD%E6%B2%99%E5%B1%B1-%E7%99%BD%E6%B2%99%E6%B9%96%E6%99%AF%E5%8C%BA/60629721 「景区位于帕米尔高原东部边缘,距离阿克陶县城150公里 ,海拔3663米」

*10:百度百科 https://baike.baidu.com/item/%E5%96%80%E6%8B%89%E5%BA%93%E5%8B%92%E6%B9%96/4748641 「喀拉库勒湖,柯尔克孜语意为“黑湖”」。参考文献[1]p.90には「ウイグル語で「黒い湖(カラクリ)」」という記述あり。いずれもテュルク系言語で語彙に類似したものが多いので、キルギス語とウイグル語どちらでも当てはまるのではないかと思われます。

*11:参考文献[1]p.90-p.91「喀拉庫勒湖は、氷河の父と呼ばれる慕士塔格山(標高7509m)の東面に発達する、巨大なククサイ氷河を水源とするケンシーベルス川(慕士塔格山の北から流下する河川)の堆積物・モレーンによる堰止湖である」

*12:ただ、ゴングール山がどのピークか、そもそも見えてるのか見えてないかは私にはわからないです。

*13:入場時に写真を撮り忘れたので、これは出てきたときに撮った写真。

*14:現地解説パネルには「冰碛台地」とありました。

*15:あと、谷の形はあまり意識していなかったのですが、氷河に削られたU字谷もあったはず。。。

*16:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E9%8E%AE

*17:博物館のパネルにも、「东部的小山岗上耸立着高大的塔什库尔干清代城遗址,即清蒲犁厅旧址,城墙主要用泥土分层垒砌而成。」とありました。

2024年新疆旅行12日目 : カシュガル観光(アーファーク・ホージャ廟など)

アーファーク・ホージャ廟

2024年シルクロード新疆の旅12日目(2024-09-22)の記録です。 この日はカシュガル市街地の墓廟2つを訪れました。

今回の旅全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

朝食

今回の旅では朝食はホテルでいただくことが多めだったのですが、この日は外で。

包子。確か片方は羊肉で、とっても美味しかったです。

大众点评に糖糊糊なるものが有名と書いてあった気がしたので、試しに頼んでみました。 頼んだのはたぶん核桃糖糊糊(左の食べかけのものは油饼だっけ...?)。 糖糊糊はクルミ味の甘いペースト状のもの、なんですが、まさかの羊油を使ってるみたいでかなり羊の香りが強かったです。自分はちと好みじゃなかったかな。 ただ、メニューをよく見たら「清油糖糊糊」と書かれたものもあったので、もしかしたら羊油を使っていないものもあるのかも?

全部で19.5元でした。

旅行会社+移動

観光に出かける前に、翌日からのパミールツアー申し込み。 結局、前日の夜に説明してもらった旅行会社で申し込みをしました。 wechatで全部済むかと思いきや、web上だとwechat payにひもづけたvisaカードからの支払いができなかったので、結局でQRコード支払いしてきました(なぜかこっちならvisaカードから払えた。)。

手続きも終わったので、観光に繰り出します。 目的地の香妃園までは少し距離があるので、路線バスで移動。

バス停の電光掲示板の上の部分、広告の動画が流れることが多かったのですが、たまに交通事故の瞬間の動画を流してたのが印象的です。

バスの路線表示や車内放送は漢語とウイグル語両方ありました。

香妃园

おそらくカシュガル市街地近くでは喀什古城に次いで一番メジャーな観光地、香妃园に来ました。

墓廟を中心とし、モスクやマドラサ、浴場や食堂などからなる複合的な施設だったようです*1。 こういった構成の複合施設はイスラーム圏あるあるのようで、トルコでは「キュッリエ」と呼ばれていました。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

サマルカンドのシャーヒ・ズィンダ廟群でもそばにハンマームの遺跡があったので、そちらも似たような構成だったのかも。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

歴史的建造物は敷地の北側にあり、対して南側は観光地としてだいぶテーマパークっぽく整備されていました(ショーのための劇場?とか。)。 ということで、基本的に南側はスルーして、北側を見て回りました。 なお、入場料は30元で、ショーや解説などは追加の課金が必要です。

アーファーク・ホージャ廟

まずは、この施設の中心的建物の、アーファーク・ホージャ廟(阿巴和加麻扎)。 主な被葬者のアーファーク・ホージャ(1625-1694)の経歴をざっと見ておくと*2 : ナクシュバンディー教団の導師マフドゥーミ・アーザムの子孫で、同族の黒山党*3との抗争の末に新疆から追放された。後にジュンガルの庇護下でカシュガルに戻り、タリム盆地一帯を実質的に支配したとのこと。

ナクシュバンディー教団は現在のウズベキスタンのブハラを拠点とした有力なイスラーム神秘主義教団。 ブハラも前に訪れたので、こうやって自分が訪問した地の歴史がつながると興味深いです。 ブハラの旅行記はこちらなど: amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

この墓廟には、アーファーク・ホージャとその一族が埋葬され*4、中央アジアでも有数の規模の廟として知られているようです*5

また、後の乾隆帝の妃の容妃(香妃とも)も一族の一員としてここに葬られたとの伝説があることから「香妃墓」とも呼ばれ*6*7、観光地としての「香妃园」の名前の由来になっています。 がしかし、現地の解説パネルにも容妃はここには葬られていない旨書かれており*8、ここに埋葬されているという話はあくまで伝説に過ぎないようです。

建物の創建は1670年のことですが、現在の姿は、19世紀後半にカシュガルに侵攻したヤークーブ・ベグ*9によって1874年に改築された姿のようです*10

正面入口はイーワーンになっています。 四角形の平面の中心にはドームが乗り、また、四角形の頂点には塔が立ちます。

タイルは緑が主で、一部に青や赤系統のものが使われています。 ウズベキスタン(特にサマルカンド)では青が主だった気がするのだけど、色の好みにも地域差とかあるのかな。

緑や暖色系のタイルは単色のものが多かったですが、青のタイルは単色ではない絵付けのものも目立ちました。

正面入口。 石膏細工?が見事です。 また、上部にアラビア文字の碑文がありました。

拡大したものがこちら。 流麗なナスタアリーク体なので、ペルシア語かチャガタイ語あたりな気がします。 しつこいくらいに「۱۲۹۳」と書かれているのは数字で、1293。たぶんこれは年でしょうか? ヒジュラ暦の1293年だとすると、だいたい西暦の1876年に対応するよう*11なので、上に書いたヤクブ・ベクによる改修の直後あたりに記されたものな気もします。 やたらと細かく分かれてるのは地震で割れたから、かと思ったのですが、ブロック1つ1つに۱۲۹۳と書かれてるのがなんでなのかよくわからぬ。。。

建物内部は撮影禁止でしたが、ざっくり様子を書くと:

  • 内壁はタイル装飾などはほぼなく、基本的に白漆喰のみの簡素な造りでした。
  • 屋内の床にさらに基壇を築き、共通の基壇の上に複数の墓石が並んでいました。ざっと数えて少なくとも30基以上の墓石があったと思います*12
  • 墓石は青や緑の絵付けタイルで覆われていたものが多かったです。

なお、小さいですが、参考文献[1]p.140~p.141に内部の写真があります。

讲经堂

アパクホージャ廟の北西すぐ隣に建つのはこちらの讲经堂*13。 園内で一番古い建物だそうです。 開放的な造りの手前の部分と、ドームを戴いた奥の室内空間に分かれています。夏は前者、冬は後者を利用していたそう*14。 他の2つのモスクも同様の造りで、同様に季節によって屋内・半屋外の空間を使い分けていたようです*15

ドームも柱も緑色で、さきほどの廟と同じ色ですね。 柱頭のムカルナスのような形の装飾はウズベキスタンでも何度か見かけました。 たとえばヒヴァのTosh Hovliや、 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

ブハラのアルク城、 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

ラビハウズ・モスクなど amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

加满清真寺

お次は西の端に建つ加满清真寺。 こちらの創建は1873年と、アーファーク・ホージャ廟が現在の姿に改修された時期とほぼ同じよう*16。 林立する柱が平屋根を支える屋外部分(右)と、奥の半室内空間(左)からなっています。 てっきり園内の建物は緑系で統一されているかと思いきや、こちらの柱は赤で全然違いますね。 あと、全部の柱ではありませんが、赤一色ではなくカラフルに彩色されていたり、柱頭がムカルナス状になっていたりするものもありますね。 中庭に面した最前列の柱と、2列目の一部の柱はこうなっているようです。 低コストで外からの見栄えを良くしたい場合、最前列の柱だけきれいにする、というのは尤も。

中央?部分は天井が美しく装飾されています。

前日のエイティガールモスクで見かけたものと似ていますね。

ちょっと驚いたのが、かなり写実的な絵が描かれていること。 エイティガールモスクの天井装飾でもある程度写実的な植物の絵はありましたが、こちらは風景画もあるところが違いかと思います。 見るからに西洋風の絵ですね。

イスラーム建築(特にモスク)だと具象的なものを描くのは避ける傾向があるので、珍しいように思います。 とはいえ、まったくないわけではなく、イランのシーラーズのナスィーロル・モルク・モスク(通称「ピンクモスク」)を訪れたときも西洋風の絵(風景画を含む)が描かれたタイルを見かけました。 あちらも19世紀後半の建築だったと思うので、西洋の影響が強まった時代の産物なのかもしれません。 もうちょいミクロに見ると、1873年の当地はヤクブ・ベク政権の支配下にあり*17、いわゆるグレート・ゲームを繰り広げていたイギリスやロシアとの通商関係もあったよう*18なので、西洋文化の影響が見られるのも納得感があります。 西洋出身の(またはその技術を学んだ)画工が関わってた記録とかあるのかな*19

奥の空間はアーチや小ドームからなり、ペルシアっぽい雰囲気を感じます。

高低礼拜寺

最後に、廟の南東の高低礼拜寺。 こちらも1873年創建。 左側の建物と、

右側の開放的なテラス状の建物がくっついた形をしています。 なお、右側のテラス部分は基壇が高いことから「高礼拜寺」、左側の屋内部分は逆で「低礼拜寺」とも呼ばれるようです*20

こちらは柱だけでなく、梁なども美しく装飾されています。

そして梁の装飾をよーく見ると、ここにも風景画が描かれているのが見て取れます。

门楼

高低礼拜寺のすぐ隣には、青い絵付けタイルで覆われた門が建ちます。

門の上部中央と、下部中央(写真では少し見切れてますが)にアラビア文字の文章が書かれています。 モスクの隣の門だしクルアーンの一節だろうなと思ったけど、でもナスタアリーク体だからアラビア語じゃない気もする。

余談

おばさまに頼まれて写真を撮った後の一幕

  • おばさま「你是哪里人?」
  • 私「住在日本的华侨。」
  • おばさま「こんにちは。私東京に住んでるんですよ。」(日本語)
  • 私「!?」

久々に日本語を話しました。 聞けば福建あたり出身の華人の方とのこと。 お子さんが日本育ちで私と同じ状況とのことで、私の中国語の発音のクセがお子さんのものに似ていて、「もしかしてこの人日本から来たのでは?」と当たりが付いたそうです。

昼食と移動

昼食は新疆料理のお店にしようかと思ったのですが、少し覗いた感じ、団体観光客用の大箱のお店っぽかったのでやめときました。

ということで、近くの「汉餐」と書かれた小さなお店に。

ワンタン(15元)をいただきました。 超あっさり。あと、海苔も入ってたのが個人的には好み。たまにはこういうの食べると落ち着く気がします。 ただ、量は少なかったかな。

食後、路線バスに乗って次の目的地に向かいます。 記憶が曖昧ですが、1本ではたどり着けず途中でバスを乗り換えた記憶があります。

ユスフ・ハーッス・ハージブ墓

こちらは午前中の香妃園に比べるとだいぶ小さく、観光客も少なかったです(自分以外は2~3組程度だったかと思います。)。 ただし入場料は30元と香妃園と同額だったのでなかなか強気かも。

被葬者のユスフ・ハーッス・ハージブ(中国語表記は玉素甫·哈斯·哈吉甫)は11世紀のカラハン朝の人で、テュルク・イスラーム文学の現存する最古の作品「クタドゥグ・ビリグ」の作者です*21*22。 「クタドゥグ・ビリグ」は、君主と臣下の対話の形をとった物語詩で、読み手に君主としての道徳などを教えるものだそうです*23*24

もっと詳しい話は、以下も参照のこと : 参考文献[3]p.478「クタドゥグ・ビリグ」の項目、参考文献[6]p.77-p.81「クタドゥグ・ビリグ」、参考文献[7]など。

このへんの背景については、中国語とウイグル語の2言語で解説の音声が流されており、現地で知ったことも多かったです。 ユスフが1085年に亡くなった後に川の近くに墓が作られたが洪水で損壊して12世紀(1130年)にここに移ってきたことや、現存する「クタドゥグ・ビリグ」の古写本は3部だけとか、それぞれの発見経緯や現在の所蔵場所の話、写本はアラビア文字で書かれてるものもあれば古ウイグル文字(回鶻文字?)で書かれているものもある、などなかなか詳しい。

ということで、建築などは香妃園のほうが見どころが多いかもですが、文化史や言語が好きな人間としてはこちらも負けず劣らず印象に残る場所です。

門をくぐると立派な建物が。

正面からはわかりにくいですが、中心にドームを戴いています。 イスラーム圏の墓廟あるあるかと思います。

建物外部のタイル。 やたらと新しい気がして、建物自体あまり古いものではないのかなー、という印象を受けました。 でも解説放送によると、自治区の文物保护单位だそう。

中央の入口から屋内に入ると、ドームの下に鎮座する墓石と対面です。

非常に装飾的な字体で何やら書かれています。今はペルシア語を勉強したおかげでアラビア文字もある程度読めるのですが、これはわからぬ。。。

画質悪いですが、頭上のドーム。 この旅でも何度も見てきた、スクィンチアーチを使って平面が四角形の部屋の上に平面が円形のドームを載せています。

壁に目を向けると、アラビア文字とラテン文字で書かれた文章があります。おそらくクタドゥグ・ビリグから引用した詩句なのではないかと思います。 ラテン文字音写(or翻字?)があるということは、あまり古いものではないですね。

霊廟の側面と裏は回廊で囲まれた空間になっており、

回廊の壁にも、クタドゥグ・ビリグから引用されたと思しき詩句がいくつもありました。

なお、上述した通り、この作品の古写本はアラビア文字で書かれたものとウイグル文字で書かれたものがあるとのことですが、原本はおそらくアラビア文字によるものだそう*25。 しかも、言語は古ウイグル語とは別物の古代テュルク語の一種で、古ウイグル語に比べるとアラビア語・ペルシア語からの借用語が見られる点で大きく異なる一方、チャガタイ語でのアラビア語・ペルシア語の借用語よりは少なく、かつ、ソグド語などから取り込まれた語彙も重要だったそう*26で、この地域の諸言語の混淆と変化を感じさせます。

ところで、廟のドームがある建物から出るときに気づいたこちらの銘文(?)、1989と書かれており、1989年の意味だとしたら、修復のときに書いたものか? いやでも修復ならこんな現状を変えるようなもの書く可能性は低いし、ここまでで感じてきたように本当に建物自体が新しいのか...?と気になりました。 で、帰ってきてから調べたところ、どうも後者の可能性が高いように思われるし、なんならここがユースフの墓であるかどうかも議論の余地がかなりあるようです。。。*27

書店

ハミ、トルファン、クチャに続き、カシュガルでも新华书店を訪れてみました。 今回の旅でここまで訪れた中では一番大きい店舗だったと思います。 今更ですが、ウイグル語で書かれてる部分は雑に音写するとたぶん「shinkhua ketābkhānesi」とかかな*28

万引き防止のためか荷物を預けるタイプの書店がけっこう多く、ここではお店の外のロッカーに荷物を預ける方式。 wechatとかで登録かなー、と思いきや、なんと顔認証で預入・取り出しができたのでちょっとびっくり。

ウイグル語(たぶん)の書籍のコーナーも充実。

ちょっと気になったのが、哈文区と書かれたコーナー。たぶんカザフ語(哈萨克语)のことかな。

ウイグル語の教本や、ウイグル語(たぶん)による諸言語の教本もありました。まさかの日本語もあってびっくり。

漢語とカザフ語の対訳本? 农区用语というのが何のか気になるところ。

上のフロアに上がると、だいぶおしゃれ書店仕様。

なんだか見覚えのあるタイトルだなと思ったら、東野圭吾作品がずらり。 日本だと特定の中国の作家の本がここまでずらりと並ぶことは(中国専門書店以外だと)あんまりない気がするので、日本文学の中国での存在感は(中国文学の日本での存在感に比べると)大きいのかな、と感じました。

中国古典の図解?シリーズ。論語・四書五経・史記・資治通鑑などは日本でもよく書店で見かけますが、宋詞や元曲はあまり見かけないかも?

歴史書コーナー。 ぱらぱらめくってみたのですが、立派な装丁の本でも著者プロフィールを見ると「学者」と言いつつブロガー/動画配信者だったりすることがあり、少し意外でした(もちろん大学教授や研究所の人の本もある。)。 いや、でも日本でも日本史について非アカデミアの方が書いてる本も多いし、自国史の本だと別に普通なのかも。

夕食と散策

夕飯は喀什古城の中のこちらのお店で。

まずは羊肉汤とナンを注文。 ここのナンはぶ厚めでサマルカンドナンっぽい形でした。 でもサイズはサマルカンドのものに比べるとだいぶ小ぶり。

脱線しますが、サマルカンドで山積みのナンを見た時の話はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

羊肉汤の具は、羊肉と、たまねぎ、にんじんなど。スープを一口飲むと、味付けはシンプルな塩味で...これウズベキスタンで食べたショルパとほとんど同じものですね。 店員さんに「Bu sho'rva mi?」*29と聞いてみたら、そうだ、とのことでした。

というか、当時は気づかなかったのですが、メニューにショルパって書いてるようですね。 羊肉串を追加。 昨日も食べたけど、新疆のラム肉は美味い。 嘉峪関の方で食べた羊肉串も美味しかったのですが、あちらはちょっと味が濃すぎる気もして、個人的にはこっちのほうが好みかもです。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

夕食後、古城をちょっと散策。 エイティガールモスクに寄ったら扉が開いていてこんなに遅くまで営業しているのかと一瞬驚いたのですが、あくまで礼拝時間中で観光客は入れないとのことでした。

翌日からパミール高原ツアーなのですが、日焼け止めの残量が怪しいので、スーパーに寄って買っておきました。

ブレブレですが、ホテルまでの帰り道。 このへん喀什古城の区域外なので観光客もあまり多くなく、日常生活の場の雰囲気を感じました。

ノン売りの3輪車。 さきほど夕食のお店で食べたのと同じような形のものでした。

翌日に続きます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

  • [1] 李乾朗[著], 恩田重直, 田村広子[訳] (2023)「図解 中国の伝統建築」マール社 ISBN:978-4-8373-1601-5
  • [2] 小松久男, 梅村坦, 宇山智彦, 帯谷知可, 堀川徹 編 (2005)「中央ユーラシアを知る事典」平凡社 ISBN:4-582-12636-7
  • [3] 小松久男 編者代表 (2023)「中央ユーラシア文化事典」丸善出版 ISBN:978-4-621-30806-6
  • [4] 楼慶西(著), 高村雅彦(日本語版監修) (2008)「中国歴史建築案内」TOTO出版 ISBN:978-4-88706-295-5
  • [5] 宇山智彦 編著 (2010)「中央アジアを知るための60章 第2版」明石書店 ISBN: 978-4-7503-3137-9
  • [6] 小松久男 編著(2016)「テュルクを知るための61章」明石書店 ISBN:978-4-7503-4396-9
  • [7] 菅原睦 (2014)「ユースフ『クタドゥグ・ビリグ』とカーシュガリー『チュルク語諸方言集成』」 柳橋博之[編] (2014)「イスラーム 知の遺産」東京大学出版会 ISBN:978-4-13-026146-3 所収(p.133-p.154)

*1:参考文献[1]p.136 アファーク・ホージャ・マザール「巨大な円形ドームが架かるマザールを中心として、周囲にモスクや、教育施設のマドラサ、指導者の住宅、浴場、食堂などの建物が配置される。」

*2:参考文献[2] p.124「カシュガル・ホージャ」の項目、p.469「ホージャ・アーファーク」の項目を参照。

*3:ちなみにアーファーク・ホージャの一派は対比して白山党と呼ばれたとか。

*4:参考文献[1]p.136「マザールにはアファーク・ホージャのほか、彼の父マフムード・ユースフをはじめとする一族が葬られている。」

*5:参考文献[3]p.276「マザール」の項「なかでも規模が大きいのはスーフィー教団(タリーカ)の名祖などを祀ったマザールであり, ブハラ(ウズベキスタン)のナクシュバンド廟, クフナ・ウルゲンチ(トルクメニスタン)のクブラー廟, トルキスタン(カザフスタン)のヤサヴィー廟, カシュガル(中国・新疆)のアーファーク・ホージャ廟などが知られ」

*6:現地解説パネル「因近代讹传清朝乾隆皇帝的维吾尔族妃子(容妃,传说中的香妃)葬于此,故又称“香妃墓”。」

*7:参考文献[1]p.136「一説に、清の乾隆帝が目をかけたとされるウイグル族の美女、香妃が埋葬されているとの説があることから、「香妃墓」とも呼ばれる。何とも現実味には欠ける説ではあるが、華麗な建築物に歴史のロマンを添えている。」

*8:現地解説パネル「容妃死后葬于河北省遵化县清东陵裕陵贵妃园寝。」

*9:ヤクブ・ベクなど異なる表記あり。

*10:現地解説パネルより。ただし、そのあと1948年に地震で損傷とも書かれているので、その姿が現在どこまで残っているのかはよくわからないです。

*11:https://keisan.site/exec/system/1299235060 で雑に計算

*12:参考文献[1]p.137には、「58基の墓」とありました。

*13:ただし、参考文献[4]p.167には「緑頂礼拝寺」とあり。

*14:現地の解説パネル「讲经堂是景区最早的建筑,由内外两部分组成的,冬季在内殿讲经,夏季在外典讲经。」

*15:参考文献[1]p.139 (複数のモスクについてのまとめての記述として)「モスクは、日干し煉瓦で囲まれた部分と、列柱が形づくり半戸外の空間からなる。カシュガルは年間を通じて寒暖差が大きい。そのため、夏場の礼拝には通風のよい半戸外の空間を、冬場は日干し煉瓦で囲まれた空間を使用している。」

*16:現地解説パネル「加满清真寺始建于1873年」

*17:参考文献[2]p.123「カシュガル」の項目「また1860年代の西北ムスリム大反乱を契機に, 回部にムスリム独立政権を樹立(1864-77)したヤークーブ・ベグがカシュガルを首都とするなど」

*18:参考文献[5]p.54「他方、清朝領中央アジアに突如として出現したヤークーブ・ベグの政権は、インドに基盤を置く英国と、中央アジアに進出したロシアという二大勢力の注目を惹くところとなった。両国はそれぞれ使節を派遣し、通商関係を確立した。」

*19:ただ、この建物は1873年創建と書かれているものの、どれだけ当時の姿が保存されているのかは私にはよくわからないです。ということで、上記の内容はあくまで素人の妄想の域を出ないものです。

*20:参考文献[1]p.138「1つは床を掘り下げて建てられていることから高モスクと呼ばれ、もう1つは盛り土の上に建てられていることから高モスクと呼ばれ、2つ合わせて高低モスクという。」

*21:参考文献[2]p.170「クタドゥグ・ビリグ」の項目で「カラハン朝の大侍従ユース・ハーッス・ハージブにより1069/79年に完成された教訓的な内容のテュルク語長編詩. テュルク・イスラーム文学の現存する最古の作品で, 書名は<幸福になるための知恵>を意味する.」

*22:参考文献[3]p.478「クタドゥグ・ビリグ」の項目「天山山脈西部のベラサグン出身のユースフによって1069/70年に完成された大規模な物語詩で, テュルク・イスラーム文学の現存する最古の作品としてきわめて重要である. 題名は「幸福になるための知識」を意味し, カラハン朝の君主タヴガチ・ブグラ・ハンに献呈されている.」

*23:参考文献[2]p.170「作品ジャンルとしてはいわゆる君主鑑文学に属し, 」「物語は, 正義の象徴であらうキュン・トゥグドゥ王と, 彼に仕える3人の家臣との対話の形式をとっており, これらの対話を通じて読み手である君主に道徳的・実用的な知識を提供することを目的としている.」

*24:詳しい内容は、参照。

*25:参考文献[3]p.479「クタドゥグ・ビリグ」の項目「『クタドゥグ・ビリグ』は, アラビア文字による2種類の写本と, ウイグル文字による1種類の写本で伝わっているが, 作者による原本はアラビア文字で書かれていたと考えられている.」

*26:参考文献[3]p.478「クタドゥグ・ビリグ」の項目の「言語と形式」の箇所を参照。

*27:参考文献[2]p.122~p.123「カーシュガリー」の項目の「墓の発見」の箇所で、カーシュガリーの墓が1982年に「発見」されたことについて : 「この発見は自治区政府によって公的に承認され, 新たな墓廟が建造された. しかし残念ながら, <発見>の経緯を報告する論文を見る限りでは, その根拠はきわめて薄弱であると言わねばならない. 」「1980年代の新疆においてはこれ以後も≪クタドゥグ・ビリグ≫の著者ユースフ・ハーッス・ハージブなど, カーシュガリーと同様の文化英雄の墓の発見が相次いだ.」

*28:当時はほとんど読めなくて、この旅行の後にペルシア語を学んだので、今は少し読める。でも現代ウイグル語の正書法(特に短母音の表記)は知らないので、適当です。

*29:ウズベク語。ただし、ウイグル語とウズベク語はほぼ互いに通じるそう。

2024年新疆旅行11日目 : カシュガル観光+辺防証手続き

エイティガールモスク

2024年シルクロード新疆の旅11日目(2024-09-21)の記録です。

夜行寝台列車で中国最西端の都市カシュガルに到着し、モスクや旧市街(?)を観光したり、パミーツ高原ツアーの準備をしたりした1日でした。

今回の旅全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

カシュガル到着→市街地へ

朝7時半頃、前日夜にクチャから乗った夜行寝台列車がカシュガルに到着しました。 このときの当地の日の出は朝8時半ごろだったので、まだ空は真っ暗。

およそ8時間の行程、途中で乗り降りする人が多くぐっすりとはいきませんでしたが、きちんと横になって寝れて、目が醒めたら別の町、というのは良いですね(その代わり、車窓の光景は全く分からないですが。)。

駅を出て振り返ったところ。

日の出前だし、市街地への移動どうしようかなーと思ってたのですが、夜行列車の到着にあわせて路線バスが設定されているようで、バスでスムーズに移動できました。 ちょっと面白かったのが、バス乗車時のQRコード支払い。 通常、中国の各都市の公共交通機関は普通の支払い用コードでは乗車できず、追加で各都市の乗車用コードの設定が必要です*1。 ただ、このときのバスにはスキャン用のカメラが2種類あり、うち1つはwechatの普通の支払コードを利用して支払い・乗車することができました。 よそからの観光客が多いから対応したとか?

市街地の適当なところで降りて、営業してるお店で朝食です。

新疆っぽくないけど、油条+豆浆という、中国北方の典型的な朝食(らしい)にしました。 しめて8.5元。

喀什古城をぶらぶら。 さすがにこの時間だとまだ人が少なく閑散としています。

旅行会社も多く、もちろんまだ営業してなかったのですが、「ご自由にお持ちください」と置かれたチラシがあったのでいくつか回収しておきました(パミール高原ツアーを申し込むつもり。)。

エイティガールモスク(艾提尕尔清真寺)

喀什古城を歩いて広場のようなところに出ました。 広場に面して建つのは、こちらのエイティガールモスク。 1442年創建のモスクで、後世に何度も(1537年、1787年、1873年)拡張工事を経ており、中国最大規模のモスクの1つだそうです*2

正面の形が左右非対称ですが、「これはわざとで、不完全さを残すことを意図したもの」という話を近くのグループのガイドさんが話していました。 確か、イランのモスクを訪れたときも似たような話を聞いたことがある気がする...?

入口のイーワーンっぽい部分や、その周囲の装飾など、いずれも尖頭アーチ。 また、入り口入ってすぐの空間の上にドームが架かっています。

入場料は30元。 内部には緑豊かな中庭が広がっていました。

礼拝のための屋根がかかった空間は、向かって一番奥にあります。

google mapsより
私が現地で撮った写真ではうまく伝わりにくいのですが、航空写真を見るとよくわかる通り、かなり横長の形になっています。 また、面積としては中庭部分が大半を占めることもわかるかと思います(この点はトルファンやハミで見たものとは大きく異なります。)。

向かって左側と、

向かって右側は、中庭との間を区切る壁がなく、開放的な空間になっています。

中央部分手前は、中庭に少し突き出したテラスのような形。

ここもわざとかはわからないですが、左右の対称性が崩れていますね。 テラスの天井の華やかな装飾が印象的です。 天井や壁の装飾の一部に卍のような形が含まれていて、隣にいたグループのガイドさんの話曰く「回鶻が仏教を信仰していた名残」だとか?

テラスの奥には壁囲まれた室内。 冬はここの部屋だけは暖かくて外は不人気だったりしないのかな、としょうもないことを考えてしまった。。。

ホテルと昼食など

再び喀什古城を散策。 何やら音楽が聞こえてくるなと思ったら、喫茶店で生演奏をやってるようでした。

少し別の場所ですが、楽器店も見かけました。

まだ昼前ですが、ホテルにチェックインして少し休憩。

ホテル近くのプロフ店にて昼食にします。 プロフ屋さんは夜じゃなくて昼がメインらしい、ということをトルファンで学習したというか思い出したので、今回はきちんと(?)お昼に来ました。

デフォルトの抓饭24元を注文。

プロフだけでなく、つけあわせの野菜や、ヨーグルトもついてきました。 お茶はけっこう香り強めでたぶんミントかな? プロフの羊肉がちょいクセ強めだったのですが、お茶と一緒ならそんなに気にならなかった気もします。 ヨーグルトはチーズのような風味?クセ?がありました。最後にデザート的に食べたのですが、プロフと同時に食べても美味しかったかも?

旅行会社

パミール高原ツアーを予約したくて、旅行会社に入って話を聞いてみました。 ちなみに喀什古城に旅行会社は沢山あるので、歩いていればどこかしら目に入るかと思います。

自由にマイペースに行きたいから車チャーターとかもできるのかなと思って訊いてみたら、チャーター車はだいぶ高い(1400元/日)のでおすすめしない、少人数ツアーのほうが良いですよ、と言われました。 少人数ツアーだと確か2日で800元、3日で1500元くらいとのこと。

とりあえずwechatの連絡先を登録してツアーの情報を送ってもらって検討することにし、申し込む際はwechatで連絡すればOK、とのことでした。

通行証申請

以下の話は2024年当時の話なので、これから行く場合は必ず最新の情報を確認してください。少なくとも边防证の手続きをする場所が移転したとの話はちらっと見た記憶があります。

さて、パミールツアーに行く場合には边防证(正式には边境管理区通行证管理办法)という証明書が必要になります。 中国の身份证を持っていれば割と町中の警察署などで手続き可能っぽいのですが、パスポートしかない場合は町外れの別の場所で手続きを行います。

ということで、この手続きのため、タクシーで喀什国际自驾车与房车营地にやってきました(手続きを行う場所は現在は別の場所に移ったそうなので、旅行を検討している場所は最新の情報をご確認ください。)。

午後3時(といっても新疆時間的には12~13時くらい?の気分)に来たのですが、無情にも昼休み中でした。 割と辺鄙な場所にあるので特に周りでやることもなく、だいぶ無為な待ち時間を過ごしました。 下調べ不足じゃ。。。

身份证持ち以外は申請書に記入が必要だったのですが、まず申請書がなくなっていたので、16:30頃に開いた窓口で申請書をもらうところからスタート。 住所はホテルの名前を書き、行き先はタシュクルガン(これは先方で「カシュガル地区」などに適宜拡大してくださいました)、有効期限満了日はよくわからなかったので空欄にしておきました(手続き時によしなに有効期限1か月で発行してくれました。)。

申請書に記入して並びなおすと、長蛇の列...なんですが、混沌とするには至っておらず、きちんと列は機能していたのが救いです。 割り込もうとした人は他のお客さんや窓口の人に追い返されていました。

ということで、1時間強並んで無事取得できました! 写真添付欄があるのですが、写真添付は不要とのことでした(確か「パスポートと一緒に所持していれば」という条件付きだった気もします。)。

さて、ここから市街地へ帰るのが少し大変*3。 少し歩いたところにバス停があったとのですが、この「少し歩く」ところ、歩道はないし大型トラックは多数走ってるしで心臓に悪い(一応、緑地の中を歩けるので車道を歩くわけではないですが。)。 しかもバスがなかなか来なかったので、結局タクシーで帰ることにしました。

タクシーもこれまた捕まりにくかったのですが、信号待ちのタクシー(「有客」と書かれてるのになぜか誰も乗っていない)に「去市中心吗?」と大声で訊いてOKもらえたので乗せてもらえました。 前に乗せたお客さんを身份证をタクシーに忘れたから、それを届けに行く最中とのことでした。

散策と夕食

町中を歩いていたら、何やら面白いものを売っているのを見かけました。 見た目からしてゴーヤ(苦瓜)の熟した実のようです。 フルーツ扱いっぽい?

ホテル近くのレストランで夕飯です。

喀什古城の端っこというかすぐ外というか微妙な場所にあるのですが、中心から離れてるためか、中国内地からの観光客はあまりいないっぽく、漢族っぽい顔立ちの人は私以外にはもう1人くらいしかいませんでした。

ケバブ(5元)とラグマン(小)(12元)をいただきました。 ケバブは肉そのものが美味しかったのに加え、肉の間にレバーが1つだけ入っていて、食感の変化があって良かったです。そもそもレバー好きな人間なので、これは嬉しい。 ラグマンは(小)だったおかげか、量もちょうど良い。 お茶は薔薇の香りがして、これもよき。

ところでこの旅で何回もラグマン食べてて気づいたのですが、具材は大別して2パターンあった気がします。

  • 共通の具材 : トマト・ピーマン・タマネギ・肉
  • パターン1 : 共通の具材に、白菜・きくらげなどが追加
  • パターン2 : 共通の具材に、サヤインゲン?・瓜系のなにか(スイカの皮っぽいもの)などが追加

この日の夕食はパターン2っぽいですね。

夕食後の散策。 日も暮れてきて、路地も昼間とは異なる雰囲気を漂わせます。

平べったい果物何か。 シルエット的にみかんっぽいかと一瞬思ったのですが、色が全然違いますね。 この旅で何度か見かけたのですが、どうもイチジクっぽいです。

昼間とは別の旅行会社を通りがかったのでこちらでもパミールツアーについて聞いてみました。 チャーターでも少人数ツアーでも昼間の旅行会社と同じくらいのプラン、同じくらいの値段でした。 結局、こちらのほうが説明が詳しかったので、一晩考えた末、翌日こちらの旅行会社にお願いすることにしました。

翌日に続きます。

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

*1:wechatならミニアプリの乘车码などから。

*2:現地の解説パネルより

*3:まあ普通に滴滴とかを使えばよかったと思うのですが、なぜ自分がそれをやらなかったのか謎。。。

2024年新疆旅行10日目 : クチャ観光

龟兹魏晋古墓遗址博物馆。市街地中心部で発掘された墓が元の場所のままで展示されています。

2024年シルクロード新疆の旅10日目(2024-09-20)の記録です。

前日がチャーター車で郊外を周ったのに対し、この日はクチャ市街地内部を観光し、夜には夜行列車に乗ってカシュガルに向かいます。

今回の旅全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

库车王府

まずはホテルからタクシーで庫車王府に。

こちらは19世紀の清代の郡王府を復元したもの...なのですが、テーマパーク感強めかと思います。 そのへんは了解の上で、展示メインで見に行ってみました。 入場料55元(けっこう高いな?)。

龟兹博物馆

博物館部分は「龟兹博物馆」と書かれていて、龟兹はクチャの旧名。 龟は中国語では通常はguīと発音するのですが、ここではqiūと発音します*1。 マイナーな読みのようで、ネイティブでも、読み間違えてたり、ガイドの方の説明を聞いて驚いてる方などいました。

解説はあっさり目で、展示も思ったより小規模かなーと思ったのですが、いくつか気になる品もありました。

クチャ語(トカラ語B)の文字が記された土器片。 文字としてはサンスクリット語の表記に用いられるブラーフミー文字だそうですが、言語としては別物。 19世紀末~20世紀初頭まで存在を完全に忘れられた言語で、出土文字史料によって解読された言語だそう(要出典)で、言語好きにはたまらない。 加えて、漢訳仏典の一部の語はサンスクリット語から直接音写したものではなく、クチャ語を経由しているという研究もあるそうで、これも興味深い*2

ここにあるのは数文字程度程度ですが、より長い文章が記された仏典や世俗文書も見つかっており、たとえば通行証に書かれた内容から隊商の人・駄獣の数や内訳がわかるそう*3

こちらは石窟寺院の須弥山の一部だったよう。 前日のキジル千仏洞で、斜め下向きの穴が複数穿たれているものがあり、ガイドさんの説明曰く「元は木の棒を挿して、須弥山を塑像で作ってた」という話だったので、物が残っていたらこういう形になっていたのかな。

後は民俗展示やコインの展示などもあったのですが、軽く眺めるだけで済ませました。

王府の展示

そもそもクチャ郡王について全く何も知らなかったのですが、現地の解説によると : クチャ郡王家の興りは、清代乾隆年間に当地の反乱鎮圧に協力した鄂对が、清王朝から貝勒(ベイレ)の爵位に封じられたことだそう。 更に、道光年間の反乱鎮圧にも貢献し、群王の地位を授かったとのことです。

展示では、クチャ郡王の一族の歴史を紹介しています。 展示のナラティブはアレですが...。

特に、最後のクチャ王、达吾提·麦合苏提の功績についての展示が多めです。 1927年生まれで激動の時代を経ながらも新中国でも地元の党幹部などを歴任し、なんと2014年までご存命だったそうです。

敷地内に陵墓もありました。

昼食

横断歩道が、中央アジアあるあるの模様になってて面白い。

庫車王府の前は観光客向けと思しきお店が並んでおり、このへんで昼食にしました。

シャシリク(8元)とラグマン(10元)をいただきました。 ラグマンは4日ぶりなので、ちょっと久々。 注文前に確認して、店員さんが「不辣」って言ってたのですが、けっこう辛めでした(今回の旅でこれを何回も経験した気がします。)。

支払時にちょっと面白いことがありました。 支払いが完了するとお店側の端末がそのことを金額込で通知するのですが、なんと通知が「支付宝到账。sekiz元。」と、数字の部分だけウイグル語でした。

库车大寺

徒歩で、近くのモスク、庫車大寺にやってきました。入場料15元。 後日カシュガルで訪問するエイティガールモスクは新疆最大のモスクですが、こちらはそれに次ぐ規模だそうです*4

16世紀創建のモスクを1931年に再建したもの*5ということであまり古いものではないようですが、全国重点文物保护单位と書かれていました*6。 先程の王府はテーマパーク感ありありでしたが、こちらはもっと落ち着いた感じで個人的には好み。

入口のイーワーンの後ろにはドームがあります。

長方形の平面の部屋の四隅にアーチをかけて、その上に平面が円形のドームを乗せる形、スクィンチアーチと呼ばれる手法で、イランや中央アジアのイスラーム建築でよく見る形です。

礼拝室はこちら。 正面が開放的な造りになっているのは珍しい気もします。

中は林立する柱が平屋根を支えていたり、中央に明り取りの窓があったりと、中央アジアあるあるの形式。 ただ、

明り取りの窓にかけられた屋根部分、ちょっと東アジア木造建築の架構っぽい気がします。 あと、柱の頭の雲肘木のような部材がやらと大きめな気がします。

比較に、数日前にトルファンで見た蘇公塔も参照: amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

奥には、壁で仕切られた小さめの礼拝室もありました。 小礼拝室の中もですが、外の部分も柱頭や天井の装飾が他よりも華やかです。 貴人のためのスペースだったのかな。

龟兹魏晋古墓遗址博物馆

タクシーで市街地の中心地に移動し、こちらの博物館にやってきました。 後ろにある住宅などから分かる通り市街地どまんなかなのですが、ここで2007年*7に発掘された魏晋南北朝時代の墓を展示しています。 新疆で初めて発見された中国内地様式の墓ということで、2007年の「全国十大考古发现」にも選ばれたそう*8

博物館の開館?は2024年7月のようで、このときはできたてほやほや。 中国の公立博物館はたいていは無料なのですが、ここは入場料30元でした。

基本的に1時間に1回ガイドツアーがあります。公式ガイドによる解説や、動画、プロジェクションマッピングを利用した説明等充実していて、理解が深まります(ただし中国語)。 一方で自分のペースでも見たいので、私はガイドツアーと、自分で見るの、あわせて2周しました。

展示の導入部分では、漢~魏晋南北朝時代のクチャについて概観し、発掘品などを紹介していました。 「漢書西域伝」の記載曰く、亀茲は西域の他の都市に比べて圧倒的な人口*9を誇っていた、という話が印象的。

また、文献からも、考古学的な調査からも、クチャ近郊で鉱物資源を産し、冶金が行われていたことが分かるとのこと。

導入展示の部屋を出ると、いよいよ当地で発見された墓室を見ることができます。 今でこそ市街地どまんなかですが、墓が築かれた当時は、このあたりは確か都市の城壁の外、東側という話があった気がします。

まずは1号墓。

武威や嘉峪関で似たような形式の墓に入ったことがあり、確かに類似している気がします*10。 詳細は下記の旅行記参照(ただし嘉峪関のものは撮影禁止で内部の写真がありません):

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

過去に訪れた墓は内部から見学したわけですが、今回は外部から見ているので、なんとも不思議な気分になります。 そして1号墓はほどよく(というと語弊がありますが...)崩落しているため、断面図として概要を把握するのに向いているように思います。

墓の形式だけでなく、パネル曰く、煉瓦の組成も中原のものと類似しているそう。

14号墓。 こちらの墓には59人もの人々が葬られていたとのこと。 こうやって多数の埋葬者を1つの墓に(何度も分けて?)埋葬するのは河西地域にはあまりなくて、タリム盆地の風習だそうです。

また、陶器・硬貨・金の装飾品などの様々な副葬品が見つかっているとのこと。 硬貨には当地の亀茲のものだけでなく、漢や新のものが含まれているよう。 この墓は崩落の危険性が高かったみたいで、中は鉄骨でガチガチに補強しているそうです。

他にもいくつもの墓が並びます。 さきほどの2つは複数の墓室からなる墓でしたが、こちらのは単室のもののよう。

ここで墓の「格」についてガイドさんから興味深い話を聞きました:

  • 墓の入口のアーチが何重になっているかで格が変わり、多い方が格上。
  • レンガは红砖じゃなくて青砖のほうが格が高い。
  • 地下深くにある方が格が高く、浅いところにある方が格が低い。

1号墓の入口のアーチは2重であるのに対し、

2号墓はアーチが3重なので、こちらのほうが格が高いっぽいです。 あと、正面外部の壁も装飾されてますし納得感がありますね。 とはいえ、1号墓は墓室が2つ、2号墓は墓室が1つなので、話を聞く前は前者が格上かと思ってしまい、少し意外な気もしました。

最後の出口近くの3号墓。 こちらも入口のアーチが3重で、正面壁面の装飾の斗栱のような構造もよく残っています。

装飾をよーく見ると、獣のようなものが描かれているのが見て取れます。

解説いわく、朱雀・白虎・玄武・青龍の4神があしらわれているそうです。 がしかし、ちょっと心眼でみないとこれが4神ということはわからない気も。。。

散策+夕食

本屋

ハミ、トルファンに続き、ここでも新華書店を覗いてみました。ハミとトルファンの店舗に比べると小さめかな。

ウイグル語の本や、

ウイグル語の教材に加え、

ウイグル語版新華字典もありました。これハミでも見かけたやつですね。

中国の朝ごはんのお店とかで飲める豆乳が好きなんですが、まさか1冊丸ごと豆乳をテーマにした本があるとは思わんかった。

歴史書の棚では、こちらの「六千里运河二十一座城」という本が気になりました。大運河に沿って各都市の歴史などを語った本のようです。 日本(関東)でも利根川水運とか水運の話が大好きなので、こういうネタにはついつい目がいきます。

ちょっとびっくりだったのがこちらの本。 日本の自己啓発書などが翻訳されて出版されているのはちょいちょい見るのですが、すみっこぐらしも売られてるとは。。。 あと、すみっこぐらしって中国だと角落小伙伴なんですね。

街歩き

賑わっていそうな方(博物館すぐ北側の通り、)に歩いていったら、小学校の前の通りに出ました。ちょうど下校時間だったみたい。ちなみにこのとき19時半頃だったのですが、新疆だと実質-2時間で17時半みたいなものなので、まあ尤も(その分、朝も遅く始まるはず。)。

商店や飲食店が軒を連ねていて、買い物客で賑わっていました。

店先に並んだ大きいナン、買って食べてみたいけど、1人旅じゃ明らかに食べきれないんよなー。

库车市亀茲博物馆と書かれた建築現場が見えました。 この記事を書く際に小红书で検索したら、既に開館してるようです。 库车王府の展示が期待ほどじゃなかったので、次行く機会があったら、こちらも見てみたい。

バザール

少しだけ歩いて、バザール(乌恰供销大巴扎)に。

バザールというよりは、ほとんど屋台や飲食店だった気がします。 まだ実質17時半くらいなので夕食には早い時間帯で、人もそれほど多くはなかったかと思います。

目を引く鮮やかな色のザクロ。 でもこのときもザクロジュース飲みそびれたな。。。 お腹が強い方ではない+長距離移動が多い旅程+観光スポットの見学に時間を目一杯使うので、飲食は後回しにしがちかつ保守的になりがちだなー、と今になって反省しました。 次行くときはもっと食い倒れよう。

さきほどのバザールはちょっと観光客向けな雰囲気もあったのですが、通りの反対側の市場はもうちょい地元向けっぽい落ち着いた雰囲気でした。

高德地图で見たよさげなサモサのお店があったので、ここで夕食にします。 「乌恰烤包子店」のウイグル語表記、当時はほとんど読めなかったのですが、ペルシア語をやった今見返すとぎり読めなくもない。雑に音写すると、Wucha samsa xanesiとか? *11。 その下にも「阿帕尔烤包子」と書かれてるけど、こっちは店名じゃなくてサモサの種類とかかな...?(たとえるなら「〇〇うどん(店名) 讃岐うどん」とか?)

サムサはどんどん焼き上がるのですが、お客さんもひっきりなしやってきて、見ていて気持ち良いくらいのハイペースでサムサがはけていきます。

一声かけて撮らせていただきました。 焼く前のサムサは見る機会がなかなかない気がします。 このふにゃっとした皮で包まれた物体を窯の内側に貼りつけて落とさず破かず焼くのは、なかなかコツが入りそうな気がします。

持ち帰りのお客さんが多かったのですが、せっかくだから焼きたてを食べたい、ということでお店の前の路上のテーブルで食べていきます。 やはり焼きたて、皮もパリッとしていて、具の香りも良く、とても美味しかったです。 具は油控えめな気がします。そしてお茶が付いてくるのも嬉しい。 昼が多かったし夜は軽めに...と思ってたのですが、美味しくて2個ペロリと食べてしまったので、思わず追加でもう1個買いました。

食べてるうちにようやく日没を迎えます。だいたい20時半くらい。

お腹も満ちて満足したので、路線バスで鉄道駅に移動します。

夜行列車

クチャ駅。 ウイグル語表記の部分、前半はたぶんkuchaだと思うのですが、後半はもしかしてvogzali?*12 現代ウイグルと共通語彙の多いウズベク語では駅はvokzal(たぶんロシア語からの借用)なので、k→gでびみょーに違ってる?*13

安全検査後の屋外、やたらと駅舎に入らずここにとどまってる人が多いなーと思って一瞬首を傾げたのですが、待合室に入って納得。 あまりに人が多くて待合室の座席が足りないくらいでした。 どうも団体客がいたっぽい?(名札みたいなものを下げてる人の集団がいました。) ただ、自分の乗る便よりも前の便でだいぶはけたので、無事に座席を確保。

夜行列車に乗る準備として歯磨きをしようとしたら、後ろのお姉さんに「歯磨き粉少しもらえませんか?荷物の奥でなかなか出せなくて…」(意訳)と声をかけられる、というおもしろイベントが発生しました。 ということで歯磨き粉を少し分けたのですが、赤の他人とのこの距離感、中国らしい気がします(?)。

23時過ぎ、到着した客車に乗り込みます。

席はコンパートメント式の软卧。

翌日に続きます。

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

  • [1] 前田耕作(2010)「玄奘三蔵、シルクロードを行く(岩波新書)」岩波書店 ISBN:978-4-00-431243-7
  • [2] ヴァレリー・ハンセン[著]、田口未和[訳] (2016)「図説シルクロード文化史」原書房 ISBN:978-4-562-05321-6
  • [3] 李乾朗[著], 恩田重直, 田村広子[訳] (2023)「図解 中国の伝統建築」マール社 ISBN:978-4-8373-1601-5

*1:というか新华字典を調べたら、qiūと発音するときの説明に龟兹の説明しか書いてなかったので、もしかしてほとんどこの固有名詞のときだけ使う読み方?

*2:参考文献[1] p.55「シルヴァン・レヴィは、漢訳仏典にみえる「沙門、沙弥、波逸提、出家、外道、滅」といった語は、サンスクリット語からの直接の音借語ではなく、トカラB語、すなわち亀茲語(クチャ語)を媒介した語であるといって、間文化(インターカルチャー)としてのクチャ文化の重要な寄与を明らかにしている。」

*3:参考文献[2] p.116-p.118

*4:参考文献[3]p.142 クチャのジャーミー・モスクについての文脈で「カシュガルにあるエイティガール・モスクに次ぐ規模を誇り、両者は新疆ウイグル自治区の2大モスクとなる。」

*5:現地解説パネル「始建于1559年,距今约有460余年,1931年重建。」

*6:なお、参考文献[3]p.142には「民国期の火災で木造部分が消失したが、現地の有力者の寄進により再建され、今日に至る」とあり、もしかしたら入口イーワーンとドームの部分(木造ではなくレンガ造りのよう)はそれより前から残ってるのかもしれないです。

*7:現地解説パネルより

*8:2007年,在友谊路墓群勘探发现10座砖室墓葬,其中汉式砖室墓在新疆地区属首次发现,反映中原汉文化对西域龟兹地区的直接影响,对于研究晋十六国时期西域于中原地区政治、经济、文化交流等方面具有重要价值,因友谊路墓葬群意义重大入选“全国十大考古发现”。

*9:2位の焉耆の2倍以上

*10:いずれも、複数の墓室を通路でつなぐ形式。レンガでアーチ状の天井を設ける。

*11:現代ウイグル語の短母音の表記を知らずに書いてるので、あまり信じないでください。

*12:どちらも我流の雑な音写。現代ウイグル語の短母音表記は私は理解していないです。。。

*13:ちなみに語尾のiは複合名詞を作る時の3人称所属人称接尾辞だと思われるので、単語単体としては関係ないはず。

2024年新疆旅行9日目 : クチャ郊外観光(クズルガハ烽火台、キジル千仏洞、スバシ故城)

スバシ故城の仏塔

2024年シルクロード新疆の旅9日目(2024-09-19)の記録です。

この日はチャーター車に乗り、クチャ郊外の観光地を巡ります。

今回の旅全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら(チャーター車の依頼についても前日の旅行記に書きました) amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

クチャ概観

郊外の旅について書く前に、まずクチャ近辺を空の上から概観してみます。

北に座す白い峰々は天山山脈。そこから南、白丸で囲ったあたりが、クチャの中心市街地です。 天山山脈からの雪解け水は、前にある山に阻まれつつも一部で川をなして山を突破し、クチャ(とその近くの新和县)の農地は、それらの川の流出口のあたりから広がっているようです。

少し拡大。 3つの星マークは、左からキジル千仏洞・クズルガハ烽火台・スバシ故城。 今日はこれらの遺跡を巡ります。 また遺跡だけでなく、「G217」と書かれた道は山中の荒々しい地層も見どころでした。

クズルガハ烽火台

この日の最初の目的地はクズルガハ烽火台(克孜尔尕哈烽燧)。 万里の長城からさらに西に伸び防衛ラインをなす烽火台(のろし台)ネットワークの中の1つです*1。 漢代に創建され、その後唐代に修復・再建された?もののようです*2

入場チケットとカートのチケットがあるのですが、カートで移動する距離はせいぜい片道1kmくらいだったので、入場チケット(15元)のみ購入しました。 また、近くにクズルガハ千仏洞もあり、まとめて行くこともできるかもなのですが、千仏洞については公開停止中との貼り紙がありました。

まずは屋内の展示を拝見。 割と既知の話が多かったのですが、とはいえ、遺跡単体でなくて、こうやって背景知識を教えてくれる場があるのは嬉しい。

唐代の烽火台の分布を示した模型。 見る前は「天山南路沿いにちょっとあるくらいかなー」と思っていたのですが、北はジュンガル盆地の中、西は現在のパキスタンとの国境近くにまで広がっていたようで驚きました。 河西回廊の旅でも長城や烽火台は見てきたので、それがここまで伸びていると思うと感慨深いです。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

展示はさくっと15分くらいで見終えて、烽火台本体まで歩きます。 木道の上をしばらく歩くと、進行方向少し左手に烽火台が見えてきます。

近づくとあらためてその大きさを感じます。人の背丈と比較すると、だいたい10m以上はあることが見て取れるかたと思います*3

更に近づくと、表面のしましま模様が見えます。 烽火台は版築で築かれたそう*4なので、このしましま模様も版築の跡なのではないかと思われます。

壁面には穴がいくつもあるのが見て取れます。上部などには木材らしきものが横に張り出しているのも見とれますし、穴の部分にも元は木材が刺さっていたとかでしょうか。 元々は周りに螺旋階段がついておりその名残ではないかとの話も読みました*5が、現地の解説などには記載がなかった気がします。

雨が少なく乾燥した土地とは言え、土製の塔が1000年以上屹立してるのは冷静に考えるとかなりすごい(語彙力の不足)。

漢代の長城については出土した木簡などからいろいろと分かると読んだ(c.f.下の記事)のですが、唐代の長城についてはこういう出土史料ってどうだっけ...? amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

つい烽火台にばかり目が行ってしまうのですが、周りの眺めも良いです。 烽火台の南西側は、川に削られた崖。この立地も防衛上の理由とかかな。 そして川の流れた痕跡は見えるものの、水は見当たらない気がする...?

振り返ると、反対側はヤルダン地形(たぶん)。 こちら側には行かなかったのですが、道は続いてたので、もっと歩き回ってみてもよかったかも。

独庫公路

ここから山を超えて、北西に向かいます。 この行程では、G217国道の一部を通りました。 G217国道のうち独山子とクチャ(庫車)を結ぶ区間は特に独庫公路と呼ばれ、天山山脈を縦断するそのルートに広がる絶景の故か、「中国最美公路」とも称されているようです。 今回はそのほんの一部しか走っていませんが、それでも山の中の景色は見事でした。

クチャの独庫公路終点(始点?)はサービスエリアのようになっており、売店やトイレ、屋台などなどありました。

「此生必驾」という謳い文句。 帰ってきてから気になって小红书(rednote)で検索してみましたが、砂漠に草原に雪山と、変化に飛んだ絶景を楽しめるようで、「中国最美公路」の名前は伊達ではないようです。 私は運転できないので、自力では行けなさそうですが。。。

遊歩道や展望台も整備されており、

周囲の眺めを楽しむことができます。

一通り景色を眺めたら再び車に乗り、山地の方向に走ります。

山中に入ると、斜め方向(か場所によってはほぼ鉛直)に走る迫力満点の地層。

おそらく褶曲によるものかと思います。 知識としては知っていますが、この巨大で硬そうな岩をこうも曲げて動かしてしまう力が大地に働いていると思うと改めて圧倒されます。

地質学全然詳しくないのですが、こういう眺めは大好きなので、写真を撮りまくってました。 あまりのお上りさんぶりに、運転手さんからは「新疆は初めて?」と聞かれるほど。

トルファンのベゼクリク千仏洞のときもそうでしたが、新疆、移動途中の絶景だけでも満足感が高いです。

山を超えると、再びヤルダン地形(たぶん)が広がります。

滔々と流れる川を通過。

何やら黄色いものが広げられていました。ドライバーさんに聞いたところ、たぶんトウモロコシを干してるのだろうとのこと。

また、写真は撮りそびれたのですが、これとは別に真っ赤なものも見かけました。そちらは唐辛子だそう。

川沿いの低地に向かって一気に下っていきます。 次の目的地のキジル千仏洞は、この川に面した断崖に築かれています。

キジル千仏洞

ということで、やってきました、キジル千仏洞。 時間指定の事前予約が必要(wechat公式アカウント龟兹研究)なのですが、到着時間が読めなかったので、チャーター車を依頼した旅行会社に代行をお願いしておきました。 入場料は70元。

まずは全体像を概観しておくと:

  • ここキジル千仏洞はおおよそ3世紀に創建、9世紀に衰退*6とのこと*7
  • 石窟は通し番号が振られているものだけで200以上あり、通し番号がないものも含めると300以上見つかっているとのことです*8

数多ある石窟のうち、このとき公開されていたのは、そのうち谷西区の一部。 なお、石窟はどれもが壁画や仏像で荘厳されているわけではなく、シンプルな造りものだそうです*9*10

中国の遺跡系の観光地あるある、やたらと広い敷地をしばらく歩きます*11

谷西区の石窟群に到着。写真の像はここクチャ僧侶、出身の鳩摩羅什(344年~413年*12 )。 仏典の漢訳の歴史は大まかには玄奘を境として旧訳と新訳の2つの時代に大別され*13、玄奘が新訳の代表とみなされるのに対し、鳩摩羅什は旧訳時代の代表的な訳経僧として知られています*14。 語学に堪能だったようで*15、その能力を活かして仏典の漢訳を行ったそうです*16。 ちなみに新訳の代表の玄奘のは学術的には正確であったものの、結局は中国語として自然でわかりやすい文章を目指した鳩摩羅什訳*17が読み続けられたとのこと*18

このへんの話は参考文献[4]が非常に良かったのでおすすめ(鳩摩羅什の訳経僧としての活動の概要はp.27-p.32あたり、その翻訳の傾向などはp.96-p.102あたりを参照。): amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

さあ石窟を見るぞ、と進みたいところですが、自由に見学できるわけではありません。具体的には:

  • バックパックなどはロッカーに預けるようにとのことでした。うっかり壁画を破損したりしないように、という意味では尤も。
  • 10人くらいをグループにまとめて、グループでまとめて移動する方式で見学が進みました。
  • 各石窟には解説員が常駐していて、一通り解説してくださり、解説を聞き終えたらグループで次の石窟に移動する、という形式でした。
  • 石窟内部は写真撮影禁止

ということで、あまりゆっくりは見れず、写真もないのですが、解説のおかげでより深く理解できた点は良かったです。

手元のメモなどを見返すと

  • 34, 32, 27, 8, 10, 17の5の窟を見学しました。
  • 石窟は基本はヴォールト天井だったと思います。
  • 34窟の壁画 : 壁画の青は確かアフガニスタン産のラピスラズリ。赤は確か辰砂と鉛丹で、前者は色が残ってるが後者は黒くなってる。
  • 壁画のモチーフは仏にまつわる逸話(解説していただいたのは、自らの腕を燃やす話?と、ブッダを石で殴打した人が罰される話など)も多いのですが、風神や太陽神?のようなものもあり、印象的でした。太陽神?はギリシアのヘリオスの影響を受けたものと考えられるそうです。
  • 部屋の中心に柱があり、その周りの回廊状の部分を歩けるようになっていたと思います。確か、初期の仏教では仏像ではなく塔の周りを周って礼拝するものだったと思う(要出典)ので、おそらくそのための造りなんだろうと思われます。
  • 1つだけ壁画がない石窟もありました。ここは居室とのこと。
  • 全体的に、地震で損傷を受けたり、国外に持ち去られたものが多かったです。

石窟そのものではないですが、遠くの景色もなかなか良いです。 川に削られた断崖が見事にほぼ垂直な崖をなしているのが印象的。 先日の交河故城のときも思ったのですが、日本だとここまで垂直な断崖ってそこまで多くない気がするので、地質の違いとかでしょうか?(単に私が日本の崖をあまり知らないだけで勘違いかもですが。)

移動+昼食

再び独庫公路で山を超えて市街地がある側に戻ります。

往路で既に写真たくさん撮ってたのですが、復路でも思わずはしゃいで写真何枚も撮ってました。

ドライバーさんともいろいろと話したのですが、「1人旅は自由で良いよね」と、今回の旅で初めて同じ意見の方でした(前日の警察の方、前々日の観光客の方からは、「1人旅つまらなくない?誰かと一緒に旅行しないの?」といったコメントをもらってたので、地味に感動しましたね。)。 ドライバーさんも本当は1人で旅行したいらしいけど、親が危ないからと許してくれないそうで、大変。。。

道中のサービスエリアみたいなところで昼食です。

ドライバーさんおすすめのものということで、丁丁炒面を頼みました。

食感が特に好みで美味しかったのですが、いかんせん量が多い。。。 同じものを頼んで私は半分くらいしか食べられませんでした(あと辛い)。ドライバーさん曰く、「ここだと女の子でもこれくらいは完食できる」とのこと。 と言いつつ、ドライバーさんもきれいに完食したわけではなく、ピーマンとトマトは苦手とのことで残してました。

腹ごしらえもすませて、この日最後の目的地、スバシ故城に向かいます。

スバシ故城

概要と展示

日本語では「スバシ故城」として知られる*19この遺跡ですが、中国語名の「苏巴什佛寺遗址」のほうが正確かもしれません。 というのも、「故城」は「かつての城」(ただし中国語で「城」は都市の意味)を表すのに対し、ここは仏教寺院の遺跡だからです*20。 魏晋時代に創建され、隋・唐の時代に最盛期を迎え、13~14世紀頃に放棄されたそうです*21

また、上述の鳩摩羅什と玄奘もここを訪れたそうです*22

google mapsより
スバシ故城は、川が山から流れ出すあたりに位置しています(画像の白枠で囲ったあたり)。 ビジターセンターの展示(後述)曰く、遺跡の現在の呼び名の「スバシ」はウイグル語で「スバシ」はウイグル語で川の源・水源の意味のようで、この立地からついた名前だそうです*23

google mapsより
面白いのが、遺跡が川の両岸に分かれて分布していること。 川をはさんで東西に分かれた伽藍については、玄奘の玄奘の記録にもある*24とのことなので、1000年以上前からこうだったのでしょう。 間に川があると互いの行き来は簡単ではないと思うので、なぜ片岸だけで拡張しなかったのか、少し不思議な気もします*25。 なお、東西の遺跡のうち、西側だけが公開されていました。

遺跡本体から少し歩いたところにビジターセンターがあります。 余談ですが、ビジターセンターに向かって歩いてる途中で、野犬が吠えてるのが目に入って危機感を覚えた*26のですが、私の前を走っていたバイクがクラクションを鳴らして追い払ってくださいました。ありがたや。

ここに遺跡の歴史的背景などの解説もあるので、遺跡の前に訪れるのがおすすめです*27

上述したように、川の両岸に分布しているのですが、寺の更に外側に墓が分布しているそう。 遺跡からは文書含めた出土品多数と書いてあった*28のですが、墓があるのなら出土品が多いのも納得です*29

遺跡は入場料25元、さらに課金すれば解説員の方が解説してくださると書いてあったのでお願いしてみたのですが、このときは解説員の方は不在とのこと。 クルズガハ烽火台のときに続いて本日2敗目です。。。

google mapsより
公開されているのは西寺の一部、木道が敷かれ部分のみとなります。 そのうち大きな建物は2つあり、1つが上図右側の西寺大殿、もう1つが西寺中部仏塔です。

西寺大殿

まずは西寺大殿。 周囲を立派な壁に囲まれています。

出入り口部分には甕城があったと書かれていて、実際、平面図を見た感じ、進入経路を曲げる造りになっているようです。日本の戦国・江戸時代の城の用語で言うなら、外枡形虎口と呼べそうな形です。 そう考えると、壁の隅が突出してるのも、(日本の城の用語になりますが)横矢をかけるための出隅っぽい気がします。 こういった防衛上の工夫は、都市を囲む城壁や要塞などに実装されているイメージだったので、仏教寺院の壁にもあるのは少し意外でした*30

開口部の壁面の縦方向の溝は門柱をとりつけた跡とか?

中央やや右の遠景は、川の対岸の東寺の遺跡のようです。この解像度だとわかりにくいかと思いますが、円柱状の塔のようなものも見えました。

木道は西寺大殿の内部にも少し伸びていて、建物内側も垣間見ることができます。

ここで、先述の鳩摩羅什が経を講じたとか。

西寺中部仏塔

仏塔。西寺側で最も保存状態の良い建物といって良いかと思います。 日干し煉瓦で建てられているそうです*31。 どうも手前から奥に向かうスロープ?があるように見え(崩れてそう見えてるだけかもしれないですが。)、塔というよりかはピラミッドやジグラットのような雰囲気な気がします。 アーチが見えるあたりに、空洞というか部屋のようなものがあるのかも?*32

ぐるっと回り込んで別の角度から見たところ。 こちらから見たほうが塔という感じがするかもしれません。 解説のパネルには「明らかにガンダーラの影響を受けたもの」という趣旨の記載*33があるのですが、stupa Gandharaあたりで検索して出てくるのはお椀を伏せたような形の仏塔でした。 一瞬あんまり似ていないかもと思ったのですが、お椀の一部だけが残ったのがこの写真の背の高い部分とか?(でもって、上の写真でアーチなどがある部分はやたらと綺麗なので、ドーム状の部分の崩壊が進まないように後世に補強したもの、とか?)

ちなみにこちらには「玄奘が経を講じたところ」という趣旨の看板がありました。

その他

その他の建物についてはあまり解説などはなかったものの、近くに迫る山を背にぽつぽつと遺跡が点在する様は寂寥感に溢れ、強く脳裏に残りました。

夕食と散策

市街地に戻ってドライバーさんと別れ、ホテル近くのお店で夕飯にします。

丸子汤、25元。 スープだけだと思ったら、主食と副菜もついてくるのありがたい。 ちょっと辛みはありますが、割とあっさりした味わいで好みです。

食後の散歩で南湖?の方の公園まで歩いたら、案の定、广场舞で賑わっていました。 いくつかグループがあり、それぞれカラーが違っていて興味深かったです。 写真のグループは中央アジアらしい曲メイン+ごくたまに漢語の曲で踊っていたのですが、社交ダンスっぽく踊るグループや、K-POPっぽい曲で踊る若者グループなどもありました。

翌日に続きます。

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

  • [1] 今村遼平, 中家惠二, 上野将司 編著 (2021)「シルクロード1万5000キロを往く 上巻 天山南路・天山北路 大草原と氷河の旅」古今書院 ISBN:9784772242257
  • [2] 小松久男 編者代表 (2023)「中央ユーラシア文化事典」丸善出版 ISBN:978-4-621-30806-6
  • [3] 小松久男, 梅村坦, 宇山智彦, 帯谷知可, 堀川徹 編 (2005)「中央ユーラシアを知る事典」平凡社 ISBN:4-582-12636-7
  • [4] 船山徹(2013)「仏典はどう漢訳されたのか スートラが経典になるとき」岩波書店 ISBN:978-4-00-024691-0
  • [5] ヴァレリー・ハンセン[著], 田口未和[訳] (2016)「図説シルクロード文化史」原書房 ISBN:978-4-562-05321-6
  • [6] 前田耕作(2010)「玄奘三蔵、シルクロードを行く」岩波書店 ISBN:978-4-00-431243-7

*1:展示パネルには「新疆地区的烽燧障塞构成了中国万里长城西段部分。」と、これらの烽火台が長城の一部という趣旨の記述が見られたのですが、「でもこのへんに甘粛省で見たような城壁はなかったはずでは?」「そして万里の長城というのは城壁のことを指しているはずでは?」というのが私の認識なので、この書き方になっています。ただ、展示等では城壁ではなく、防衛ラインのことを指して「长城」と言っているかもしれません。

*2:現地の銘板「唐政府为了有效地抵御突厥的侵扰,在汉代烽燧的基础上,对克孜尔尕哈烽燧等部分烽燧进行修复并建了部分烽燧驿站。」

*3:現地の銘板の解説曰く、現存する部分の高さは約13.5m。

*4:現地の銘板「烽燧夯土版筑的构筑方式是库车古代土木建筑的最为古老的方法。」

*5:参考文献[1]p.72「烽燧台の外周には螺旋状の細い階段が頂上まであって、頂上部分には狼煙を燃やす場所で遠望できる望楼があったというが、今はなく、階段を取り付けてあった腕木の痕跡が見えるだけである。」

*6:現地の解説の銘板「克孜尔石窟始建于公元三世纪,衰落于公元九世纪」

*7:ただし、参考文献[2]p.550「千仏洞の仏教壁画」の項目、「キジルの壁画」の節には「造立年代は諸説あるが, 5~7世紀が最盛期とされる.」とのこと

*8:現地の解説の銘板「目前已发现的洞窟总数为349个,已编号的洞窟有236个」

*9:参考文献[2]p.550「千仏洞の仏教壁画」の項目、「キジルの壁画」の節「古代亀茲国時代の造営で, 236の石窟が数えられ, そのうち3分の1程度の窟に塑像や壁画が荘厳されていた. 」

*10:参考文献[3]p.294 「千仏洞」の項の「新疆(クチャ)」の節 : 「クチャ周辺の千仏洞のなかではキジル石窟がとくに有名である.(中略)石窟の半数以上は僧の居住や瞑想実践の場として用いられたらしい簡素な僧院窟であるが, 壁画や塑像で飾られた祠堂窟も50以上にのぼる.」

*11:駐車場やビジターセンターなどを遺跡部分から離れた場所に作って、遺跡への悪影響を抑える、という意味では合理的。

*12:生没年は像の台座より。

*13:参考文献[4]p.21「漢訳の長い歴史を区切る方法に「旧訳」と「新訳」がある。唐の玄奘(六〇〇/六〇二~六六四)を新訳の始まりとし、それ以前を旧訳として一括する区分法である。」

*14:参考文献[4]p.21「鳩摩羅什と玄奘こそ、仏典漢訳史の二大巨頭であり、それぞれ旧訳と新訳の代表である。」

*15:参考文献[5]p.90「鳩摩羅什はきわだってすぐれた言語能力をもつ学者で、クチャの住民の多くと同じように、母語であるクチャ語をふくむ複数の中央アジア言語をあやつり、ほかに中国語、サンスクリット語、ガンダーラ語、そしておそらくアグニ語とソグド語も習得していた。」

*16:参考文献[4]p.96「自ら漢訳を行った外国僧の代表は鳩摩羅什である。」

*17:参考文献[4]p.99-p.100「原文に忠実でもくどくどしく、わかりにくい表現よりも、すっきりと簡潔で、わかりやすい文章をめざしたことは、羅什訳の一般的傾向である。」

*18:参考文献[4]p.105「決定版だったはずの玄奘訳は学術的価値こそ認められたものの、人々が読み続けたのは、その後もやはり鳩摩羅什訳だったのだ。」

*19:たとえば、日本語版wikipediaではこの名前で立項されています。

*20:と言いつつ、もしかしたら門前のようなエリアなども含めて、寺院を中核とした都市をなしていた可能性もありますが、、、

*21:後述の展示パネル「苏巴什佛寺遗址约建于魏晋,鼎盛于隋唐,13-14世纪被废弃。」「14世纪,伊斯兰教传入塔里木盆地后,佛教受到冲击,以致苏巴什佛寺逐渐衰落。」

*22:参考文献[6]p.42-p.43 鳩摩羅什についての文脈で「そしてゆかりの雀梨大寺で広く大乗の経論を読誦してその「秘奥」を会得したと『高僧伝』は伝えている。雀梨大寺は(中略)玄奘が訪れた「昭怙釐伽藍」こそこの寺にほかならない」とあり。このことと、ビジターセンターの展示のスバシ故城についての記述「历史上先后称雀离大寺、雀梨大寺、昭怙厘大寺等。」をあわせて、鳩摩羅什と玄奘がスバシ故城を訪れたと理解しています。

*23:展示パネル「遗址位于库车河出山口之两岸,“苏巴什”维吾尔语意为“水的源头”,遗址当是因地理位置而得名。」

*24:参考文献[6]p.43で大唐西域記からの引用として「(前略)山の入りこみに接し、一つの河をはさんで二つの伽藍がある。同じく昭怙釐と名づけ、東昭怙釐、西昭怙釐と位置に従って称している。」

*25:今はまとめて1つの遺跡として扱われてますが、当時は別組織だったとか..?

*26:私は狂犬病ワクチン未接種なので。。。

*27:私は遺跡を見た後にこちらを見たのですが、この旅行記ではわかりやすさのため、順序を変更して記載します。

*28:遺跡の解説パネル「曾出土汉、南北朝、唐代钱币,铜、铁、陶、木器,壁画、泥塑佛像,还有书写古民族文字的木简、残纸。」「苏巴什佛寺遗址出土文物类型丰富,包括:舍利盒、丝织品、古钱币、陶器、铜器、铁器、木器、木简和纸本文书以及壁画碎片、石雕佛像、泥质塑件等。」

*29:実際は寺院部分からの出土品のほうが多い可能性もあるので、この部分は「トルファンではアスターナ古墓からの出土品多かったよなー」という連想から来る私の当て推量です。

*30:でも辺鄙なところにある寺院なら盗賊とかから見を守るためにも防衛力が必要だったのかも?

*31:遺跡の解説の銘板に「该佛塔坐北朝南,塔身方形,土坯垒砌,分五级。」

*32:遺跡の解説の銘板「佛塔中部现存一佛寺后室」とあり

*33:「苏巴什佛寺塔的形制和结构,明显是犍陀罗佛教艺术的影响。」