世界史ときどき語学のち旅

歴史と言語を予習して旅に出る記録。西安からイスタンブールまで陸路で旅したい。

2024年新彊旅行3日目 : ハミ観光

2024年シルクロード新彊の旅3日目(2024-09-13)の記録です。 この日は1日ハミの街を観光します。 行く前はあまり大きな街ではないしそんなに見るものはないかなーと思っていたのですが、博物館の展示が存外に良く、特に翼竜の化石が興味深かったです。

今回の旅全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

この日もホテルで朝食。 油条と豆乳の組合せはいかにも中国北部っぽいので満足。

バスに乗って博物館に移動します。 上の写真は中心市街地あたりのものですが、博物館はここから少し離れた南側のエリアにあります。

哈密市博物馆

ということでやってきました博物館。

私が訪れたときは

  • 入場無料
  • 個人客は予約不要
  • 定休日は月曜

微信(WeChat)に公式アカウント「哈密博物馆」があるので、最新情報はそちらを参照ください。

さて、まだ開館時間*1には少し早かったので外で待つのですが、なんと館外には翼竜の群れが埋まった巨大な化石「翼之巢」が(ケースに収められた状態ですが)鎮座していました。解説によると2016年に発掘されたもの。 なお、「逆光で撮りにくいし写真は後で撮っておくか。」と思ったら見事に撮り忘れました。気になったらそのタイミングで写真を撮りましょう(自戒)。

博物館に足を踏み入れると目に入る中央の像は、ハミ近郊出土の前漢期の銅鏡をモチーフにしたものだそう*2*3

自然科学系の展示

まずは自然科学系(というか翼竜や恐竜)の展示から見ることにします。

恐竜の骨格模型もあるのですが、

やはり翼竜の化石群の扱いが大きく、こちらがかなりアピールされていたと思います。 種名は天山哈密翼龙(Hamipterus tianshanensis)で、新種として報告されたようです*4

上の方は頭骨のうち顎の部分だそう。 歯らしきものが生えているのが見て取れます。

これなんかは頭蓋骨がはっきりと分かります。

とまあ素人目線で見ると「ほー、こんなにたくさん翼竜の化石が見つかっているのか~」くらいしかわからないのですが、

化石を比較することでこの翼竜は雌雄で形態が異なる(とさかの形)ことが分かったり、化石の断面を顕微鏡で観察することで翼竜の年齢が分かったり、さらには卵の化石のCT画像から発育の情報が得られるなど、様々な発見があったそうです。

それらの研究成果の論文も掲示されていました。

Curerent Biology誌での新種報告論文は、表紙を飾るものになったようです: www.cell.com

なお翼竜だけではなく同時代の生物の化石(中国他地域のものですが)も展示されており、 魚竜や、 鳥に極めて類似した恐竜Anchiornisなどが印象に残りました。 後者の化石、羽毛の跡が見事に見えますね。

改めてなんですが、ハミでこんなに多数の翼竜の化石が見つかっていたのは知りませんでした*5。 もともとこの博物館も歴史系の展示目当てで来たのですが、現地に行くとこういう予期せぬところの知識が得られて嬉しいです。

歴史系の展示

翼竜の展示だけで既に満足度が高いですが、もともとの目当てだった歴史の展示に進みます。分量的にはこちらの方が多いです。

秦以前

先秦時代のハミ近辺の墓の分布。

ここで紹介されている天山北路墓地は市街地での発掘例だそうです*6。 だいたい紀元前2000年頃のものだそう。

陶器/土器を中心に数々の出土品が並べられていたのですが、

興味を惹かれたのはこちら。

パネルの解説によると、塤と呼ばれる笛の一種だそうです。

こちらは天山北路とは別の墓からの出土の、「鍑」と呼ばれる調理器具。 去年の西安や蘭州の博物館でも見かけたので、そろそろ見慣れてきました。 西北部以外でも見かけるのかとか分布範囲が気になります(遊牧民の文化の影響を受けたものだそうなので、南部だと少ないのかな、とか。)。

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

こちらは先ほどより少し時代が下り、西周時代の古墓群。 乾燥した土地だからか、木製の品などの有機物もよく保存されています(日本だとなかなかこうはいかないので羨ましい。)。

特に驚いたものが、こちらの中央の革靴!と、

*7。 個人的には日常生活に関わる歴史に興味があるので、こういうものを見るとだいぶわくわくします。

ちなみに東方書店から近々「大地からの中国史 史料に語らせよう 」という本が出るらしいので、かなり気になってます。 www.toho-shoten.co.jp

なお、餅や他にも農具が出土したことから農業の存在が示唆されるものの、解説パネル曰く牧畜が主だったと考えられるそうです。(∵)副葬品として皮革製品や毛織物、動物の肉などが多数見つかっており、一方で穀類が副葬された墓は相対的に少ない。

こちらの墓からは、箜篌とみられる弦楽器が11件見つかっているそう。 竿の部分のギザギザがフレットみたいなものかと一瞬思ったのですが、箜篌はハープのような楽器のようなので、違いそう? 弦がどう張られてどう演奏されたか気になります。 ところでそもそも論として、文献上の品名を発掘品と対応させるのは一筋縄ではいかない気もするんだけど、どうやってるんだろう。

こちらは別の墓からの品ですが、またもや塤。 さきほど見たものよりは穴も多く、音階が演奏できそうです。

山羊?の飾りのついた銅鏡。 博物館入口のオブジェの元になったものかと思います。 入り口の解説によると遊牧文化の影響を受けたものだそう。 後ろに反り返った大きな角を持つ山羊(?)のモチーフ、西安の博物館でも似たようなものを見た記憶があります。 やはり西北部は農耕と遊牧の2つの文化の境域にあるからでしょうか*8

漢代

漢代になると、西域についての情報が中国中央にも知られるようになり、その情報が「漢書」「史記」などの文献として現在まで伝えられてきています。 文字で記録された歴史が好きなので、昔の筆まめな人々に感謝です。

さて、解説パネルによるとかの有名な張騫もここハミの地を経由し、巴里坤湖*9のほとりで一時期暮らしていたそうです(たぶん、匈奴の捕虜になった時のこと。)。 旅が終わってから読んだ本には、蘭州あたりを出て匈奴の捕虜になってからの行路は詳細不明、と書いてあった気がする(要出典)のですが、古い本なのでもしかするとその後の研究で書き変わったのかも?

石碑のレプリカ(のはず)。 新疆では漢代の石碑が4つ見つかっているのですが、なんとそのうち3つがハミにあるそうです(新彊の中では中原に一番近いと考えれば尤もな気もします。)。

3つの石碑の名前と百度百科のページはこちら

魏晋南北朝以後

これ以後の展示物は割とあっさり目だった気がします(か、私が疲れてすっ飛ばし気味に見ていたからかも。)。

ハミ郊外には唐代の城も残されているとのことです。

こちらは(レプリカですが)唐代の石碑「姜行本纪功碑」。 解説によると、唐が麴氏高昌国を滅ぼした際の遠征について記したものだそうです。 高昌国のあったトルファンに翌日移動すると思うと、ここで出会えたのもなんだか感慨深いです。

最後は清代。 チベット仏教の仏像や陶磁器などが展示されていました。

モスク?の門のレプリカ。 この後、午後の散策で似たようなものを実地で見ることができました。

こちらは別コーナーに置かれている「弥勒会見記」の回鶻文写本。

仏典かと思ったのですが、後で調べたところ弥勒菩薩について書かれた文学作品とのことでした。 ここには1枚だけ展示されている*11のですが、数百ページ(!)まとめて発見されていて、回鶻文で書かれたほぼ完全な文献という非常に貴重なものだそうです*12。 ということには現地で気が付かず、軽く見るだけで流したので今思うと惜しいことをしました。

哈密市非物质文化遗产保护中心

続いて博物館と同じ敷地内のすぐ隣にある、哈密市非物质文化遗产保护中心(哈密木卡姆传承中心とも呼ばれるようです。)。

新彊(というよりハミ)の様々な民族の文化を紹介する展示や、タイミングがあえばウイグルムカームの演奏や踊りを見ることができます。 このときはスタッフの方に訊いたところちょうど上演中とのことで、正面の入り口ではなく向かって右側の建物横側の入り口を案内され、そちらから演奏会場に入れました。

会場はこんな感じ。大型バスでやってきたたくさんの観光客で満員大入りでした。 なお肝心の演奏なんですが、電子音楽入り(録音も流してる?)になってて、生の楽器の演奏が聞こえにくい気がしました。 民謡の歌手の方による独唱もあり、節回しはこのあたりの香りを感じるものながら、伴奏の音楽はなんともモダンな電子音楽だったのも印象に残っています。 *13

終演後、建物の正面入り口から展示を見に行きます。 入口入ってすぐはこんな感じのやたらた派手な造り。

ハミのムカームについて。 ただ、こういったパネル展示多めで、動画や録音などはあまり多くなかった気がします。

そして、ここハミの街の名を冠したハミ瓜の特集展示もありました! なんでここでハミ瓜の展示が?と思ったら、ハミ瓜栽培は自治区無形文化遺産、かつ国の農業文化遺産でもあるそう。 ちなみにハミ瓜の名前の由来は、清の康熙帝にハミの領主が献上したことだとか。

主に清代の文献から、ハミ瓜に関する記述が引用されています。 「瓜州よりもハミの瓜の方が美味しい」みたいにしれっと瓜州(敦煌)が比較対象にされていたり、ブドウはやっぱりトルファンが引き合いに出されたりと、他地域との比較も興味深いです*14

様々なハミ瓜の模型も。 模様だけでもこんなにいろんなものがあるとは知りませんでした。

祭りなどについても。こちらの阔克麦西热甫は麦西热甫(meshrep)の一種。 meshrepはUNESCOの無形文化遺産*15の1つに登録されています。 こちらの解説にあるハミの阔克麦西热甫はお祭りのようなものかと思ったのですが、UNESCOの解説を見ると一般的なmeshrepは伝統的な集会のようで、歌舞音曲が披露されるだけでなく、住民間の紛争を解決する調停の場としても機能していたそう*16

みんな大好き食の話。

ウイグル族の料理だけでなく、

回族や漢族の食についての展示もありました。 普段米を主食にしている人間なので、こういった小麦粉を使った多種多様な料理には心惹かれるものがある気がします。

個人的に気になったのはカザフ族の食の話。 遊牧・牧畜寄りの生活だからか、ここで紹介されていた他の民族のものとは毛色が異なるようです。 解説を読むと特に乳製品の利用が盛んなようで、”苦勒提(酸奶疙瘩)”というのはヨーグルトを乾燥させたものと書いてある+発音からしてクルトのこと、”阿克艾勒木齐克(奶豆腐)”はフレッシュチーズの一種のようです。

昼食

一通り見終えたので、そろそろお昼にするかーと移動開始。

途中、車に満載されたハミ瓜を見かけました。 観光客用に出してるようでさっき展示を見たばかりで気になるけど、これはご飯にはならないからなー、昼食後に食べるかーと見送り*17

屋台(?)はほとんど営業してませんでした。 暑いし、たぶん夜に盛り上がるのかな。 ところでこの「我在~很想你」みたいな看板、中国の観光地だとだいたいどこでも見かけるのだけど、流行ってるのかな。

とはいえ屋内でやっているお店はあったので、手近なところに入ってラグマンをいただきました。 「一人で食べ切れる量」と言われて一皿頼んだら、これまた量が多い。 ちなみに味は美味しかったです。 麺は確か、うどんよりは細くスパゲティよりはやや太いくらいで、ほどよいコシのあるもの。 具に白菜とかきくらげが入っていたり、山椒が使われてるあたり、中国他地域からの影響かも?*18 油が多いものの熱いお茶がデフォルトでついてきたので助かります。

哈密回王墓

さきほどの博物館から通りを挟んで向かいにある回王墓に向かいます。 こちらは後の回王府とあわせてハミ郡王家(清代にジュンガルとの戦の功でこの地の統治を認められた領主?)ゆかりの地です。

入場料などは写真の通り。

こちらは様々な文化圏の様式の建築が同じ敷地に並んでいて、伝統建築が好きな人間としては楽しめました。

たとえばこちらはいかにもペルシア・イスラーム文化っぽい、大ドームを戴いた墓。

大ドームだけでなく、タイルにもペルシア要素を感じます。

お次は中央アジアっぽいエイティガール・モスク。 解説によると17世紀中ごろ創建で、その後18~19世紀頃にかけて拡張されたようです。

どのへんが中央アジアっぽいかというと、こちらの内部の造り。 平屋根を無数の木の柱が支える造りはウズベキスタンでも見たものです。

ウズベキスタンはヒヴァの大モスクを訪れたときの旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

「平屋根を無数の柱が支える」だけなら他の地方でもあるのですが、柱はイランだと煉瓦、トルコだと石のものがほとんどで、木の柱は見なかった気がします。 たとえばトルコの石の柱を用いたモスクの例だと、コンヤのアラアッディン・ジャーミーや amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

カイセリのウル・ジャーミーあたり。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

最後は、ここ新彊ではやや異色な気もする、東アジア木造建築。

軒先を見ても日本や中国の他地域で見慣れた東アジアの様式に見えます*19。 なお、円形や八角形(?)の屋根はなかなか見慣れないなーと思ったら、解説曰く満州やモンゴルの様式だそうです。

と、散々東アジアっぽいと書いてしまったのですが、こちらの墓も内部にはなんと最初に見た墓と同様のドームが設けられていました。 一つの建築にこんなにいろんな要素が入ってるとは思わなかったです。 文化交流の様子を感じさせるという意味で興味深い。

こうやって並べて見ると両者の様式の違いが際立ちます。

「歴史陳列館」という建物もあったのですが、内部は復元品とか当時を想像した油絵とかがメインだったのでざっと見るだけにしました。

哈密回王府

続いて、すぐ隣の哈密回王府。 さきほども書いたハミ郡王家の宮殿。と言いたいところですが、元の宮殿は残念ながら焼け落ちてしまったので、それを再建したものです。

マップ。

やたら中原風なんですが、実際に再建前のものもこういった様式のものだったそうです。 この後見かけた解説によると、ハミ郡王が北京を訪れた際に紫禁城の姿に感銘を受け、帰る際に中原の工人らを招いて宮殿を建てたとのこと。

中国の歴史系観光地あるある(?)、人形で往時の様子を再現したもの。 左の2人は赤系統の鎧(?)をまとっていますがこれは理由があって、ハミ群王家は清朝の八旗の鑲紅に属していた*20からのようです。

こちらの牌坊から続く急階段を上り、

門をくぐると

正殿?前の広場に出ます。

ただこの建築、近づいてみると分かるのですが、きちんと伝統的な工法に則した建て方ではなくて、あくまで伝統建築風の建築です。 具体的には、斗栱(組物)が見るからにニセモノ感があります*21。 まあでもこのへん突っ込み始めると日本でも例はあるので、どこまで突っ込むべきか悩ましい*22

なお、先ほどの写真では中原風の建築しか映っていないですが、少し視線をずらすとすぐ横に中央アジア西アジア風の建物も共存しています。

建物内には王府や王墓、新彊の文化の解説もありました。

散策

地図を見ると、古そうなマザールorモスク?が近くにあるそうなので、歩いて行ってみることにしました。

このへん(ハミの市街地の南部)は北部とは違って昔の街の姿が残っているっぽいです。 道行く人もウイグル族と思しき装いの人が多かったと思います。 年配の女性はスカーフで髪を隠してる人が目についたり(でも隠してるのは耳から上だけ。このへんはウズベキスタンの年配の女性も同様でした。)

民家の上に突き出た部分、壁には穴が設けられているあたり、ブドウを干すための小屋とかでしょうか(このあとトルファンで似たものをいくつも見かけて、そちらではブドウを干す小屋という解説があった記憶があります。)。

道端のお店のナン。 気になるけどどう考えても食べきれないので見送り。

お目当ての場所はこちら。

残念ながら扉が閉まっていて、中には入れませんでした。

が、博物館でも展示されていた門の装飾は見ることができました。 建物のドームはペルシャを感じるのですが、門の装飾は組物を重ねるような形で東アジアの雰囲気を感じます*23

この後バス+徒歩で「哈密肃州寺」というモスクを見に行ったのですが、こちらは工事で近づけませんでした。

ついでに隣の公園を少し散歩したのですが、何やら遊具?健康器具?のようなものが多数。

こちらはクスリと笑ってしまった顔はめ、じゃなくて体型はめ?パネル。 一番左は肥満寄りなので「长时间中低强度运动,节食」というのも納得なのですが、一番右が「加强力量训练」なのは細すぎるのもダメということかな、たぶん。

本屋

さてさて、あんまり観光らしくはないのですが、せっかく中国、しかも新彊に来たということで、現地の本屋さんを訪れてみることにしました*24。 特に何かを買う予定はないのですが、新疆らしい本が置いてあったりするかなーというのがお目当て。

こちらの新華書店では入口にロッカーがあって、大きい荷物はそこに預けるよう言われました*25

新華書店お約束のプロパガンダ本は華麗に流して奥に進むと、新疆らしくアラビア文字の本もありました。 たぶんウイグル語、のはず。。。*26

中国語によるウイグル語の教材や、ウイグル語による中国語の教材も並んでいます。 特に印象的だったのが、右の写真の左下に並んだ赤い本。なんと、新華字典ウイグル語版(漢字をウイグル語で説明するもの)でした。

2階は中国語の本がほとんど。 他の地域でも見る本がほとんどだと思いますが、左宗棠特集コーナーがあるのは新彊らしい気がします。

他にも古代漢語や中国史の本など眺めたのですが、写真は割愛。 あとは、店内に椅子と机がおいてあり、座って本をゆっくり読めるのが印象的でした。

注意書き。 観光地とかだと「游客止步」と書かれたものを良く見るのですが、書店では来店客のことを「读者」(読者)と呼ぶのか~というところが面白い気がします*27

書店を出てバスを待っていたら、何やら見慣れない車が目に飛び込んできました。 車体には「多功能抑尘车」と書かれており、土埃を押さえるために水を撒いているようです。

ハミで見たいものはだいたい見たので、翌日の電車の出発時刻を早めることにしました*28

ちなみにハミ近郊の絶景で有名な「哈密魔鬼城」(もしくは「大海道景区」)には行きませんでした。 ホテルのフロントにもおすすめされた(というか「ハミにくる観光客はほとんどここが目当て」とも言われた)のですが、今回は歴史/文化メインのつもり+難易度が高そうだったのでパスしました*29

こちらのスレッドに詳しく書いてくださっている方がいらしたので、気になる方には参考になるかもです。

夕飯

お昼のラグマンが量が多かったので、夕食はテイクアウトで軽く済ませることにします。

果物屋さんで、お店の人におすすめされた蟠桃という平べったい桃と、生のプルーン(西梅)を購入。 トマトが並んでるのが面白いのですが、どうもトマトは果物扱いっぽいです*30。 ハミ瓜も気になったのですが、まるまる1個からの販売っぽくて「1人じゃ食べきれないかなー」と言われたので諦めました。

あとは昨日通りがかったナン屋さんでサモサ(烤包子)も。

ホテルに着いたらサモサは少し冷めていましたが、塩気の効いた羊肉がごろごろと入っており、美味しかったです。 意外とボリュームもあり、当初2個買うか迷ったけど、1個にしておいてよかった。

果物はこれで全部で9元近くとお安い。 蟠桃は思ったより甘くてジューシーでめっちゃくちゃ美味しかったです。 あまりに美味しかったのでこの後何回か別の街でも買ったのですが、他のはこれほどではなく、このときのハミのものが一番美味しかったです。当たり外れがあるのかな。 ちなみにサモサでお腹いっぱいになったので、果物は半分だけ食べて残りは翌日の朝ごはんになりました。

翌日に続きます。

*1:写真のタイムスタンプを見ると、朝10時。ただし、北京時間なので実質朝9時くらいの感覚です。

*2:実物は高さ16cmらしいのではるかに小さいです。台座に刻まれた解説より。

*3:後で展示室でもとになった実物を見かけました。

*4:後述のcurrent biology誌参照。

*5:というかそもそも中国での古生物学の発掘状況の話は全く知りませんでした。

*6:ここでの天山北路は、いわゆる「シルクロード」の天山北路ではなく、ハミ市内の道路の名前のはず。

*7:中国語で饼と言えば、日本でイメージするような米をついたもちではなく、穀物の粉を練って整形して焼いたりしたもの。

*8:別に南部でも良く出土するとかならこの推察は間違いなので、どう分布してるのかとか要確認。

*9:ハミ市街地からは山を挟んで北に位置します。

*10:この旅の後の方で、ウルムチ新疆ウイグル自治区博物館で実物を見ました。

*11:というかレプリカor写真等かもしれないのですが、記憶があやふや。。。

*12:百度百科 https://baike.baidu.com/item/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E4%BC%9A%E8%A7%81%E8%AE%B0/7145772 博物館公式webページの動画 https://hamimuseum.com/?relic_54/173.html

*13:このへん、観光客向けのショーとするためにこのように変化したのか、それとも伝統音楽が活きているが故にこういった現代的な要素を取り入れて発展しているのかで評価がだいぶ変わるので意見は保留。後者については、日本でも和楽器バンドとかよさこいソーランみたいなのあるしなーというのを念頭に置いてます。

*14:ちなみにブドウとトルファンの話を書いている「阅微草堂笔记」、後の展示でも引用されていたので気になって調べてみたら、百度百科曰く、これは清代の奇談怪談小説?だそう。

*15:正確には、「緊急保護が必要な無形文化遺産」"List of Intangible Cultural Heritage in Need of Urgent Safeguarding"

*16:https://ich.unesco.org/en/USL/meshrep-00304

*17:ちなみに昼食を食べたら量が多くてお腹いっぱい過ぎてハミ瓜を食べる余裕がなくなりました。無念。。。

*18:今回の旅で何度もラグマンを食べたのですが、お店によって具の種類はいろいろでした。

*19:細かいことを言うと、角の垂木の処理が扇垂木になってる(中国は確かだいたいこの様式)あたりは日本の主流派とは異なる点。

*20:現地解説パネルより。

*21:本来は斗が梁を挟むように支えるはずなのに、平面状の板が上にでんと乗ってるので、全然斗栱の形になっていないです。。。

*22:大阪城はコンクリ再建ですし、あと富士山+五重塔+桜で有名な新倉山浅間公園五重塔なんかは組物が全くない形で作られちゃってますし。。。

*23:斗がないので組物というのは不正確ですが。

*24:この旅では、基本的に全ての都市で新華書店に行きました。

*25:テロ対策かな?と思ったのですが、おいてある手荷物検査機は使っている気配はなく、また、他の街の新華書店に行ったときは「リュックが開けられないようにお店の用意した袋に入れて持ち込む」というフローだったので、どうも盗難防止な気がします。

*26:新彊では、ウイグル語だけでなく、カザフ語やクルグズ語も同様の改良アラビア文字を用いて表記してたはず。

*27:と言っても他に用例を見てないので過度な一般化かもです。

*28:このへん中国鉄路12306の公式アプリからさくっと変更できるので便利。

*29:日帰りツアーがあるらしいので、ホテルの方に頼んで手配していただければ行け

*30:ホテルの朝食ビュッフェでも果物と一緒に並んでいました。

2024年新彊旅行2日目 : 嘉峪関観光とハミへの移動

2024年シルクロード新彊の旅2日目(2024-09-12)の記録です。 この日は嘉峪関の街で博物館を訪れた後、西のハミへと向かいます。

今回の旅全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

朝7時頃夜明けと少し見かけ上の夜明けが遅めでした。

北京がだいたい東経116度*1、嘉峪関がだいたい東経98度くらい*2らしく、実質1時間くらいは時差があるので納得ですね。

朝食はホテルのビュッフェ。 朝から野菜をいろいろと食べれるのは嬉しいのですが、炝拌と書いてあるものは辛かったです。 今回は出発前からお腹の調子が良くないので、これはミス。。。

右のは棗入りのお粥。 ほんのりした甘味とナツメの香りが良く、美味しかったです。 日本ではあまり棗を食べない気がするので、中国に来た実感が強まります。 そういえば去年西安~甘粛に来たときも、レストランで出てくるお茶が棗入りだったり、棗を使ったお菓子の専門店を見かけたりしたのを思い出しました。

お腹も満ちたので出発。 なおこの日の嘉峪関は、雨の上に最高気温17℃だそうで寒かったです。 天気予報曰く数日後の晴れの日も最高気温23℃らしく、去年同じくらいの時期に来た時は暑かった気がするのだけど、大違い。。。

歩く途中に広場で魯迅の胸像と出くわしました。 ここ嘉峪関の街と何か関係あるのかはよく分かりませんでした。

嘉峪关城市博物馆

嘉峪関の観光地と言えば万里の長城の関なのですが、そちらは去年行ったので今回はパス。 去年訪れたときの旅行記はこちら

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

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今回はちょっとマイナーな嘉峪关城市博物馆に行ってみます。 現在の嘉峪関の街は鉄鋼の街として近代(新中国成立後)に発展した街*3で、その歴史について紹介した博物館です。

特に予約はせず、入り口でパスポートを見せたら入れました。入り口のスタッフのおばさまに日本から来たと話すと、「環境良いんでしょ?肌が綺麗だから分かるよ」と仰っていただいたり。

1階の展示は、主に現代の嘉峪関の街についてのもの。

特に緑化についての紹介が大きかったと思います。 嘉峪関の街にはいくつかの湖があるのですが、あれもなんと人口の湖で、水がめの役割を果たすのだとか。

あとは鉄製品やワインとかも紹介されていました。 そういえば去年訪れたときにタクシー運転手さんに嘉峪関のワイナリーを観光先にお薦めされたのを思い出しました。

2階は嘉峪関の街の歴史について。

林則徐が左遷されてイリに向かう途中で嘉峪関を通る際に読んだ詩が紹介されていて、個人的にはこれが一番興味深かったです。 そうか、清代も西に向かうときはここを通ったんだなー、と感慨にふけりました。 右のは「大轱辘车」と呼ばれるもので、林則徐も行程の一部でこのタイプの乗り物に乗ったとか。

そして現代の嘉峪関の街の建設の歴史が詳しく語られています。

きっかけは1950年代の鉄鉱山の発見だそう。 ここから人々が人影もまばらな西北部のここに集まり奮闘しいかにして艱難辛苦を乗り越えて新しい街を築いたか、という話が紹介されているのですが、詳細は略。

往時の住居の再現もありました。

これとはちょっと別のコーナーとして、嘉峪関の人々の昔の生活を振り返るコーナーもあり、

これまた昔の住宅の部屋を再現したものもいくつかありました。 日本にたとえるなら、昭和を回顧する博物館みたいな位置づけなのかな。

あとこちらは60年代のものですが、冶金学の教科書の著者名がキリル文字(たぶんソ連の文献の翻訳)だったり、ロシア語辞書があったり、例文が物騒なところも含めて時代を感じました。

昼食

少し早いけどそろそろお昼ご飯に向かいます。 大唐美食街を少し歩いてみたのですが、お店は営業しているもののかなり閑散としていた*4のと、割と四川料理のお店が多かったのでパスしました。

ということで、結局近くの城边边烧烤(去年も来た)にしました。 去年は美团ミニアプリが使えず店員さんに口頭で注文をお願いしたのですが、今回は無事にQRコードを読んで美团ミニアプリから注文しました。

今回も美味しくぺろりといただきました。 ただ、肉は微辛にしたのにちょっとスパイスが多かったり、モツは酢が少ない気も...?

微辛でも意外と辛かったので、胃を労る意味で牛乳のデザート(去年蘭州で知ったもの)を頼んだのですが、想定の2-3倍くらいのサイズで驚きました。 優しい味でしかも外が寒い中温かいデザートなので身にしみる美味しさなのですが、いかんせん量が多いのですが、最後はフードファイト状態になりました。 完食はしたのですが、やっぱり注文前に量を確認せんとなと反省。

ハミへの移動

嘉峪関南駅へ

お昼をのんびり食べすぎたので、駅にはタクシーで移動します。お代は20元くらいで、20分かからずに着きました。 ちなみに嘉峪関には嘉峪関駅と嘉峪関南駅がありますが、今回は高速鉄道利用なので後者です。

中国の鉄道駅お決まりの保安検査もありますが、特に列もなくスムーズに入れました。 なお、駅周囲にはほとんどお店などはないですが、駅の中にはハンバーガー屋や売店などがありました。

自販機もあり。飲み物だけでなく、ひまわりの種や手工辣条、泡风爪などが並んでるあたり中国らしい気がします。

普段なら後はまったり電車を待つのみ、なのですが、今回はちょっと普段見ない光景にも出くわしました:

  • ストレッチャーに乗せられた病人らしき人がいて、そのまま改札の中に運ばれていっていました。もしかすると、鉄道での病人搬送?
  • 外から太鼓の音が聞こえてきて、しばらくしたら、赤地に黄文字で「光栄退伍」と書かれたタスキ?をかけた人々や、迷彩服を来て太鼓を持った人々が駅に入ってきました。もしかすると、退役の見送りのイベントとか?

だいたい定刻通りに発車し、いよいよここから新彊に向かいます。

乗車

残念ながら窓際の席が取れなかったので、外の景色はちょいちょい眺めるだけ。 広大な風力発電所が印象的でした。 嘉峪関を出てからしばらくは鈍色の空が続いていましたが、

ハミに近づくとすっかり晴れ空が広がっていました。

道中、隣に座ったおばさまとちょくちょく話しました。 曰く、ハミの人でなんと定年退職前はあの三道嶺の炭鉱で働いていて、世界でも非常に珍しい現役の蒸気機関車*5は日々見かけていたとのこと。 「アメリカとか日本とかイギリスとかから写真撮りに来る人いるわねー、私たちは見慣れてるんだけど。でも、確かに冬は雪の白に火の赤が映える姿はきれいだったわねー」(意訳)みたいな話も聞きました。 きちんと確認していないのですが、どうも三道嶺の蒸気機関車は今年で引退してしまったと聞いたので、これは羨ましいです。 あと、この時期の新疆は果物が旬で、特に苦桃という果物をおすすめしてくださいました。

ところで乗車してからずっと気になっていたのですが、車内アナウンスは3言語でなされていて、中国語、英語、あと1つは恐らくウイグル語かと思います。

4時間かからないくらいの乗車時間で、ハミに到着です! 新疆に来るのは人生でこれが初めて。

ホテルへ

ハミ駅下車時の改札でパスポートを見せると公安(たぶんウイグル族)のおじさまにこっちついてきて、と言われて、控室みたいなところで何点か質問されました*6。 ついでに少し雑談したのですが、「新疆は乾燥してる上に1日の気温差が激しくて、喉を傷めちゃったよ。体調には気を付けてね。」(意訳)と仰っていただきました。

駅からはタクシーでホテルに移動。 チェックイン時にもさきほどの駅と同じような質問をされました*7が、特に問題なく無事にチェックインできました。

ハミ散策

この時点で19時半。まだ外は明るいものの博物館などは閉まってるので、とりあえず街をぶらぶら。

夜8時過ぎの時点で、学校から帰る小中学生多数に遭遇しました。北京時間からは実質2時間の時差があるからかな。

新疆らしいお店も発見。

近くの公園。 広場に子供が乗れるピカピカ光る乗り物が並んでるの、ゴールデンウィークに訪れたウズベキスタンのブハラでも見かけた光景です。

そして中国の公園と言えば(?)广场舞。 このときは2グループ見かけました。 1つは上の写真のエクササイズっぽい?もので、一番前の人が踊りながらマイクで踊り方の指示を出してて、興味深かったです(もっと皆好き勝手に踊るものだという印象があったので。)。 もう1つはたぶん少数民族の方で、音楽も中央アジアっぽかったです。

さて、そろそろ夕食の時間かなーと思ったのですが、お昼を食べすぎたので全然お腹が減らず。。。

ちょうどホテル近くに果物屋さんが何件かあったので、

桃を買って帰って夕飯としました。 左の2つは、たぶん電車で隣だったおばさまが紹介してくださった「苦桃」のはず...? ジューシーさはあまりないのですが、シャクシャクした食感と程よい甘さが美味しかったです。

翌日に続きます。

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

*1:https://ja.db-city.com/%E4%B8%AD%E5%9B%BD--%E5%8C%97%E4%BA%AC--%E5%8C%97%E4%BA%AC%E5%B8%82

*2:https://ja.db-city.com/%E4%B8%AD%E5%9B%BD--%E7%94%98%E7%B2%9B--%E5%98%89%E5%B3%AA%E9%96%A2%E5%B8%82

*3:要出典

*4:平日昼早めなのでそれはそう。

*5:観光用ではないもの、という意味。

*6:どこから来てどこにいくのか、宿泊するホテル、電話番号とか。

*7:ホテルの人曰く連休が近いので公安のチェックが厳しめになってるとのこと。

2024年新彊旅行1日目 : 東京から嘉峪関への移動

2024年シルクロード新彊の旅1日目(2024-09-11)の記録です。

この日は中国への移動日です。羽田から上海で乗り継ぎ、嘉峪関に向かいます。 去年は西安から嘉峪関を経由して敦煌まで河西回廊を旅したのですが、今回はそこからさらに西に足を延ばし、新疆ウイグル自治区を旅します*1

今回の旅全体のまとめページはこちら

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羽田空港から上海浦東空港まで

朝起きたら航空会社から「很抱歉通知您,由于公司原因...」*2というメールが来ていて、まさかフライトキャンセルか!?と冷や汗が出たのですが、内容は上海からの乗り継ぎ便が1時間遅延します、という内容だったのでセーフ。

ということでやってきました、羽田空港。成田より近いのでかなり嬉しい。 まずは乗り継ぎのため上海まで飛びます*3

チェックインカウンター、見当たらないなーと思ったら、Sカウンターという、1つ下のフロアにあるカウンターでした。ここを利用するのは初めて。 並んでいる方の会話を聞いていると、日本語話者も中国語話者もいて、他にも西洋系の顔立ちの人など乗客は多種多様でした。 去年乗った西安直行便のチェックイン列は中国話者が大多数だったので大違い。 察するに今回の列は中国が目的地の方は少なくて、上海からの乗り継ぎ需要かな。

保安検査と出国審査を通過して、おにぎりを買ってたらちょうど搭乗開始*4

チェックイン時に「窓側席お願いします」と言い忘れたので、フライト中の写真はなしです。

機内食では、fish rice or omlet?と言われてオムレツ頼んだのですが、うまく伝わらなかったのかfish riceの方が出てきました。 fish riceが何なのか気になってたので、なるほど鮭フレークが乗ったご飯のことか、と納得。

ほぼ定刻通り到着。ちなみに純粋な飛行時間は2時間半ないくらい?で短かったのですが、着陸後のタキシングや待ち時間で30分くらいかかった気がします。

海浦東空港から嘉峪関酒泉空港まで

さてここからが長いです。 上海乗り継ぎは4時間と余裕を設けていたのですが、乗り継ぎ先の便*5が1時間遅延予定なので5時間空きができました。 一瞬「上海市街地に観光に行く?」と思ったのですが、ここは上海浦東空港で市街地からは遠く、離陸2時間前には空港にいたいと思うとゆっくり観光する時間はなさそう。 あと「1時間遅延予定」と言われてるけど「やっぱり早く出発できることになりました」とかが発生すると怖いので、結局空港でのんびりすることにしました。

冷水がなくて選択肢が熱湯と常温の水、というところが中国らしい気がします。

ターミナルはS1(第1サテライト?)で、お店は少な目だった気がします。

しばらく旅先の情報を調べたり本を読んだりして、お昼の時間になったのでご飯にします。 お店はいくつか空いていたのですが、こちらの雲吞のお店に。

今回は出発前からお腹の調子がいまいちだったので、こういうあっさりしたご飯はありがたい。 ただ、これで47元なのは空港価格で高い気がします。。。

羽田でのチェックイン時にお願いし忘れたので、またも窓際席ではありませんでした。ミス。 予告通り、だいたい当初予定から1時間遅れで出発しました。

少ないながらも機内食あり。 右のものはカレー味だったのですが、八角っぽい香りがついてるあたりは中国らしい。 左の和物は、やまくらげ?くきわかめ?のようなコリコリしたものでした。 どちらも美味しかったです。

隣の人が席を立った隙に撮影。 かなり曇っているので、残念ながら地上は見えず。

4時間近くのフライトで嘉峪関に到着しました。 東京→上海の国際線よりも上海→嘉峪関の国内線の方が時間かかってますね。

謎キャラのお出迎えを受けました。

ちなみにキャラはおいておくと、ここのパネルの魏晋墓は壁画塼に描かれた当時の農業や牧畜、料理や食事の様子が非常に興味深いので、歴史(特に日常生活の歴史)に興味がある方にはおすすめです。 詳しくはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com 墓内部は写真撮影禁止なので↑の旅行記には写真はないのですが、百度で「嘉峪关 魏晋墓」「嘉峪关 魏晋墓 壁画」などで画像検索すれば様子が分かると思います。 個人的には長城よりもこっちの方がよかったくらいです。

嘉峪関の市街地へ

1年ぶりの嘉峪関です! (と言ってもここは市街地から遠いですが) 謎のこだわりとして陸路移動がメインなので、やっと今回の旅の出発点に立った気分です。

市街地まではタクシーかなーと思っていたのですが、空港出口すぐそばに市街地行きのバンが待機していました。 このときは写真手前が酒泉の市街地行きで、奥が嘉峪関の市街地行き。 ということで間違えないように要注意。 人数が集まったら発車するようです。乗車時に行き先のホテルを伝えたら、ホテル前まで連れて行ってくれました。

テルチェックイン後、機内食が少なくて少しお腹が空いたので、軽くご飯食べれるところないかなーとブラブラ。

安定のチェーン店德克士が目に入ったので、ハンバーガーを単品でいただきました。 ちなみにここのハンバーガーでバンズに挟まれているのは、牛肉のパテではなくフライドチキンです。 旅先でチェーン店というのはなんだか負けた気(?)もするけど、まあ日本にはないチェーン店(たぶん)だしヨシ!

翌日に続きます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

*1:起点が敦煌ではなく嘉峪関なのは、鉄道の路線の関係です。

*2:英語併記あり。

*3:MU576 HND → PVG

*4:写真撮ったのですが、今回の旅程だとボーディングブリッジじゃなくてランプバスで沖止めの機体に乗った記憶もいくつかあり、もしかしたらこの写真の機体に乗ったわけではないかも。

*5:MU6255 PVG → JGN

2024年秋 中国 シルクロード 新彊旅行まとめ

2024年のシルバーウィークに、中国の新疆ウイグル自治区を旅しました。 「西安からイスタンブールまで陸路で旅する」企画(?)の第2弾です! *1 この記事では、この旅の旅行記や、予習復習に読んだ本などの記事へのリンクをまとめます。

概要

今回の旅程。Google My Mapsで作成。

空路で嘉峪関に入り、そこから鉄道でハミ→トルファン→クチャ→カシュガル、車でカシュガルとタシュクルガンを往復、最後は再び鉄道でカシュガルウルムチを一晩で一気に移動しました。

新彊を旅するなら空路ウルムチin/outの方が一般的な気もするのですが、去年の旅で西安敦煌を(嘉峪関を経由する)陸路でつないだので、今回の旅ではそこにつなげたいというこだわり(?)で嘉峪関から入りました。 去年の西安敦煌の旅はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

旅の準備いろいろ

基本的には去年の中国旅行での準備と同様です(これは去年書いた記事です): amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

今回の旅でも支払いはalipay, wechatpayを利用し、現金は一度も利用しませんでした。 なお、今回旅した範囲ではwechatpayのみ利用可能な場面も多かったです。

予習・復習

旅行記

1日目 : 2024-09-11(水) : 東京→嘉峪関

  • 中国東方航空
    • MU576 HND 8:40 → 10:55 PVG
    • MU6255 PVG 14:50 → 19:00 JGN
  • 嘉峪関市街地に宿泊

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2日目 : 2024-09-12(木) : 嘉峪関→ハミ

  • 嘉峪関観光 : 嘉峪关城市博物馆
  • 国鉄路 D2703 : 嘉峪关南 15:06 → 18:50 哈密
  • ハミ市街地に宿泊

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3日目 : 2024-09-13(金) : ハミ

  • ハミ観光 : 哈密博物馆、哈密市非物质文化遗产保护中心(哈密木卡姆传承中心)、哈密回王墓、哈密回王府
  • ハミ市街地に宿泊

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4日目 : 2024-09-14(土) : ハミ→トルファン

5日目 : 2024-09-15(日) : トルファン

  • トルファン観光(チャーター車) : ベゼクリク千仏洞、阿斯塔那古墓群、高昌故城、火焰山景区
  • トルファン市街地に宿泊

6日目 : 2024-09-16(月) : トルファン

7日目 : 2024-09-17(火) : トルファン

8日目 : 2024-09-18(水) : トルファン→クチャ

  • トルファン街歩き
  • 国鉄路 T9527 : 吐鲁番北 14:05 → 20:39 库车
  • クチャ市街地宿泊

9日目 : 2024-09-19(木) : クチャ

  • クチャ観光(チャーター車) : クズルガハ烽火台(克孜尔尕哈烽燧)、道中の独库公路、キジル千仏洞(克孜尔千佛洞)、スバシ故城(苏巴什佛寺遗址)
  • クチャ市街地宿泊

10日目 : 2024-09-20(金) : クチャ

  • クチャ観光 : 库车王府、库车大寺、龟兹魏晋古墓遗址博物馆
  • 国鉄路 T9773 : 库车 23:21 → 7:28 喀什

11日目 : 2024-09-21(土) : カシュガル

12日目 : 2024-09-22(日) : カシュガル

13日目 : 2024-09-23(月) : パミール高原(少人数ツアー)

  • 観光 : 红山、白沙山白沙湖景区、カラクリ湖、タシュクルガンの石头城と金草滩
  • タシュクルガン宿泊

14日目 : 2024-09-24(火) : パミール高原(少人数ツアー)

  • 観光 : クンジュラブ峠(红其拉甫国门)、ワハーン回廊(瓦罕走廊)の入口、盘龙古道、班迪尔蓝湖、帕米尔文化博览园
  • タシュクルガン宿泊

15日目 : 2024-09-25(水) : パミール高原(少人数ツアー)

16日目 : 2024-09-26(木) : カシュガル

  • カシュガル観光 : 喀什博物馆、高台民居、喀什古城
  • 国鉄路 Z6518 : 喀什 21:30 → 9:00 乌鲁木齐

17日目 : 2024-09-27(金) : ウルムチ

18日目 : 2024-09-28(土) : ウルムチ

19日目 : 2024-09-29(日) : ウルムチ→東京

*1:ゴールデンウィークに先にウズベキスタンに行っちゃってたり、西安から蘭州は2回行ってたりするので、数え方は適当です。

2024年ウズベキスタン旅行 6日目 : ブハラ観光

2024年ウズベキスタン旅行6日目(2024-05-01)、ブハラ観光2日目の記録です。 ブハラはヒヴァよりは広いですが、ほぼ徒歩で周遊できます。 華やかな建築だけでなく、散策しながら水路や貯水池などを眺めて、オアシスの街としての歴史に思いを馳せる1日となりました。

今回の旅全体のまとめはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

散策

6時台に目が覚めた+同行者はまだまだ寝ているので、1人で朝の街を散策します。

タキ・サラフォン。銘板によると16世紀のもののよう。

交差点を覆う形になっています。 銘板には"trading dome"と書かれているのですが、バザールの一部がこの形で残ったのか、それとも元から交差点のみを覆う形で作られたのか、など気になります。

ヒヴァの朝の散策でも思ったのですが、人が少なくて良いですね。 自撮りをしている方がいて、「朝は人が少ないから写真を撮るのにベストな時間だね」と話したりしました。

前日夜には人であふれていたラビハウズの周りも御覧の通り。

ハウズ(貯水池)の水面に映るナーディル・ディヴァンベギ・ハナカ。 前日の観光はこの周りの16~17世紀のマドラサなど*1からスタートしたわけですが、実は貯水池自体も17世紀前半に遡る歴史のあるものだそう*2。 ただ、前近代の水道技術で、たまって流れない水は衛生的に大丈夫なのか...?と思ったらやっぱり大丈夫じゃないときもあったみたいです*3

街路樹として植えられた桑の木。 こちらは熟すると実が黒くなるタイプでしたが、熟しても実が白いタイプのもありました。 いずれもけっこうな大木(幹周り1m以上)で、ちょっとびっくりしました(日本で見たことのある桑の木は、道端に生えてる小さなものばかりだったので...。)。 鳥が全部食べるかと思いきや、地面に落ちてそのままになってる実も多く、地面がべたつくので要注意。

街路樹と言えば、こちらの見慣れない花も気になります。

昨日も通ったタキ・テルパクフルシャン。銘板によるとこちらも16世紀の建造。

昼間はお土産屋が立ち並び人でごった返す空間ですが、この時間は行き交う人は少なく、静かな空間でした。

昨日は全く気付かなかったのですが、内部にお墓らしきものがあります。

良く見たら花が供えられていました。 墓の主の名前はАхмати Парон。 キリル文字表記や英語の翻字(Ahmad Paronとか)でgoogle検索にかけてみたのですが、なかなか情報が見当たらず。。。 こちらのサイトgoogle検索にかけて読んだ限りでは、どうも昔のブハラの警察?番人?守衛?の長だったそうです。 instagramにショート動画もありました(私は全然聞き取れないのでわからないですが。) www.instagram.com 時代が分からないのですが、キリル文字表記と言うことは、亡くなったのは近代(ロシアの影響が及んでから)っぽいですね*4。 たぶんに想像を含みますが、16世紀には商人や買い物客が行き交ったであろうタキに、ここに縁のある19世紀(or20世紀初頭?)の人物のお墓が置かれ、今は(昼間は)お土産屋が軒を並べ世界各国から来た観光客が行き交う、という歴史が積み重なる様は興味深いです。

人が少ないとゆっくり観察できて、こういう発見があって良いですね。

タキを抜けたところにあったモスク。 英語表記はBozori Kord Mosqueで、16世紀のものだそうです。 このタイプの半屋外空間、今まで宮殿とかモスクとかで何回も見かけたので、そろそろ「いかにも中央アジアだなー」という認識が刷り込まれてきました(でも他の地域にもあるのかも。)。

タキ・ザルガロン。 銘板曰く、こちらも16世紀の建物。

ここまでの2つのタキに比べると、こちらはドーム裏も漆喰?が塗られていて、少し格が高い(?)のかもしれません。

開店前のお土産屋さんでお店の人と思しきおばさまが掃除をしていたのですが、扉の装飾(床ではなく垂直にたってる扉です...!)を箒で軽くはくだけで砂埃が舞い上がり、「あ、ここほんとに砂埃が多いんだなー」というのを実感しました。

カラーン・ミナレットとカラーン・モスク。 昨日は午後に来たのでモスク側が完全に逆光だったのですが、午前だとちょうど良いですね。

たっぷり1時間半ほど散策してホテルに戻ります。

朝食

ホテルに戻って朝食。 左側のはサモサっぽいものだった記憶があります。

午前

両替

ちょっと手持ちのウズベクスムの残量が怪しくなってきたので、両替します。

宿泊したホテルでは両替できないということだったので、別のホテル(具体的には、タキ・テルパクフルションの横のAsia Bukhara。たぶん高級ホテル。)の地下の両替所を利用しました。

サーマーニー廟

タクシー(Yandex)でサーマーニー廟/Ismoil Samoniy Maqbarasi*5に移動します。 運転手さんから身振り手振りで「歩いたほうがいい。タクシーだと遠回り」というようなことを伝えられた気がするのですが、同行者の体力温存のために乗ることにしました。

緑豊かな公園の中を進み(公園の入り口の写真撮りそびれた。)、緑の空間を抜けると

いよいよイスマーイール・サーマーニー廟と対面です。 9世紀頃(要出典)の建築で、ブハラで現存する建築(少なくとも今回の観光で見た建築物)の中では最も古い部類に属すると思います。 アッバース朝から自立したペルシア系イスラーム王朝のサーマーン朝の廟(要出典)

正面入り口から。 真上から見ると、ほぼ正方形の本体の上にドームが乗った形になっています。

派手さはないのですが、近くで見るとレンガを巧みに使って様々な模様をつくっていることが良く分かります。

更に近づく。

中は決して広くはないのですが、ドームの下に墓石が鎮座しています。 中国語で話していたグループのガイドの解説によると墓石はもともと3つあったものの、一部は持ち去られた?撤去された?そう。 ちなみにこれは比較的人が少ないタイミングで撮った写真で、団体さんが来るとそこそこ混雑しました。

中心から真上を見上げると、正方形の部屋の上にドームが乗っている構造が良く分かります。

ちょっとイスラーム建築のオタクの早口 : 組積造の場合、四角い部屋には丸いドームを直接乗せることができません(ドームの底の円弧を支える壁や柱がないので。)。この問題に対して、この廟でも使われているスクィンチ・アーチと呼ばれる手法では、四角い部屋の角をまたぐアーチをかけて円により近い多角形を作り、その上にドームを乗せています。 この廟だと、四角い部屋→8個のアーチで支えられた八角形→十六角形→ドームと移行している様子が分かります。煉瓦がむき出しで、移行部の構造が分かりやすくて嬉しいです。

八角形の頂点には柱も置かれていて、それらが上の十六角形のはみ出た部分を支えているのが見て取れます。 この柱の存在は事前に本の写真で見たときは気が付かなかったので、発見があって嬉しい。

ちょうどトルコからと思しき団体も来ていて、ガイドの方の話の中でsekiz(8)やon altı(16)などのトルコ語の単語が聞こえたので、たぶんこのへんの移行部のことを解説してたのだと思います。(トルコ旅行のときに勉強したトルコ語、まだ完全に忘れてなくて嬉しい!)

そのガイドさんの話の続きを聞いていると、タジキスタンという言葉と共にpara(お金)という言葉も聞こえました。 というのも、確かタジキスタンのお札の図柄にサーマーニー廟が使われているので*6。 ここウズベキスタンの建物が隣国タジキスタンのお札に使われているわけですが、これは上述したようにサーマーン朝がペルシア系の王朝であったり、その後もブハラではペルシア語が使われていたりする話と関連しています。近代については前日の旅行記でアイニーやフィトラトについて触れたあたりで少し書いたのでそちらも参照。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

四隅のアーチは装飾豊か。 ここで使われている曲面の分割が発展してイスラーム建築の特色の1つであるムカルナス(鍾乳石飾り)になると読んだ*7のですが、これだけではよくわからない気がします。

上の写真と見比べると分かるのですが、中央部分の模様が四角か丸かで微妙に違いますね*8。 ということで完全に4回回転対称ではないようで、このことに気づいてよーく観察してみると、上部の透かし窓も入口奥だけ形が異なるようです(上の、天井を見上げた写真参照。)。

存分に観察したので、再び外から。 廟のそばには貯水池跡らしきものもあったのですが、枯れていました。 あと、外からドームを眺めると、ドーム外側はレンガの平たい面が表に出ている(内部ではレンガの側面(?)が表に出ていた)ことが分かり、レンガの向きが外側と内側とで異なることが分かります。 たぶん、外側のものは見た目のために平たい面を表に出してるとかかな。

たっぷり1時間くらいじっくり観察して同行者にはやや呆れられたものの、イスラーム建築の本で何度も見た建築をこの目で見ることができて感動ものでした。

お手洗いを探していたら小さな遊園地?に遭遇。

何やら見覚えがあるようなないようなキャラが。。。

チャシマ・アイヨブ

気を取り直して(?)来た道を戻り、お次は公園の東側のチャシマ・アイヨブに。 アイヨブは旧約聖書に登場する預言者ヨブのこと、チャシマは泉の意味で、「チャシマ・アイヨブ」は「ヨブの泉」ということでしょうか。 ふと、トルコ語でも「チェシメ」という単語が泉を指す(テュルク系の言葉はやっぱり似ている)ことと、イスタンブールで見かけた泉亭のことを思い出しました。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

閑話休題。伝承によれば試練を耐え抜いたヨブの足元から泉が湧き、その水は病を癒したのだとか。それにあやかるものなのか、ヨブにちなんだ名前を持つ泉はシリア、パレスチナ、エジプト、カザフスタン、そしてここウズベキスタンと各地にあるようです*9

現地の銘板にChashma Ayub Maqbarasiとあり(maqbaraは霊廟の意味。)、実際、建物後方にテュルク系あるあるの墓塔らしきもの(ここだと円柱の上に円錐を乗せたような塔)が見えます。 墓塔の他の例は、たとえば去年訪れたトルコのカイセリの旅行記参照。(「墓塔いろいろ」の節。) amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

解説パネルによると、この建物は増築を重ねてきたようで、12世紀のカラ・ハン朝時代のもの、ティムール時代のもの、そして16世紀のシャイバーニー朝時代のものが分かるようです。 旅行記を書くにあたって解説パネルを読んで気づいたのですが、内部にはティムール時代に建てられたことを示す往時の碑文があるそうなのですが、見逃した。。。

泉は現役のようです。

天井を見上げたところ。 白漆喰のシンプルな内装ですが、陰影によってアーチネット(?)が強調されている様子が好き。

別の銘板には"The Museum of the History of Bukhara Water Supply"とあり、泉つながりということか内部は水についての展示がありました。

かつてブハラにあった数々の貯水池を示した地図。 既に実物を何度か見ていますが、なかなかの数。 尋ね歩いてみたい気もしますが、おそらくこれ全部は現存していない気もします*10

一番感動したのは昔の写真で、革袋や壺などで水を運ぶ様子や、ハウズから革袋に水を詰めている?と思しき様子を撮ったもの。 上の写真の上の方には革袋の実物もあります。

ハンマームについても。 観光していてマドラサはそこそこ見かけた(観光用に開放しているものも、そうでないものも)記憶があるのですが、ハンマームはあまり見ていない気がします。 私の観察が足りなかっただけか、たまたま通ったところになかっただけか、はたまた現存するものが実際に少ないのか。。。 イスラーム圏には何回か行っているのですが、実はハンマームは未経験でちょっと気になります。

sardobaと呼ばれるタイプの地下貯水池の模型。 地下深く(10~15m)に作られ、覆いもあることから、夏でも冷たいままだったとか*11

灌漑水車の模型。 ヒヴァでは動物を動力に用いたものを見たのですが、こちらは水力を動力源にしているタイプ。 たまたま見かけたサンプルがこうなだけなのか、それとも地域差があるのか気になります。(たとえばホラズム地方では水路の水量が少なくて水車を回すほどではないから、とか???)

他にも運河やアラル海の話もありました。(アラル海の解説は確か英語解説なし。)

前近代の水利用とその技術の歴史にはかなり興味があるので、「かつての貯水池や水路をたどり、ブハラの水利用の歴史を偲ぶ」みたいな趣旨のウォーキングツアーがあったらぜひ参加してみたいなと思ってしまいました。

チャシマ・アイヨブの正面に面して建っていた変わった形の建物。 このときは気に留めなかず中にも入らなかったのですが、後で気づいたら"Imam Al-Bukhari Memorical Museum"というAl-Bukhari(たぶん、9世紀にハディースの編纂に尽力したBukhariのこと)についての博物館のようで、行っておけばよかったなとちょっと後悔しました。 こちらはまた次の機会に。

ボラハウズモスク

チャシマ・アイヨブから少し歩いて、ボラハウズモスクに。 さきほど水についての展示を見た後だからか、貯水池を見て「今は噴水と共に観光客の目を楽しませる貯水池も、かつては地域の人々の生活を支えていたんだろうなー」としみじみ思ったりしました。

反対側には、ブハラ・タワー。 元は給水塔だったと聞いた気がする(要出典)ので、水と関係するものが並んでいることになるかも。

ちなみにハウズ周りの街路樹には桑の実もあり、街路樹の実を摘んで食べてる人もいました。(たぶん観光客。) 桑の実が好きなので真似して食べてみたかったのですが、「街路樹だと殺虫剤とかもあるかもなー」と思って自制しました。

ミナレット。と言ってもかなり小さくかわいらしいものでした。 こちらは銘板によると1917年建造とのこと。 ここからアザーンを流しても別に遠くまで届かないし、飾りとしても背が低いので、何目的で建てたのか不思議なミナレットです。

開放的な造りの正面。 このテラス状の作り、前日に訪れたアルク城のモスクや、ヒヴァの宮殿などでも見かけました。 ちなみに銘板によると、ここの複合施設は17世紀~20世紀の建造とのことで、新しめのようです(モスクそのものの建造年は分かりません。)。

天井装飾が綺麗。

モスクなので、内部に入るにあたっては服装に注意。 昨日のカラーン・モスクもですが、短パンの男性が腰巻きを巻かされてるケースをちらほら見かけました。 逆に女性は髪が短かければスカーフを巻かずとも帽子で十分なようでした。

モスク内部はドームに覆われた華やかな空間が広がります。 ただ、絵柄は漆喰の上に描かれてるだけのようです。

なお、観光客は手前の部分にしか入れません。

ボラハウズモスクを横から眺めたところ(たぶん)。 正面にテラス、奥にドームという構造が良く分かります。

ここからラビハウズのあたりに歩いて戻る途中に見かけた光景。 一瞬レンガ造りの壁かと思ったのですが、よく見たらシートでした。

こちらを見るとよくわかります。

昼食

ラビハウズのあたりで昼食。

目についたお店にふらっと入ったのですが、ちょっとおしゃれで高そうな内装。

頼んだのはラグマン。 ウズベキスタンにしては量が少なめだったのですが、日本基準だとちょうど良かったです。 あと、炭水化物ほどほど、野菜多めなのでそれも嬉しい。

同行者のプロフと、あとロシア式?のじゃがいものサラダ。

午後

マゴキアッタリモスク。

銘板には12~16世紀とあり、おそらくブハラの現存するモスクの中でも古い方。

現在はモスクとしては使われておらず、"CARPET MUSEUM"という看板の通り絨毯などが展示されていました。 ちなみに中は埃っぽかったです。

絨毯は19から20世紀のものが多めだった気がします。

絨毯や織物の美的な側面はよくわからないのですが、一番興味を惹かれたのはこちら。 左上の2つは服を収納する"to'rva"、下2つは食器を収納する"chuval"だそう*12。 食器棚とかの家具じゃなくて織物の袋を使うんだ、というところに興味が出ました。 木材が貴重だからかな、と一瞬思ったのですが、単純に遊牧生活のために持ち運びできるものが好まれたとかかもしれません。

ここまで見たところで、同行者がお疲れ(というか体調不良)だったので、同行者をホテルにおいて、続きは1人で観光します。

アブドゥル・ハーン・ティム

既に朝の散歩などで何度か通りがかっていたこちらの建物。

銘板によると16世紀の建物とのことなので、シャイバーニー朝の時代のもののはず。 wikipedia(https://en.wikipedia.org/wiki/Khanate_of_Bukhara)を見た限りでは該当しそうなAbdullah Khanは1世と2世がいて、どちらかは分からず。。。

ティム(またはティーム)と呼ばれる一種の商業施設だそうです*13

中は現在は絨毯のお店のようで、絨毯がいたるところに並べられていました。

天井から光が差し込んでいるのは、こちらの窓で採光しているから。

建物中心には広々とした空間が広がり、お茶をしながらバックギャモン(?)に興じるおじさまの姿も見えました。

上を見上げると分かるように、中心のホールは八角形。 中心部にたどり着く前に周りの部屋を巡ったときに間取りが面白い(部屋が長方形を基本にした形に並んでいない)なと思ったのですが、八角形ということに気づいて納得。

ドームを支える美しいアーチネットが印象的です。 イスラーム建築に興味があるので、こういうのが大好き。(あと力学的機能が形に反映されてそうなところも好き。)

ちなみにここで、マレーシアから来たというおばさまに写真を撮るのを頼まれました。 私は旅行中に自分の写真は撮らないのだけど、撮る人と撮らない人の違いってなんだろう*14

外に出て、北側から先ほどの建物を眺めたところ。中央の大ドームの周りに多数の小さいドームがある様子や、さきほど中から見た明り取りの構造が良く分かります。

お次は、すぐ隣に建つ2つのマドラサに向かいます。

アブドゥルアジズ・ハーン・マドラサ

向かいあって建つ2つのマドラサのうち、まずは南側に建つアブドゥルアジズ・ハーン・マドラサに。 銘板によると1652年の建築とのこと。 名前と年代からして、ジャーン朝のAbd al-Aziz Khan(wikipediahttps://en.wikipedia.org/wiki/Abd_al-Aziz_Khan_(Bukhara) )の時代の建築のようです。

中は基本的には土産物屋でした。 一室だけ?展示スペースもあったようなのですが、閉まっていました(このとき既に18時だったので、おそらく閉館時間を過ぎてたのだと思います。)

正面のタイルの剝がれ具合からも察せられますが、建物はかなり傷んでいるようです。

ボロボロのままだともったいないので修復したほうが良いのでは? vs. いやでもサマルカンドみたいにピッカピカに修復するのもなんだか違う気がする。。。

ウルグベク・マドラサ

次は北側のウルグベク・マドラサ。 銘板によると1417年建築。ここまで見てきた建物の中ではけっこう古い方ですね。 ブハラ・ハン国ではなくティムール朝時代の建築で、ウルグ・ベクが各地に建てたマドラサの1つです(要出典)。

さきほどのマドラサに比べると、イーワーンが縦にシュッとしている印象を受けます。

上の写真からも分かる通り一部が工事中で、レンガが積まれたりしていました。

こちらも中はお土産屋がメイン。 "History museum of Bukhara calligraphy art"という案内も出ていたのですが、このときは閉まっていました。

散策いろいろ

時刻は18時半頃ですが、まだ明るく夕食にも時間があったため、引き続きぶらぶらと散策します。

お土産屋でレーニン肖像画を見かけたので思わず撮ってしまいました。中央アジアだと評価が芳しくないかもと思ったのですが、少なくともタブーではなさそう?

カラーン・モスクの前の広場、再び。 ここは建物の豪壮さも、広場の開放感も素晴らしいので、ブハラ滞在中何度も訪れました。

ヒヴァのときも思ったのですが、煉瓦造りの建物に挟まれた通りの先に古くから建つミナレットが見える様はたまらん。

銘板によると、1721年建築のNughayaキャラバンサライ(隊商宿)。 中を少し覗いてみたところ、陶磁器のお店のようです。

こちらは19世紀のSayfiddinキャラバンサライ。 中はお土産屋兼カフェのようで、楽器の生演奏も行われていました。

運河からバケツで水を汲んでいる方を発見。 何に使うのかなと思ったら、街路樹に水をやっていました。

ナーディル・ディヴァンベギ・マドラサの前にある、ナスレッディン・ホジャの像*15。 ただ、現地ではこれがナスレッディン・ホジャの像であることは特に書かれていなかったと思います。 ちなみにナスレッディン・ホジャとは、中央ユーラシア各地に(主にテュルク民族で)伝わる民話の主人公*16。 原典を読んだことはないのですが、頓智話も多いようで*17勝手に「中央ユーラシアの一休さん」という印象を持っています。 最近になってUNESCOの無形文化遺産にも登録されたそう*18

広場に並べられたキックボード?と子供向けのミニカー? レンタルしているっぽくて、子供がミニカーに乗って走り回ったりしていました。 子供が操縦するの危ないのでは?と思ったら、大人がコントローラーらしきものを持っていたので、親が遠隔操作しているっぽかったです。

夕食

そろそろウズベキスタン料理以外も食べようということで、夕食はこちらのイタリアン(写真はお店を出てから撮影したものなので順番が前後します。)。

明るく広々とした店内。 なんか今日は昼も夜も比較的おしゃれ店に来てるなと思いつつ着席。

ナスのサラダ。 今までウズベキスタン料理のお店で素揚げのなすをトマトや玉ねぎとともにディルなどで和えたサラダ何度か食べた(大好物になりました)が、こちらはイタリアンということで(?)別物。 素揚げではなく薄い衣がサクっと美味しい一品でした。

ラム肉のロースト。 やはりウズベキスタンは羊肉が美味しい。

クワトロ・フォルマッジ。 生地の食感とチーズの濃厚な味わいがとっても美味しかったです。 これでも一番小さいサイズなんですが、2人でぎりぎり完食できるくらいボリュームたっぷりでした。

旅行先では現地の料理を食べるのが好きなのですが、たまには品を変えてみるのも良いですね。 とっても美味しくて大満足の夕食でした。 なお、味のレベルはかなり高いですが、お値段も高いです(ウズベキスタンの他のレストランに比べると)。2人でだいたい450千So'm。

翌日に続きます。

参考文献

*1:ナーディル・ディヴァンベギ・ハナカ、ナーディル・ディヴァンベギ・マドラサ、クカルドシュ・マドラサ

*2:参考文献[1]p.97右(20世紀初頭のブハラの描写で)「町の中心にあるブハラ最大の貯水池(ハウズ), ナーディル・ディーヴァーンベギの貯水池(1620年造営)の周辺はラビハウズと呼ばれ」

*3:参考文献[1]p.356 「貯水池」の項目 : 「乾燥地帯の稀少な水資源の利用装置の一つではあるが, 限られた水量は飛来する雑物や周辺生活排水の流入に十分対応できず, 水質は悪化して伝染症の温床ともなった.」

*4:この墓碑が後からつけられたものでなければ。

*5:現地の銘板の綴り

*6:要出典

*7:要出典

*8:対角線上のものが等しいようです。

*9:現地の解説パネルをざっくり要約。ただしパネルの英語が怪しいので、信憑性は謎です。

*10:参考文献[1]p.356 「貯水池」の項目 : 「そのため上水道の普及につれて, 宗教・観光施設以外の日常生活用の貯水池は埋め立てられ, 都市部からは急速に消滅しつつある.」

*11:解説パネルより。

*12:いずれも現地の超簡潔な解説より。

*13:参考文献[1]p.97「オアシス」の項目で、ブハラについての文脈で「また, 商店街に向かって入り口を開いて建てられたドーム屋根をもつ商業施設はティームと呼ばれ, ブハラ最大のアブドゥッラー・ハンのティーム(16世紀)では絹織物が取引されていた.」

*14:偏見ですが、日本の人の方が他のところの人より撮る頻度が少ない気もします。

*15:参考文献[3]p.23

*16:参考文献[2]p.466「笑いのフォークロア」の項。

*17:参考文献[1]p.404「ナスレッディン・ホジャ物語」の項。

*18:UNESCO Intangible Cultural Heritage "Telling tradition of Nasreddin Hodja/ Molla Nesreddin/ Molla Ependi/ Apendi/ Afendi Kozhanasyr Anecdotes" https://ich.unesco.org/en/RL/telling-tradition-of-nasreddin-hodja-molla-nesreddin-molla-ependi-apendi-afendi-kozhanasyr-anecdotes-01705

2024年ウズベキスタン旅行 5日目 : ブハラ観光

2024年ウズベキスタン旅行5日目(2024-04-30)の記録です。 古くからオアシス都市として栄え、ソグド人の都市国家、サーマーン朝、ブハラ・ハン国と様々な国・王朝の中心となり、歴史を積み重ねた街です*1。 この日を含めてブハラだけで3日近く滞在するので、ゆっくり観光します。

今回の旅全体のまとめはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

朝食

前日が移動日だったので朝はまったり8時前まで寝て、朝食に向かいます。

ホテルの中庭エリア。 既にして日差しが強い。

朝食は洋風メニュー?

まずはホテル近くのラビハウズに向かいます。

ラビハウズ近辺

ナーディル・ディヴァンベギ・ハナカ

まずはハウズ(貯水池)西側のこちらの建物。 入場料は確か1人20千So'm。

広角で撮ったので大きめに見えますが、後で訪れるマドラサよりかは横方向には小規模です(中庭もなし)。 扉の横の銘板によると1619年~1620年に建てられたものだそう。ティムールよりはだいぶ後、ブハラ・ハン国の時代ですね。

着いたのは9時過ぎで上の写真の通り扉も閉まっていたのですが、写真を撮った直後くらいにスタッフの方が出勤してきて開けてくださいました。

中の解説パネルによると、こちらの建物はイスラーム神秘主義教団の修道所だったところとのこと。 修練や教学の場であるだけでなく、生活の場でもあったようです*2

内部は現在は小さな博物館として利用されています。 解説によると、展示物は、近郊のブハラオアシス(特にその中心都市のVarakhsha)からの出土物が多いようです。

水道管と壺。水道管は10~11世紀のものだそうです。 前近代の上水道技術に興味があるので、地味ながら気になります。

こちらはアナヒタ神の像。 3~4世紀と古い時代で、イスラームの誕生・到来よりも前の品です。 2年前のイラン旅行の際にビシャプール遺跡で見たアナヒタ神殿*3が印象に残っていたので、名前を見てビビビっと反応しました。 この地域もやはりペルシア文化圏なんだなーというつながりを感じられて嬉しいです。

ミフラーブの上の華やかな天井。 細かいアーチネット(?)を組み合わせた意匠は、割と新しいものな気がする...? ハナカ内部は、ここ以外は白漆喰塗でシンプルな見た目でした。

中央に置かれた模型、ブハラ旧市街を俯瞰できて、これからどこに訪れるかを整理するにかなり良かったです。 ちょうど団体客も来て、ガイドさんが「この後ここに行きますよ」みたいな説明をしていた気がします。

30分ほど滞在しました。

出て道を渡ったところでATMを見かけたんですが、銀聯が使えるのが面白いなと思いました。 中国からの観光客も多いのかも?

クカルダシュ・マドラサ

お次は道路向かいのこちらのマドラサ。 銘板によると1579年建造とのことで、さきほどのハナカより古め。 基本は無料ですが、一部に有料の展示(後述)があり。

内部はほぼ民芸品店。

品物は金属細工からスカーフ、刺繍などいろいろ。

書見台(写真右)には心動かされたのですが、「読む本、だいたいおさえておかないと閉じるタイプの本だし、出番がないのでは?」と冷静になって思いとどまれました。

刺繍のお店(上の写真とは別の)には日本語が少し話せる方もいたので、少し話しました。その人のお母さんが刺繍の先生でザイナブさん?という方で、日本語のgoogle検索で出てくるくらいには有名だそう*4。 なお、私には刺繍の良しあしは全く分からないのですが、同行者(刺繍経験者)曰く質の特に良い品とそうでない品があり、良いものはやはり高かったです(100-300USDくらい)。 ところで、この記事を書くまで、ウズベキスタンの刺繍のことを「スザニ」と雑に呼んでいたのですが、正しくは刺繍は「カシュタ」*5で、「スザニ」は大判の壁掛け(に刺繍を施したもの?)を指すようです*6

中庭。

中庭の奥の方に進むと、展示スペースもあります。 こちらは有料で、確か20千スム。

往時の学生?の小部屋の様子が再現された部分のよう。 扉枠や天井が低いところもありました。 マドラサの部屋でもここまで小さい部屋が開放されているところは珍しい気がするのでなかなか興味深い。 (ヒヴァのマドラサで博物館になっていた部屋はここまで狭いものはなかったと思います。広めの部屋は教室/教員の部屋とかで狭い部屋は学生の居室とか?) 奥の肖像に描かれているのはサドリッディン・アイニー、次に見る文学についての展示の主役の1人です。

ということで、文学についての展示。 主に19世紀末から20世紀前半のウズベキスタンの文学に貢献した人々についての展示のようです。 パネルはウズベク語のみのものが多かったので撮影だけして後でgoogle lensで読んだのですが、作品からの引用や、他の人々からの賛辞などが多く、生涯や業績の説明はあまりありませんでした。

展示の中でも扱いが大きいのは、先ほども触れたアイニーと、アブドゥラウフ・フィトラト。 2人の人生の前半を見ると、2人ともここブハラの人で、ミール・アラブ・マドラサ(この後午後に訪問します。)で学び、そしてブハラの社会変革の運動(「青年ブハラ人運動」)に参加する、という共通点の多い半生を送っていたようです*7

左下の写真は、青年ブハラ人運動が弾圧を受けた際に、アイニーが鞭打ち刑を受けたときのものとのこと。

こちらはフィトラトについての展示。

ソヴィエト連邦成立後、特に1924年の民族・共和国境界画定後は2人は異なる道を歩むようになったそう。 具体的には、アイニーはタジク/ペルシア文学の、フィトラトはチャガタイ/ウズベク文学の創始/確立に努めたとのこと*8。 もともと中央アジアはペルシア語話者とテュルク系言語話者が混在し、ここブハラの街では長らくペルシア語が公用語の地位を保持していた*9ことを考えると、民族・共和国境界画定によって引かれた境界(タジクとウズベクという2つの共和国と、タジク人とウズベク人という2つの民族)と、ブハラの街がウズベク人の国に属すとされたことには、やや人為的なものも感じます*10。 なお、アイニーはソヴィエト体制下で高い評価を受けて生涯を全うしたものの、フィトラトは汎テュルク主義的として批判され、スターリン体制下の粛清で処刑されたとのこと*11で、その生涯の幕の閉じ方も大きく分かれることになりました。

紹介された文学者の著作以外にも、関連する本も何冊か展示されていたのですが、一番驚いたのはこちら。 なんと日本語の本が展示されています。 「革命の中央アジア」という本。 近代史には食指が動かない方なのですが、ここで出会ったのも何かの縁ということで、少し読んでみたくなりました。

展示と民芸品を眺めるのとあわせて40分ほどいました。

ナーディル・ディヴァンベギ・マドラサ

お次はすぐ隣のナーディルディヴァンベギマドラサ。 最初に訪れたハナカと、ラビハウズを挟んで向かいに位置しています。 銘板によると1623年の建造。 こちらは無料でしたが、ショー(後述)の最中だと入れないかも。

ラビハウズ近辺の建物の中でも一番華やかなタイル装飾が印象的です。 鳳凰や朱雀のような鳥が描かれており、イスラームの宗教建築にしては珍しい気がします。

近くで見るとよくわかるのですが、絵付けタイルではなくモザイクタイルです。 これはなかなか手間暇かかりそう。

中庭は民族ダンスのショー会場のよう(マドラサの前に"folklore show song and dance"と書かれた看板が出ていました。)。 中庭の周りの小部屋は工芸品売り場になっていました。

30分ほど滞在。

チョル・ミノル

東側に少し歩きます。

住宅街を抜けると、

お目当ての4本の塔が現れます。 これだけぽつんと立っていて不思議なのですが、後でアルク城で見た写真のタイトルにchor-minor madrassaとあったので、元はマドラサだったようです。 右側にも少し建物が繋がっていますし、

反対側(確か)にも、かつての建物の痕跡らしきものも見えます。

中にも入れて、1階はお土産売り場(写真略)、

2階はこちらのがらんどうの空間

屋上はドームの周りを周れます。 ちなみに塔の上にあるのはコウノトリの人形で、昔ここにコウノトリが巣を作っていたことを偲ぶものだそうです*12

ところでこちらの塔、チョル・ミノルのチョルはたぶん4の意味なんですが、toʻrt(ウズベク語)とかdört(トルコ語)みたいなテュルク系の言葉じゃなくて、ペルシア語っぽい言葉なあたり、ペルシア語の当地での影響力を感じます(たぶん私が気づいていないだけど、他の観光地とか地名とかにもペルシア語由来のものがたくさんありそう。)。

こちらは小さめで展示などもないので、20分ほどで撤収。

昼食

チョルミナルから戻る途中に見かけたレストランでお昼にします。

店内写真を取り忘れたのですが、Jam restaurantというお店。 英語をアラビア文字風のデザインにしているのが面白いです。 12時前に行ったら他にほとんどお客さんがいなかったのですが、もしかして昼食にはまだ時間が早かったのか...?

マスタヴァ、サラダ、マンティ、ソムサを注文。 特にマスタヴァが美味しかったです。 こういう煮込み・スープ系が好き*13

こちら、たぶんソムサを注文して出てきもの。 ヒヴァや日本のウズベキスタン料理レストランで食べたもの(たぶんタンドールで焼くタイプのサモサ)とはまた別物っぽい?

移動・散策

今度は西に移動。 暑いんですが、1~2kmと近いし、タクシー利用で点と点だけの観光をするのももったいない気がする(なるべく歩いて街を体感したい)ので、歩いていきます。

タキ・テルパクフルシャン。

バザールやキャラバンサライの建物っぽいのですが、延々と続いているわけではなく、交差点のあたりを覆うだけです。 元からこうだったのか、それとも当時はもっと大きかったものの一部だけが残ったのか気になります。

道中で見かけたマドラサ。 今は特に利用されていないのか、扉は閉まっていました。 後でYandex Mapsで見てみた限りでは、たぶんDomulo Tursunjon Madrassahかと思います。

学校。 maktabっていう言葉はたぶんアラビア語由来かな。

ここまででたびたび見かけたのですが、街路樹として桑らしきものが植えられていました。

実が多数なっていて、落ちた実をうっかり踏むとべとつくので要注意。 熟すと黒くなる印象があったのですが、こちらのは黒くなるものも、熟しても白いままのものもありました。 桑の実は食べたことがあってけっこう好きなんですが、街路樹のを食べる勇気がなかったので、見送りました。。。*14

アルク城すぐそばのブハラ・タワー。 確かかつての給水塔を利用した展望タワーとどこかで読んだ気がするのですが、要出典。 そんなに高さもないから登らなくても良いかーとパスしたのですが、今思うとアルク城を俯瞰できて良かったかもしれないです。

アルク

ということで、アルク城に着。 こちらはブハラ・アミール国の支配者の住まいとして1920まで現役で使われていた城塞です*15

外では何かステージ設営中のようでした。

門をくぐったところでチケットを購入します。 クレジットカードが使えました。

モスク

城に入ってすぐのカーブした坂を上ると、まず目に入ってくるのがこちらの金曜モスク(Jome' masjidi). 18世紀初頭に建てられたものだそうです*16。 テラス状の半屋外空間と、木の柱が気の平屋根を支える形式は、先日のヒヴァの宮殿や、2年前に訪れたイランはイスファハーンの宮殿などでも見かけました。 ペルシア文化圏のモスクというと大ドームを戴くものという印象が強い(イスファハーンの王の広場のモスクなど)のですが、こちらは全く違う装いで、違いが気になります*17

モスクの内部。

天井はカラフルに装飾されています。

カリグラフィーや細密画が展示されているのですが、内部は暗めなのに対し、外の光が入ってくるので、反射でなかなか見にくい/写真に撮りづらいかも。 上のは古さを感じさせるクーフィー体で書かれていて、解説には「8th century」と書かれていたのですが、本当にそんなに古いものだとしたら陽光が入る場所に置いておいて良いのか心配になります。。。

ミフラーブ。 装飾はタイルでもなく漆喰の表面に描かれたもののようで、たぶん割と最近のもの。

考古学公園

むき出しの土が広がりところどころに廃墟が点在するエリアが開けます(上の写真はしばらく進んでから、さきほどのアルクを振り返ったところ。)。 なんで城がこんなことに?と思ったのですが、アルク城の半分以上は、ロシア革命時の内戦により焼け落ちたそう(要出典)で、それがこの部分のよう。 案内板には"archaeological park"と書かれていました。

たしかモスク*18

ハンマーム。

また、端の方まで行くと、カラーン・モスクなどのあるあたりを見渡すことができます。 というかそれが推しのようで、親切にも考古学公園入口のところに"photo area"と書かれた案内があった気がします。

玉座の間

玉座の間(解説パネルだと"throne hall")と書いてしまったのですが、中庭の周囲を回廊が囲むだけの開放的な空間です。 降水量が少ないからこそ屋根なしOKなんだろうなという気がします(でも冬は寒い気がする...?)。 ここでブハラの君主の戴冠式が行われたとのこと。

玉座の上の部分の天井は美しく装飾が施されています。

もうちょい近くで。

玉座の前には仕切りベルトっぽいものが置かれていて玉座には当然座れないかと思いきや、座って写真を撮ってる人もいたり、写真用の小道具も用意されていたり、係の人らしき人もいました。もしかしてお金払ったら記念写真を撮れるとか? (いずれにせよ、座れるということは玉座は複製品っぽいですね。)

展示いろいろ

屋内には、いくつか展示のあるエリアもありました。

19世紀後半~20世紀初頭のイスラーム神秘主義修道僧*19の装束や装備一式。

いくつかの古写真を見た限りでは、人物はターバンを巻いていることが多く、ヒヴァのもふもふした毛皮帽子(cho'girma)とは違うようです。 やっぱりホラズム地方とは別の文化圏なのかもしれません(と言っても、単に時代や身分や季節の違いだけかもしれないですが。)。

個々の品の簡単な説明(名称や時代など)はあり、英語も併記されていて助かりました。 ただ、それらの関連や位置づけなどの説明はほぼなく、若干「ものを並べただけ」のやっつけ感を覚えてしまいました。。。

アルク城には合計で2時間近く滞在しました。

先ほど考古学公園から見たカラーン・モスクの近辺に向かいます。 カラーン・ミナレットも見えますが、カラーン・モスクの青いドームが目立ちます。 円筒状のドラムの上にドームが乗っているところに中央アジアらしさ(というかティムール朝建築の流れ?)を感じます*20

カラーンモスク近辺

こちらは地図を見ると分かりやすいのですが、広場を挟んでミール・アラブ・マドラサとカラーン・モスク(とカラーン・ミナレット)が建ち、ブハラの中ではラビ・ハウズ近辺と並ぶ観光地かと思います(建物の壮大さだとこちらのほうが上かも。)。

ミル・アラブ・マドラサ(Mir Arab Madrasasi)

広場の東側に建つのは、こちらミル・アラブ・マドラサ。 タイルで美しく装飾された正面ファサードと、2つのドームが目を惹きます*21。 1536年の建築*22マドラサで、上のクカルダシュ・マドラサの箇所でも触れたようにフィトラトとアイニーが学んだ*23場でもあります。

ソ連時代には一時閉鎖されるも1945年にマドラサとして公式に再開が許可され*24、今も現役のマドラサとして機能しているようです。そう、なんと現役です! (大事なことなので2回書いた。)ということで(?)、建物の中には入り口近くのほんの一部にしか入れません。 なお、入るときは服装に注意。

入口すぐ近くの透かし越しに中庭を見ることができます。

マドラサの方と思しきおじさまに"Ichkariga kirsam bo'ladimi?"(「中に入っても良いですか」)と訊いたら、ウズベク語で丁寧に答えてくださったのですが、残念ながら私の語彙力ではほとんど聞き取れず、"dars", "tarix", "Ingliz"(解説パネルを指さしながら)などしか聞きとれず。。。おそらく「中は授業の場で入れないが、歴史の解説が英語であるからそれを読んでみてください」みたいなご説明だったと推察します。。。

解説パネルによると、このマドラサを建てたのはMir Arab(マドラサの名前の由来にもなっている)とUbaidullohon(シャイバーニー朝君主)。 Mir Arab(本名はSayyid Abdullah Yamaniy)は出身地のイエメンからサマルカンドに渡り、ナクシュバンディー教団の重鎮(?)となり、Ubaidullohonの師を務めたそうです*25

教学の様子を伝えるパネルもってなかなか興味深かったです。 本を持って行き来する少年たちの姿と併せて、ここが現役のマドラサであることを感じさせます。 ちなみに解説パネルによると、課程は4年、在籍する生徒は約120人、教員は27人とのこと。 生徒は単純計算すると1学年あたり30人なので、学校と捉えると小規模かもしれません。 運営とか卒業生の進路とかどうなってるのかなーと思ったら解説パネルに少し言及があり、どうも公営っぽく*26、卒業後は基本的にはウズベキスタン各地のモスクに配属?されるようです*27

カラーン・ミナレット

派手さはないですが、広場でひときわ目立つのがこの塔。 カラハン朝時代、1127年に建造されたカラーン・ミナレットです。 カラーン・モスクはチンギス・ハーンの侵攻時に焼失しましたが、こちらのミナレットは無事に残され、その後修復を経て現在まで残っているとのこと*28

900年近くもの時を経て今も立ち続けているのは驚きです。 ところで日本の木造建築だと修復時には解体して修理したりしますが、こういった組積造の建物の修復はどうやって行うのか気になります。

一見地味ですが、煉瓦の積み方を変えることで、様々な模様が表されています。

ミナレットの入り口(写真右側)は高いところにあり、モスク(写真左側)から橋?を渡って入ることになるようです。(もちろん観光客は入れないはず。)

ちなみに物騒な話ですが、罪人を塔から投げ落とすという形での死刑執行の場でもあったそう*29

カラーン・モスク

最後に、広場の西側に建つカラーン・モスク。 御覧の通り見事に逆光になってしまったので、こちらは午前に見たほうが良かったかもしれません。 元々はカラーン・ミナレットより前の1121年の建造ですが、そちらの伽藍はチンギス・ハーンの侵攻時に焼失し、現在の建物は1514年の建築*30。こちらもミル・アラブ・マドラサと同じく、シャイバーニー朝の時代の建築です。

中に入ると、中庭が広がります。(これは入ってすぐに入り口側を振り返って撮った写真。) 中庭全体を収めた写真がないので確証がないのですが、確か4つのイーワーンが中庭を囲む典型的なペルシア様式のモスクだったと思います。

ちなみにこのときは入って左側は工事中。 一方右側はあんまり観光客向けじゃなくて現在も使われている礼拝室があるようで、こんな注意書きもありました。 women onlyの意味だと思います*31

午後なので猛烈に逆光ですが、西側のイーワーン。 ウズベキスタンから見るとメッカの方角は西なのでこちらが正面というのは納得ですね。 イーワーンに隠れていますが、奥にドームがあります。 イーワーン手前の小さな建物は、礼拝前に身を清める水場だと思うのですが、周りにロープが渡されていたので、今は使えないようです。

イーワーンから中に入ると、白の漆喰塗りで意外と簡素な空間が広がります。

なんなら少し横に逸れると、漆喰もないところもあります。 これを見ると、ほぼ全面タイル貼りだったイスファハーンのイマーム・モスクは恐ろしく贅沢なものだったんだろうなという気がしてきました。

カラーン・モスク近辺のこの3か所で、だいたい1時間ほど滞在。

夕食

夕飯は、近くのこちらのレストランで。

注文したのは確か、トマトのサラダ、ドルマシャシリクドルマは、肉より米が多いのかな~と思ってたら意外と肉メインでがっつりでした。

同行者の希望で、飲み物はこちらのタルフーン。 スターアニスっぽい香りがして面白く、個人的にはけっこう好きです。 タラゴンを使っているらしい*32のですが、一方で中に入ってる葉っぱの見た目はあまりタラゴンらしくない気がする...?

シャシリクがなかなか来ないなと思ったら、存在を忘れられていたのか、冷めたシャシリクが届いて残念。。。 これだと不完全燃焼感があるので、もうシャシリクを追加でもう一本注文。 「次は焼きたての熱いのでお願い!」(意訳)と一言添えたおかげか、今度はきちんと熱いものが出てきました。 やっぱりシャシリクは焼きたてに限る。

散策

夕食後、ホテルに向かっていたら、まさかの日本語の看板を見つけました。 お店の人は日本語で接客してくださいました。 ウズベク語で少し話してみたらこの旅で2回目の"O'zbekistonda ishlaysizmi?"(「ウズベキスタンで働いてますか?」)を言っていただけたので、お世辞だろうけど嬉しい(単純)。

いったんホテルに戻り、日が暮れてからもう一度繰り出すと、ライトアップされたカラーン・モスクなどを見ることができました。

ただ、一部はややカラフルすぎる気もする...?

ホテルのあるラビハウズ近辺に戻ってくると、御覧の通り大いに賑わっていました。 なお時刻は既に現地時間21時半前。 やはり日差しが強くて暑い地域では、日が暮れてからが人々が外に繰り出す時間帯なのかもしれません。

翌日に続きます。

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

*1:参考文献参考文献[1]p.360「ブハラ」の項, 参考文献[2]p.453「ブハラ」の項。

*2:台所があったことは解説パネルに書かれていました。

*3:でも写真を見返したら解説パネルにはso-called "Anahita Temple"と書かれていたので、確証があるわけではなさそう。

*4:なんですが、ざっと検索しても見つからず。。。

*5:ただしザルドゥズと呼ばれる金糸刺繍やミシン刺繍は除く

*6:参考文献[1]p.558「中央ユーラシアの刺繍」の項。

*7:参考文献[1]p.202 「フィトラトとアイニー」の項。

*8:参考文献[1]p.202 「フィトラトとアイニー」の項。

*9:参考文献[2]p.465「ペルシア語文学」の項「中央アジアでは, ティムール朝期以降, しだいにチャガタイ語が文章語として使用されるようになる. しかし, その普及の度合いは地域によって差があり, テュルク系住民の間でも依然としてペルシア語が文章語としての地位を保っていた地域は多い. 例えば, いわゆるウズベク3ハン国の支配が確立した18~19世紀には, 代々の君主の事績を記した歴史書は, ヒヴァ・ハン国ではチャガタイ語で, ブハラ・アミール国ではペルシア語で, コーカンド・ハン国ではペルシア語とチャガタイ語の両語で書かれていた. とくに, ペルシア語話者住民の多かったブハラ・アミール国では, 1920年のアミール国崩壊までペルシア語が公用語であった.」

*10:このへんの詳細は参考文献[3]p.90~「ソ連体制下のウズベキスタンの成立」など参照。

*11:参考文献[1]p.202 「フィトラトとアイニー」の項。

*12:参考文献[4]p.23

*13:おととしイランを旅した時は、ケバブよりもホレシュテを食べる頻度が高かった。

*14:と言いつつ、翌々日に別の場所で食べることになるのですが、その話はまたあとで。

*15:現地解説パネル "Before 1920, the fortress used to be a residence of the Bukhara rulers."

*16:現地解説パネルより。

*17:時代が異なるだけか、地域に依るものなのか、はたまたこれは城塞の中で小規模だから、大ドーム不要なのか、とか。

*18:Xonaqoh masjidiと書かれていました。

*19:"dervish"

*20:ペルシアの方だと、膨らんだ玉ねぎ型に近いドームの印象があります。(e.g.)イスファハーンのイマーム・モスク。とはいえ、エジプトのマムルーク朝にもこの円筒ドラム+ドームの形のものがあった気もします。要出典。

*21:内部の解説パネルによると、右のドームの下はモスクで、左のドームの下はMir Arabと親族の墓となっているそうです。

*22:現地の銘板に"1530-1536yillar"と記載。

*23:参考文献[1]p.202「フィトラトとアイニー」の項

*24:参考文献[1]p.361「ブハラ」

*25:解説パネルに英語が一部ぐちゃぐちゃで意味が通じないので、https://uz.wikipedia.org/wiki/Mir_Arabgoogle翻訳して参照しています。ということで信憑性にはご注意ください。

*26:"The madrasah is administered by the Muslim Office of Uzbekistan"

*27:"After graduation, the graduates are distributed as an imam-khatib in various cathedral mosque of the republic."

*28:参考文献[2]p.147「カラーン・ミナレット」の項目より。

*29:参考文献[2]p.147「カラーン・ミナレット」の項目より。

*30:現地の銘板より。

*31:ヒヴァで"Hodimlar uchun/Staff only"の英語併記の注意書きを見たので。

*32:参考文献[4]p.56

2024年ウズベキスタン旅行 4日目 : ヒヴァからブハラへ

2024年ウズベキスタン旅行4日目(2024-04-29)の記録です。 この日はヒヴァからブハラへの移動日です。寝台列車(と言いつつ昼行便ですが)に乗り、だいたい400km*1を約7時間かけてまったり走ります。

今回の旅全体のまとめはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

朝の散策

昨日に引き続き、少し早めに起きて朝食前に散策します。 昨日の朝やこれまでの観光は中央の通り近辺のエリアを歩くことが多かったので、今朝は西門以外の門や、城壁沿いなど、これまであまり歩いてないところをメインに歩きます。

まずはホテル近くの南門(これは城壁外から見たところ。)。

城壁外を城壁沿いに少し歩くと、墓のようなものがあって不思議に思いました。

城壁内に戻って西門に向けて時計回りに歩いていると、こちらにも墓らしきものがあります。

もうしばらく歩くと、城壁にくっついたような建物と、この墓の謎を解く鍵になるかもしれない(?)石碑もあったのですが、残念ながら読めず。有識者の方いらっしゃいましたらぜひ書かれた内容/ご意見を拝聴したいです。

城壁内側、南西の角の墓。ここまで集まると壮観ですし、やっぱり城壁に墓を作るのは不思議に思います。 ちなみに、このあと北側の城壁までぐるっと回ったのですが、城壁に墓があったのは南側(と、この南西の角あたり)だけだったと思います。

なお、後で宿の人に聞いたところ、これらが墓というのは正しいようです。 曰く、イチャン・カラで死んだ人はイチャン・カラ内部に葬る(逆にハーンであっても城外で死んだら城外に葬る)のが普通で、そのための場所、とのこと。ただ、なんで城壁に作ったのかは聞きそびれました(単純に土地が足りなかったのかな。。。)。 また、「城壁外面の墓は偽物で、あれは墓への畏敬の念を利用して、城壁を敵兵が登らないようにするためのもの」という趣旨の説明を聞きました。 本当だとしたら面白い一方、google mapの空撮写真を見る限りでは城壁外面に墓らしきものがあるのは南側に限られ、東、北、西の城壁には見当たらないので、ちょっと引っかかる気がします。

西門を超えて、クフナ・アルクのあたり。 このへんのかまどとかタンドールとか、実際に使っているのか気になります(近くにレストランがあるので、もしかしてそれ用とか?)。

北門のあたり。

北門側は、西門あたりに比べて生活感がある気がします。

通学(たぶん)する子供たちも見かけました。

散策していると、共通チケット対象ではないものの世界遺産に含まれている建物*2にもいくつか出くわし、「既に1日半歩き回った後なのにまだまだ見尽くせていないんだなー」ということに今更気が付きました。 ということでまた行きたい。

銘板によると、Amir To'ra Madrasasi(1870)。

マドラサ手前には半地下の不思議なスペースが広がっていました。 何に使うんだろう。

こちらはモスク。Hasanmurod Qushbegi Majidi (19世紀)。

Arabmuhammadxon Madrasasi (1616)。

こちらは中央通り近くのものですが、ガラスに覆われた不思議なものがありました。

中を覗くとこんな感じ。 ドーム状で、パイプもつながってるようなので、水道関連の施設とかでしょうか?(ぱっと思いつくのは貯水装置とか?)

こちらは東門すぐそばのハンマーム(銘板曰く、Anushaxon Hammomi 1657)。

散策後、宿に戻って朝食です。

朝食後、イチャン・カラ内のお店で昼食のナンを購入しました。 名残惜しいけど、いざ次の街に出発です!

ブハラへの移動

ヒヴァ駅まで

ヒヴァ駅まではタクシーかなーと思っていたのですが、ホテルの方からは「タクシーだと遠回りだけど、歩くと近いしいろいろと見れるから歩きの方がおすすめ」(意訳)と言われたので、歩きで行くことにしました。 ということで、駅のある東門方面に向かいます。

やたらとドームがつらなるエリア。 方角的には、さきほど朝の散策で見たハンマームな気がします。

東門から城壁の外に出ます。

外から門を振り返ったところ。 門の外にもこのようなミナレットを備えた建物が残ります。

こちらは門の外のマドラサ。銘板によると1905年建造のようです。

だいぶ駅まで近づいてきたところ。 ヒヴァ駅までは、広々とした道が広がります(たぶん自動車は通行禁止)。

ヒヴァ駅着! 東門からここまでだいたい1~1.5km程度で、時間にして(写真を撮りながらゆっくり歩いて)20分くらいだったと思います。

駅からイチャン・カラ方面を振り返ったところ。 道の両側にはホテルなどの近代的な建物が数多く並んでいました。 さきほど言及した広々とした道と言い、もしや古い建物をだいぶ取り壊して、観光用に再開発した...?

駅構内~出発

駅に入るときには手荷物検査はありましたが、チケット確認はありませんでした。

ヒヴァ駅のロビー。

駅内部の売店。 お菓子もあった気がするのですが、写真に撮りそびれたので間違っているかも。

定刻の15~20分前に改札が始まり、いよいよ乗車。 ちなみにチケットは確認されましたが、パスポートは一瞥されただけでした。

昼ですが、寝台列車です(逆にタシュケントからヒヴァに来るときは夜行便だったはず。) ということで、寝台の下の段をボックス席のように利用します。 4人で1つのコンパートメントで、今回の乗客は私とその同行者と、相席になったベルギーから来た老夫婦でした。

ほぼ定刻の11:10に発車し、ヒヴァを後にします。 7時間の鈍行*3の旅、はじまりはじまり。

列車の旅

ヒヴァ近郊では比較的緑豊かな景色も目に入りました。 と言っても天水だけではこうはならないと思うので、おそらく灌漑による景色のはず。

朝に買ったナンを食べます。 ただ、食べ物(ピロシキシャシリク)、飲み物(水やビール)の車内も販売あったので、特に何も準備していかなくても大丈夫だったかもしれません。 他にもお土産やモバイルバッテリーなど?の販売もありました(バッテリーはレンタルかも?)。 後は食堂車もあるそうなのですが、行きそびれました。ただ、隣のコンパートメントの方からは満席で食堂車に座れなかったと聞きました。

今回は西から東に向かうのですが、コンパートメント(進行方向右側)は南寄りで、日が当たるとかなり暑かったです。 なお車内にエアコンはありません。カーテンがあったのがせめてもの救いなのですが、それでも暑い。。。

ということで、乗車時は大半を窓が開けられて風通しの良い廊下で涼んで過ごしていました。

ただし、ヒヴァから離れると当面はこんな景色の中を走るので、窓を開けると砂が入ってきます。 砂が入らないように乗務員が窓を閉めるけど、暑がった乗客がまた窓を開ける、という静かな攻防(?)が行われていました。

草?が碁盤の目上に並んでいるところも多々ありました。 恐らく人為的なものかと思います。 ざっとgoogle検索したところでは、「草方格」という防砂用の物のようです*4

茫漠とした光景が広がります。 昨年9月に中国西部の河西回廊を旅した時も思ったのですが、湿潤な気候の日本ではまず見ないので、このような光景を眺めるとはるばる遠くまで来たなとある種の旅情を感じます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

ちなみにこのへんになると携帯電話も圏外でした。

ちなみにこの時は日本のゴールデンウィークだったので、車両には他にも日本から来た方がいたので、廊下で涼みつつお話したりしました。 いろんなところに行った旅の先達で、中国からパキスタンにフンジュラブ峠を超えてフンザに行くのがおすすめと言われました。なお、この方が行ったときはタリバンが出没していた時期で、かなり危なかったとか。(前後に外国人観光客が撃たれる事件もあったとか。)ヌクスからヒヴァでご一緒したAさんにもフンザお薦めされたので、行きたい欲が高まる。

ブハラが近づくにつれ、再び緑が戻ってきました。

乾いた大地での灌漑の重要性を感じます。

ブハラ駅から市街地まで

おおよそ7時間の乗車で、定刻より2, 3分早いくらいでブハラ駅に到着です!

改めて見ると行き先はアンディジャンと、本当に遠くまで行くのだなーと印象に残りました。

ちなみに駅ホームには売店もあり。水を切らしそうになっていたところなので、無事に買えて助かります。

さて、残るはここからホテルまでの移動。 地図を見ればわかるのですが、観光地となるブハラの旧市街まではかなり遠いです。 ということでYandex Goでタクシーを呼んで移動です。 ちょうど夕方だからか、渋滞に出くわしたりもしました。

途中の新市街あたり。ヒヴァよりだいぶ都会な気がします。 ブハラの旧市街は10世紀より前に遡る歴史を持つのに対し、新市街は19世紀後半に開業した鉄道駅(カガン駅)を拠点としてロシア人街として形成されたそう*5*6。 ということで、旧市街と新市街は性格だけでなく起源も異なるようです。

旧市街は道が狭く曲がりくねったところもあり、タクシーの運転技術に目を瞠りました。 自分は車の運転ができない人間なので、尊敬します。

さすが旧市街だけあり、階段などで車が進めなさそうなところもあったので、目的地直前で降ろしてもらいました。 運賃を払おうとしたらお釣りがないから?または目的地まで着かなかったから?か少なめで良いと一部返してくれたのですが、旧市街の運転がかなりハードそうだったのでそのままお渡しした。

ブハラ駅からなんだかんだで30~40分くらいかかった気がします。

夕食

夕食は、ホテル近くのマドラサを利用したこちらのレストランで。 と言っても中は満席だったのか、レストランの前のタプチャンの席に座ることになりました。

タプチャンに座り、日も傾いて涼しくなった中、夕空を眺めながらチャイをいただきます。 チャイは甘く、スパイスが効いているもので美味しかったです。 この日はずっと移動だったので、これは至福の時間。

ちなみに向かいにある建物はモスク。Yandex mapsによると、Xo’ja Kalon Masjidiというそう。 その前に見える池はハウズと呼ばれるかつての貯水池。

前日のヒヴァのレストランと違い、こちらのプロフはとっても美味しかったです。 レーズンやレンズマメなどいろいろと入っているところも個人的には推し。 ただ、サラダの欄にあったヨーグルトサラダ(ケバブの隣に映りこんでるもの)は野菜が殆ど無いので選択をミスりました。 サラダとは...?

食後タプチャンでしばらくまったりしていたら、ヌクス→ヒヴァでご一緒し、ヒヴァで別れたAさんと出くわしました。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com ヒヴァと違ってそこそこ大きい街だと思うので、この偶然にはびっくりしました。 ヒヴァからブハラまで車をチャーターして来たとのことで、なかなか過酷なドライブだったそう。

ひとしきり話した後、ホテルにチェックイン。 シャワーを浴びる前に髪の毛を触ると、砂がまとわりついていたからかゴワゴワした感触でした。 もちろん心地よいものではないのですが、初めての感覚だったことに加え、あの砂だらけの光景の中を旅してきたことを示すものだと思うと面白いものでした。

翌日に続きます。

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

  • [1] 小松久男, 梅村坦, 宇山智彦, 帯谷知可, 堀川徹 編 (2005)「中央ユーラシアを知る事典」平凡社 ISBN: 4-582-12636-7

*1:google mapsでヒヴァ→ブハラの車での経路検索結果。

*2:建物の銘板に世界遺産のマークが記されている。

*3:走行中のyandex mapの表示によると時速80kmくらいだったので遅めの印象です。

*4:たとえば http://www.ryokukaclub.com/siryousitu/souhoukaku/souhoukaku1.html など参照。

*5:参考文献[1]p.457「ブハラ」の項「1868年...(中略)... 86年ロシア外務省の駐ブハラ政治代表部が機能しはじめ, 翌年ブハラ市の南東約13kmに中央アジア鉄道のカガン駅が完成すると, これを拠点としてロシア人の新市街, 新ブハラが形成された.」

*6:ここでは、現在のBukhara I駅と19世紀のカガン駅を暗に同一視しています。現在のブハラI駅がgoogle mapsを見るとカガンKogonの街にあることが理由です。