世界史ときどき語学のち旅

歴史と言語を予習して旅に出る記録。西安からイスタンブールまで陸路で旅したい。

2023年冬 西安と蘭州の旅 2日目 : 蘭州観光(甘粛簡牘博物館)

2023年冬 西安と蘭州の旅2日目(2023-12-14)の記録です。 この日は西安から蘭州に移動し、甘粛簡牘博物館を観光します。 簡牘(木簡・竹簡)がこれでもかと並べられている様は圧巻でした。 2000年も前の文字が漢字として読み取れる形でこれだけ残り、歴史を今に伝えていることそのものに感動しました。

今回の旅全体のまとめはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

蘭州への移動

この日は朝早くの高速鉄道*1で蘭州に移動します。 前日泊まったホテルは西安北駅の近くで、高速鉄道駅への送迎車があったので、前日チェックイン時にお願いしておきました。

西安北駅

朝6時15分頃に西安北駅到着。 保安検査は全く並ばずにすいすい通過。

駅構内で朝食にします。肉夹馍と瘦肉皮蛋粥などのセット32元。 おかゆは胡椒が効いていて、卵は五香の香りが良かったです。 前回も同じものを食べてた気がする。

ご飯を食べてるうちに改札が開く時刻になったので、水などを買ってそのまますぐに改札に向かいます。

乗車

前回9月の旅でほぼ同じ時刻の便に乗ったときは乗車時の曙光が印象的だったのですが、今回は真っ暗。 冬になって日が短くなったことを感じます。あと寒い。 あまりにも外が真っ暗なので、乗車後、乗客のほとんどは寝ていました。ということで静かな旅になりました。

車内のお酢?の広告。写真見返して気づいたのですが、車体外面にも広告が書かれていますね。

道中の光景は前回の旅と被るので省略。前回の旅のときの記事はこちらです。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com ちなみに今回は雲が低く垂れこめていて天気も悪かったです。(冬は乾燥して天気が良いはずなのでは...。)

定刻通り、10時半前頃に蘭州西駅に到着しました。

蘭州西駅

駅舎。前回は地下鉄で移動したので蘭州西駅の駅舎を見る機会がなく、今回初めて見ました。 今回はここからバスで移動します。

バスは駅のすぐそばの地下のようなところにも乗り場があるのですが、私の乗る路線はペデストリアンデッキで大通りを渡って向かいから乗車するものでした。 このへんバス停の案内があまり親切でなくて難易度が高い気もするのですが、高德地图のおかげで問題なく正しいバス停までたどり着けました。

ペデストリアンデッキからの眺め。社会主義計画都市っぽさがある気がします。

バスには事前に設定しておいたWeChatミニアプリ「乘车码」のQRコードをスキャンして乗車しました。

昼食

まだ11時と若干早いですが、お昼を食べに行きます。 この後行く博物館の近くの蘭州牛肉麺のお店です。

店名からも察せられる通り、こちらのお店はスパイシー路線(?)のようです。

ラー油の色がやたらと濃い気がする。

牛肉麺、牛肉、小皿の漬物(?)で19元。 ラー油は少なめにしてもらったもののかなり辛く、しかもニンニクの葉もたっぷりでした。 パクチーはなかったように思います*2。 朝早くの移動で眠かったのですが、これを食べて辛さのあまり目が覚めました。

簡牘博物館

昼食のお店から、歩いて今日の観光の目的地の簡牘博物館に向かいます。

基本情報

2023年の9月あたりにオープンしたばかりの新しい博物館で、「簡牘」、つまり木簡・竹簡をテーマにしています。 月曜休館。開館時間などの詳細はWeChatの公式アカウントから見れます。

入館してすぐに、簡牘をモチーフにしたオブジェなどが出迎えてくれます。

音声ガイドを聞きながらゆっくり見て回り、5時間ほど滞在しました。

入場について

事前にWeChatの公式アカウントから事前に予約し、QRコードを提示して入場しました。 ただ、このときは人はかなり少なかったので、予約なしでも入れたかもしれません。 なお、予約時はパスポート番号で登録できた(「身份证」じゃなくてもOK)ですが、電話番号が必要で私は中国の携帯電話番号を使いました。日本の電話番号でも登録できるかどうかは未確認です。

手荷物検査があって、消毒用アルコールが可燃物として持ち込み禁止と言われたのですが、ロッカーに預ければ問題ないとのことなので、ロッカーを利用します。 一瞬ここで「コインロッカー」と書きかけましたが、これコインは受け付けないんだった。 AlipayかWeChatで操作しました。

音声ガイド貸出

音声ガイドは、前回9月の旅で甘粛省博物館で利用したものと同じタイプのもののようです。 貸し出しも返却も完全自動です。ただし、こちらもAlipayかWeChat Payで操作/支払いします。

ちなみに本体とイヤホンは別々の料金です。自前のイヤホンを持っていたら代金を少し節約できます。 本体は返却しますが、イヤホンはそのままもらえます。

ロッカーも音声ガイド貸出も、中国は現地のITサービスを利用できれば(この仮定、大事)とても便利なのですが、スマホを持ってないと大変そうです。

展示

常設展示は、以下の4部構成になっています。

  • 简牍时代
  • 简述丝路
  • 边寨人家
  • 书于简帛

简牍时代

こちらは簡牘そのものについての基礎知識を伝える展示、という位置づけのようです。 簡牘の定義や分類や製法から、まとまって出土した著名な簡牘、簡牘の用途などを概観することができます。

並んでるのは一見地味な簡牘なのですが、約2000年近く前の木に墨で書かれた文字が判読できる状態でここまで残されてきたと思うとワクワクします。 「うおおお、2000年前の文字が判別できる!!! 読める...! 読めるぞ!」と内心盛り上がったり。

簡牘の形いろいろ。

一番左の「簡」は通常の簡牘、1つ飛ばして「両行」は読んで字のごとく2行分の幅がある幅広の簡牘*3、「木楬」は物品の名前や数量/文書名などを書いた荷札のようなもの*4、「封検」は情報を記した木簡の上に重ねて封印するために利用されたもので宛先や配達方法が記載されます*5。 既に本で読んで知っている情報ではあるのですが、こうやって実物を並べて説明されると実感が伴ってきます。

真ん中の検には「刺史」(官名)と書かれている気がする...?

ちなみにもうちょっと後の展示で封検の使い方が解説されていました。

懸泉置木簡について。 写真にもある通り出土が比較的新しくて、予習で読んだ本の中には元の出版年代が古く懸泉置木簡を扱えていないものもありました。

検。右側の釈文の通り、「懸泉置以亭行」と書かれているのがはっきりと読み取れます。 ちなみに、展示されているだいたいの簡牘について釈文が付されていました。

他にも、居延漢簡や馬圏湾漢簡など、まとまった出土例について、出土時期や発掘調査の経緯などが紹介されています。

続いて、簡牘の様々な用途についてのコーナー。 このへんになると、多数の簡牘を見すぎて、感覚が段々と麻痺してきます。

こちらは檄(「檄を飛ばす」の檄)として用いられた觚。 「府告居延甲渠...」と読めます。 上級の役所から下級官庁に送られた文書かな。

甘粛省で発掘される木簡には、当時の長城の防衛施設に残された上のような軍事行政文書が多いのですが、もう1つのカテゴリが、書籍の類。

こちらは識字教科書「蒼頡篇」の一部。 左の簡牘の冒頭2文字はたぶんタイトルにもなっている「蒼頡」かな...?

こちらはかけ算表。

どちらも敦煌の馬圏湾遺跡出土のものと書かれているところが気になります。 馬圏湾遺跡は長城の防衛施設だったと思う*6ので、そこに勤務する書記が使うためor書記を目指す人の教育・学習用だったのかもしれません*7*8

简述丝路

「简述丝路」の展示では、簡牘に書かれた内容からシルクロードについて何が分かるかを展示しています。

まずは自然環境の話。個人的にはこれに一番興味を惹かれました。

「自然環境のことなんか当時記録につけることあったのかな?」と思ったのですが、別の趣旨で書かれた簡牘から自然環境についての記述を拾い出すことができるようです*9。 たとえば、右の写真の簡牘では、「弱水(エチナ河・黒河)を渡河する際に、激しい水流のため、符や衣服などが流されてしまった」という報告が書かれていて、ここから当時の弱水が水量豊富であったことが示唆されるとか(音声ガイドの情報。)。2000年前のこの地は、今ほど乾燥していなかったようですね*10

他にも、冷害や地震の報告の簡牘もあった気がします(うろ覚え。)。

こちらは置(駅站)の位置の話。 右は、里程簡と呼ばれる、置と置の間の距離などを記載した木簡です。 発掘された遺跡と、当時の置の名前を照合するのに役立ちそう。

かなり驚いたのはこちら。なんと当時の壁に書かれていた文章がそのまま残されています。よくばらばらにならずに残ってくれたものだと思います。 「四時月令」と書かれていて、内容は農事のスケジュールなどを規定したもののようです(要出典)。

シルクロードを往来した人々の記録もあります。 このへんはだいたい懸泉置出土の簡牘で、「誰々を送り出した」などの記録がされていたようです。

他にも、シルクロードを通して伝わった動植物などについての展示もありました。

边寨人家

こちらの展示では、河西回廊に住んでいた当時の人々の暮らしに焦点があてられています。 「简述丝路」でシルクロードを行き来した人々の記録はあったのですが、あちらはどちらかというと貴人や高官がメインのようで、対してこちらは一般庶民(または長城に配備された兵卒や下級役人たち)が主役。

食品について書かれた簡牘。食材の種類や量が列挙されたものもあります。

こちらは馬が死んだことの責任を巡って、誰の責任かを調査した記録だそう。文字がえらく崩れた書体で書かれている気がします。

またトラブル関係ですが、こちらは長城勤務の兵士どうしの喧嘩に関する記録。 まさか自分のやらかしが2000年も後まで伝わるとは思ってなかっただろうなー。

展示室の壁際にはこうやって束になった簡牘も並べられているのですが、こちらはもちろん本物ではなく模造品。ただ、触ろうとした人が博物館のスタッフに止められてました。

平日で人も少なく静かな館内だったのですが、このへんで校外学習のためか小学生(たぶん)の集団が入ってきて、展示室がだいぶ賑やか(婉曲表現)になってました。

书于简帛

こちらは書道史の観点から簡牘について解説する展示のようです。

簡牘の実物は少なく、簡牘に書かれた文字を拡大したパネルなどがメインです。(書かれた文字の形に着目するなら、確かにこの展示形態の方が見やすい。) 私は書芸術には明るくないので、このへんはざっと軽く見るに留めました。

なお、書そのものではないのですが、簡牘に利用される木材がしれっと展示されていて、興味を惹かれました。

ホテルと夕食

博物館は蘭州市街地の西側にあるのですが、ホテルは東側に取ってあるので、バスで東に向かいます。ちなみに蘭州の市街地は東西に長いです。

ちなみにこのとき乗ったバスは午前乗ったものとは異なり、乗車時と下車時の2回QRコードをスキャンする必要がありました。 恐らく、バス停間の間隔が大きいタイプの路線で、乗車区間の長さによって運賃が変わるのだと思います。 車内放送で「请勿提前刷卡」って書いてたけど、ほとんどの人が乗ってすぐとかに下車用スキャンをしてて笑いました。

ホテルにチェックインして、近くで夕飯を食べに向かいます。

気温は氷点下なのですが、意外と屋台があってびっくり。

外で食べるのは寒そうなので、屋台街の隣にあるこちらのお店で羊串にします。 店内はポップで清潔。

飲み水が出てきたのですが、冷たい水ではなく熱々のお湯で助かりました。 外は寒いし、そもそも羊の脂の融点は人間の体温より高いらしい*11ので、暖かいものを飲めて嬉しい。

羊串の注文は10串単位からだったのですが、1串が意外と小さいということを前回の旅で学習したので、怯まず合計20串ほど注文します。

クミンの香りの利いた羊串がどんと積まれた様を見ると、中国西北部に来たなーと感じられます。 味は前回9月の旅の嘉峪関の方が上かも?ですが、なんだかんだ日本では食べてなかったので久々の羊串で、美味しくぺろりといただきました。

メニューで「牛奶鸡蛋醪糟」なるデザートが蘭州名物として推されていたので、こちらも注文してみました。 牛乳に甘酒のようなものと、卵、胡麻やナッツなどが入っているようです。 温かくほんのり甘く優しい味わいで、スパイスの利いた羊串の後に食べるとちょうどよかったと思います。

合計お値段78元でした。

歩いてホテルに戻ります。

翌日に続きます。

参考文献

  • [1] 大庭脩(2020)「木簡学入門 」志学社 ISBN: 978-4-909868-01-5 (※1984年刊の講談社学術文庫を再刊したもの)
  • [2] 籾山明(2021)「漢帝国と辺境社会 長城の風景 増補新版」志学社 ISBN: 978-4-909868-05-3 (※初版は1999年刊の中公新書)
  • [3] 冨谷至(2014)「木簡・竹簡の語る中国古代 : 書記の文化史 増補新版」岩波書店 ISBN: 978-4-00-026859-2
  • [4] 柿沼陽平(2021)「古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで」中央公論新社 ISBN: 978-4-12-102669-9

*1:D2649 西安北 7:04 → 10:23 蘭州西

*2:か、あってもニンニクの葉が強すぎてパクチーの香りが検知できなかった。

*3:[1]p.28~p.29, [3]p.68。ただし、[1]では幅を1.8cm~2.8cmとしているが、[3]では幅は通常の簡(幅1cm~2cm)の倍としている。

*4:[1]p.46, [3]p.85

*5:参考文献[1]41~p.42、参考文献[2]p.16、参考文献[3]p.82、参考文献[4]p.52~p.54。参考文献[4]では「検」という言葉は出てきませんが、図2-1左側や図2-2などで解説されているものは、他の文献で述べられた「検」に該当するかと思います。

*6:馬圏湾漢簡の展示のところで、馬圏湾烽燧(のろし台)との記載がありました。

*7:参考文献[3]p.142, p.144によると、居延漢簡/敦煌漢簡の中に見られる字書の断片は、初心者の書記が練習用に筆写したもの(が廃棄されたもの)ではないかと考えられる、とのこと。

*8:このへんの事情、参考文献[2]の補遺「書記になるがよい」にも書かれていたと思います。

*9:このへんの話、参考文献[4]を思い出しました。具体的には、たとえ日常生活を主題にした文献でなくても、日常についての記述が断片的にあり、それらを拾い集めて利用することができる、という点です。

*10:参考文献[2]p.216によると、往時の河西回廊はオアシスが連なる緑豊かな地であったとのこと :「ハラ=ホトや楼蘭など、生命のかけらもない沙漠の遺跡を目にしたときに、私たちは驚きとともに「なぜこんな厳しい環境の中に住んだのか」との疑問を口にする。だが、その答えは実に簡単、「当時の環境が今日ほど過酷ではなかったから」である。」

*11:日本食肉総合センター 用語集 「融点」 http://www.jmi.or.jp/info/word/ya/ya_009.html 「融点は鶏肉で30~32℃。馬肉、豚肉、牛肉の順で高くなり、羊肉は44~55℃でいちばん高い。」

2023年冬 西安と蘭州の旅 1日目 : 日本から西安の移動

2023年冬 西安と蘭州の旅1日目(2023-12-13)の記録です。 初日は直航便で東京から西安に飛び、翌朝の移動に備えて西安北駅(高速鉄道駅)に宿泊します。

今回の旅全体のまとめはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

空港へ

西安は東京より少し寒いくらいかなーと思ったのですが、ちょうど旅行の日あたりから気温が下がり最高気温0℃、最低気温-10℃くらいの予報。 蘭州は-15℃くらいまで下がるそう。

ということで、暖かい格好で空港に向かいます。 インナーとしてモンベルのジオライン(中厚手)を上下に着込んだのですが、東京だと最高気温15℃なので暑い。。。

成田エクスプレス車内では日本語よりも外国語のほうがよく聞こえてきました。

成田空港にて

今回は海南航空の直行便で成田から西安に向かいます。

チェックインカウンターが見つからないなと思ったら、あんまり使ったことがない場所にありました(成田空港初心者)。

チェックインカウンターではほとんどの人が中国語話者でした。 前に並んでた人と少し話したのですが、西安在住の人でした。 北海道を旅してこれから帰国するとのこと。日本は3回目で、東京~大阪の定番ルート、沖縄、そして今回の北海道だそうです。 私はまだ北海道も沖縄も行ったことないので、私より日本の観光地を周ってる気がします(←

この日は保安検査場も空いており、ほぼ並ばずに順調に通過できました。

フライト

機内持ち込み荷物が多く、乗務員も整理に手間取っていたようです。 しかも成田の免税店の袋が多くて、着陸後に取り間違えないか心配や。。。

富士山! 登ったことはあるのですが、斜め上から見下ろすと形がよくわかって面白い。

機内食は米とパンともみじ饅頭とポテトサラダで、炭水化物多めな気がする。

機内の飲み物で、水やお茶やリンゴジュース以外に、「椰子水」があったので頼んでみました。 ココナッツミルクではなく、半透明の液体でした。 後でgoogle検索したら「ココナッツウォーター まずい」とサジェストされていましたが、ほんのり甘い優しい味で私は好みでした。

前回9月の旅のフライトに比べると、日が沈むのが早かった気がします。 西安に近づいた頃には真っ暗だったので、上空からの写真はなし。

20分遅れくらいで着陸しました。 3人くらい名指しで先に降りるように言われた乗客がいて、それ以外は座って待っててね、と言われました。 なんでだろう(咳をしていたので検疫対象、とか???)。

空港からホテルへの移動

今回も荷物は35Lのバックパック1つだけなので、預け荷物を待つことなくさくっと空港を出ます。 ちなみにターンテーブルには寄らずに出口に直行したら、スタッフの方に「預け荷物ない? 取り忘れてない?」と心配されていったん止められたりしました。

機内食が足りなかったので、カロリー(日本で買ったカレーパン)と水の補充。 水は自販機から買ったのですが、日本の自販機のようなタイプのものではなく、alipayでスキャンして扉を開けて商品を取り、自動で精算するタイプのものでした。 前回の中国旅行ではこのタイプのものは使わなかったので、ちょっと新鮮で面白かったです(写真撮りそびれた、残念...。)。 alipay信用スコアが一定点数以上ないと使えないそうなのですが、信用スコアを事前に有効にしておいただけで、特に問題なく使えました。

空港からホテルまでは前回と同じく地下鉄で移動します。

乗り方は前回の旅行の時に書いたこちらの記事参照。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com 今回はWeChatミニアプリの乗車用QRコードを利用しました。 「SUICAとかのICカードの方が処理が速くて便利では???」とずっと思ってた*1のですが、QRコード方式だと物理カードを買わなくてよいので旅行者にとっては嬉しいということに気づきました*2。 実際、この後何都市か周ってもミニアプリの操作だけで都市を切り替えられました。

社内の液晶画面では、広告の下に社会主義核心価値観や「ゴミは分別しましょう」「マスクをつけましょう」などのテロップが流れていました。 車内でマスクをしてた人は半分くらいだったと思います。

終バスもなくなっていたので、歩いてホテルに向かいます。寒いですが、1kmちょっとなのでセーフ。

ホテルは問題なくチェックインできたと思ったのですが、チェックイン後にフロントから電話がかかってきて「中国籍ならパスポートじゃなくて身份证が必要」と言われました*3。 「こんな寒い夜に宿を追い出されるのはやばい」と思ったのですが、中国の移民管理局のwebページと法律を見せて説明したらOKもらえました。 前回の旅で武威のホテルを追い出された経験が活きてよかった(よくない。もうちょっとすんなりチェックインしたい...。)。

翌朝は蘭州に向かいます。

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

*1:実際、改札前でスマホ操作のために立ち止まる人がそこそこいた。

*2:家にイスタンブールカードが眠っているのを思い出しながら。

*3:私は「国籍は中国だが日本生まれ日本育ちで身份证がない」というレアケースです。

2023年冬 中国 西安と蘭州の旅まとめ

2023年の年末に、中国は西安から蘭州を旅しました。 9月の旅で西安から敦煌までを旅したのですが、そのときは時間が足りず蘭州や西安などはあまりじっくり見れなかったので、今回別途行ってきました*1

前回9月の旅のまとめはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

概要

11日間の日程で、西安→蘭州→宝鶏→西安を旅してきました。 前回9月の旅は西安から敦煌を駆け抜ける旅程だったので移動が多かったのですが、今回は西安に5日間滞在するまったり旅程です。 天水(麦積山石窟で有名)も行こうかと思ったのですが、9月の敦煌莫高窟で石窟はお腹いっぱいになったのでパスすることにしました。

予習

9月の旅の予習・復習で既に何冊か本を読んだのですが、さらに追加で何冊か読んでいきました(以下の記事は9月と12月の旅の話をまとめて書いています。)。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

9月の旅で漢代の木簡をいくつも目にして興味を持ち、今回の旅では蘭州の甘粛簡牘博物館に行くことにしたので、木簡・竹簡の本を読んでいきました。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

加えて、西安では碑林博物館を訪れる予定だったので、中国書道についての本もいくつか読んでいきました。 予備知識ほぼゼロで行ったら「石に文字が書いてあるな」くらいしかわからなかったと思うので、これは予習してよかった。

※執筆中

日程詳細と旅行記

1日目 2023-12-13(水) : 日本→西安

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2日目 : 2023-12-14(木) : 蘭州

  • 国鉄路 D2649 西安北 7:04 → 10:23 蘭州西
  • 蘭州観光 : 蘭州簡牘博物館
  • 蘭州市街地に宿泊

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3日目 : 2023-12-15(金) : 蘭州

  • 蘭州観光
  • 蘭州西駅近くに宿泊

4日目 : 2023-12-16(土) : 宝鶏

  • 国鉄路 G2686 蘭州西 7:06 → 9:19 宝鶏南
  • 宝鶏観光

5日目 : 2023-12-17(日) : 咸陽

  • 国鉄路 C162 宝鶏 7:06 → 8:29 興平
  • 咸陽観光

6日目 : 2023-12-18(月) : 西安

  • 長距離バス

7日目 : 2023-12-19(火) : 西安

  • 西安観光 : 陝西歴史博物館

8日目 : 2023-12-20(水) : 西安

9日目 : 2023-12-21(木) : 西安

  • 西安観光 : 鐘楼・鼓楼など

10日目~11日目 : 2023-12-22(金) ~ 2023-12-23(土) : 西安→日本

*1:まとめて行こうとすると3週間を超えそうだったので、2分割しました。蘭州より西は寒そうなので、寒くなる前に蘭州~敦煌を旅し、東側は12月にのんびり、という作戦(?)です。

2023年トルコ旅行記 12日目 イスタンブール観光その3

2023年のゴールデンウィークのトルコ旅行12日目(2023-05-07)から13日目の記録です。 この日がトルコ最終日、イスタンブール3日目にしてアヤ・ソフィアとスルタン・アフメト・ジャーミィ(ブルーモスク)を訪れました。

トルコ旅行全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

アヤ・ソフィア

  • 2024年1月のニュースで、アヤ・ソフィアが入場料を徴収するようになることと、1階の見学が海外の非イスラム教徒の観光客については制限される旨のニュースを聞きました(詳細未確認)。以下の内容は2023年5月の訪問時のものであり、これから訪れる方は最新の情報をご確認ください。
  • このときは入場無料でした。
  • 1時間半ほど滞在しました。

朝食をホテルで済ませて、歩きでアヤ・ソフィアに向かいます。

朝9時過ぎの時点でこの長蛇の列。この右奥の先にアヤ・ソフィアがあります。 並んでるときに小学生くらいの団体に「写真一緒に撮って!」(たぶん)と言われて写真を撮られまくってました。 学校で修学旅行(?)か何かで来ているようで、引率の先生らしき人曰く「うるさくてすみません、田舎の子供たちには海外の人は珍しくて」とのこと。

外観。 約1500年もの歳月を経て今なおここに建ち続けているという事実に驚きを禁じえません。 と言っても、無傷で生き残ってきたわけではなく、地震などでドームが何度か崩落したそうです*1*2

主ドームを小ドームが支える、という形式はオスマン帝国のモスクに受け継がれたわけですが、後世のオスマン帝国のモスクに比べるとバットレス(?)がどえらく目立つ気がします。 これも技術の進歩によるもので、後世のモスクは安定した構造を確立したということでしょうか。

入り口には、ここがモスクであることが宣言されていました。 思えば、キリスト教会→モスク→博物館→モスクと変遷を経てきたというのも感慨深い。 近年のモスクへの変更が議論を巻き起こしたことは記憶に新しいです。

内部に入る直前。この角度からの写真を見ることはあまりなかったので、よく知った姿とは印象が異なり記憶に残りました。 これまたバットレスがいかつい。もしかしたら後世に足されたものかもしれません*3

ナルテックス。 このときはモザイク画を見ることができましたが、見た感じ布か何かで隠せるようになっているようなので、タイミングによっては見れないかもしれません。

ここで靴を脱いで中に入ります。

身廊に足を踏み入れると、大ドームを戴いた広々とした空間が広がります。 1500年前にこんな建造物を作ったローマ人の土木技術の高度さは感嘆に値します(前日も同じようなことを書いてた気がする。)。 ちなみに写真下端に映った人の頭からも察せられるかと思いますが、中はかなりの人混みでした。

側廊と2階部分。私が訪問した時は2階には入れなかったと思います。 「実は入れるけど気づかなかっただけ」だったら悲しい。

中央の大ドームを半ドームで支えているのですが、よく見ると上の写真の通り、さらにその半ドームを3つのさらに小さいドームで支えているようです。 けっこう構造が複雑なのですが、参考文献[1]p.30~p.31に詳しい解説がありました。

構造力学が分かるとここらへん楽しめそう*4。 ちなみに3つの小ドームのうち中央のものにはモザイク画が描かれているはずなのですが、このときは残念ながら隠されていました。

最奥部は礼拝用のスペースとなっており、礼拝する人以外の立ち入りはお断りになっていました。 礼拝用スペースで自撮りに興じていた人がいて一瞬ひやひやしたのですが、自撮りが終わった後に礼拝を始めたのでセーフ。 ミフラーブのある場所が建物の凹部の中心とは一致しておらず、キリスト教建築に後から付加したものであることを示唆しています*5

柱の頭部の装飾がやたらと綺麗に残っているけど、これはさすがに後から修復してるのかな。 ペンデンティブ部分にいる謎の生命体は天使だそうです*6

出口から出る際に振り返ると、見事なモザイク画が見送ってくれます。 聖母子にコンスタンティノープルとアヤ・ソフィアを寄贈(?)する(東)ローマ皇帝の姿を描いたものだったはず(要出典)。

スルタン・アフメト・ジャーミィ

続いて、スルタン・アフメト・ジャーミィ(通称「ブルー・モスク」)に。 こちらは1617年に建てられたもの*7

常に開いているわけではなく、タイミングによっては礼拝のため観光客は立ち入れないようです。 私が行った時の公開スケジュールは上の写真のとおりですが、季節によって時刻は変わるかと思います。

正面入り口。ここでモスク本体をバックに写真を撮っている人がたくさんいました。

入るときは曇っていたのですが、出てくる頃には青空が広がっていました。これは出てきた後に撮った写真。

実は今回の旅の直前(確か1か月くらい前?)までこのモスクは修復工事中で、「工事いつ終わるかなー」とトルコ語のニュースをgoogleで検索してはやきもきしていました。 運よく訪問前には工事が無事完了し、こうやって内部を見学することができて良かったです。

中央の大ドーム。 なお、上部の装飾はタイルではなくフレスコ画だそうです*8

移動と昼食

スルタン・アフメト・ジャーミィを見終えたので、次の目的地、シェフザーデ・ジャーミィ方面に向けて移動します。

移動前に広場の端に座って少し休憩していたら、「英語の練習がしたい」という少年に声をかけられたので少しお喋りしました。 別れ際に「僕の家族がレストランやってるから、良かったら来るかい?」と言われたのですが、これから向かう方向と逆になりそうだったのでお断りしました。 ソフトな客引きだったのかな。

こちらはトラムの駅まで歩く途中で見かけたハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマーム。 建設年は1556年で、スレイマン1世の寵姫ヒュッレム・スルタンの建てたものだそうです*9。 今も現役のハンマームで、一瞬入ってみようかと思いました。 が、一人旅でしかもこの日はホテルをチェックアウトして荷物を全部抱えて移動しているので、ちょっとハードルが高いなと思って見送りました。 あとけっこうお値段が高かった気もする。

トラムのLaleli-İstanbul Ü.駅で降りて、シェフザーデ・ジャーミィに歩く途中のお店でご飯にしました。

メルジメッキ・チョルバと、鶏肉とジャガイモなどの煮込み(写真撮りそびれた)。 お値段126TL。 スルタン・アフメト地区から少し離れた観光客の少ないエリアだからか、はたまた鶏肉だから、前日のお昼などに比べるとお安めでした。

シェフザーデ・ジャーミィ

昼食を食べたお店から少し歩くと、大きなジャーミィが見えてきました。

こちらのジャーミィは、かの名建築家ミマール・スィナンの手による建築で、1548年頃完成とのこと*10。 スレイマン1世と妃ヒュッレムの子で、夭逝した王子メフメットのためのキュッリエの一部です。 「シェフザーデ」という言葉は「王子・スルタンの息子」の意味だそうです*11

正面入り口が分からず、少し目立たない出入口から「観光客なんですが入って良いですか?」と出てきたおじさまに訊いて入りました。 が、こちらは礼拝者用の出入り口だったようで、入ったらもろに礼拝者用のスペースに出てしまって焦りました。

スルタンアフメト地区に比べると観光客は少なく、落ち着いて過ごすことができました。

大ドームを4本の柱と4つの小ドームで支える形式です。 大ドーム内の装飾、スルタン・アフメト・ジャーミィのものよりもコントラストがくっきりしているような気がして、好みです。

礼拝室から中庭に出たところ。 本来、正面入り口から入っていたら、こちらの中庭を経由して室内に入るはずでしたね。

モスクの周囲は緑がひろがり、ベンチも置かれていて、人々の憩いの場となっていました。

ヴァレンス水道橋

このまま歩いてスレイマニエ・ジャーミィに向かうのですが、近くにヴァレンス水道橋もあったので、寄ってみました。

ヴァレンス帝の治世下の西暦378年に完成した水道橋です*12。 1500年以上残る水道橋を建造したローマ人もさることながら、これを横切る形で車道を整備した後世の人々もすごいと思います。 ローマ人たちも、馬よりもはるかに速い乗り物が橋の下をびゅんびゅん通過していく様子は想像していなかっただろうなー。

近づいて見てみると、上段の一部は石材ではなくレンガでできているように見えます。 「下は石材、上はレンガ」というのは、エフェソスの遺跡や、セルチュクの教会、ここイスタンブールのアギア・イレネーでも見たパターンです。

スレイマニエ・ジャーミィ

坂道を上り、スレイマニエ・ジャーミィに向かいます。

さきほどのシェフザーデ・ジャーミィと同じくミマール・スィナンの手による建築で、こちらはスレイマン1世本人のためのものです*13

大ドームを4本の柱で支えていますが、大ドームの周りの小ドームは2つだけ、という形。これは午前に見たアヤ・ソフィアと同じ様式ですね。

観光客はシェフザーデ・ジャーミィよりは多かったですが、スルタンアフメト・ジャーミィよりは少なく、比較的落ち着いていました。

内部には英語で解説してくださるボランティアの方もいました。 ただ、少し話した限りでは、モスクの歴史や建築よりはイスラームの教義などをメインに解説しているようでした。 「ここはスルタンが財産を寄付して慈善施設として造ったのです。どうしてだと思いますか?」(意訳)と訊かれたので「表向きは宗教的な善行としてだけど、もっと実際的な理由として、ワクフ制度を利用して自らの墓を末永く維持するため」というなんとも即物的な理由*14を言おうかと思ったのですが、自重して(というかそこまで瞬時に言える英語力がなかったので)「宗教的に良い行いとされていたから...?」と無難な答えを返してしまいました。

時間に余裕があったので、持ってきた「物語イスタンブールの歴史」(参考文献[2])をぱらぱら眺めながら休憩しました。 こちらの本、まるで時間旅行をしているように往時の様子を生き生きと描写しているので、現地で読むとなお面白い。

モスクの裏に出ると、海を見下ろすことができます。 高台に建っているので景色が良い。

そしてそのすぐ近くにあるのが、スレイマン1世(右)と寵姫ヒュッレム(左)の墓廟。 さっき解説の方に言おうとした件ですね。

しかもちょうどモスクのキブラ壁の外側にあるので、モスクで礼拝する信徒の祈る方向は、必然これらの墓廟の方向になります*15。 意図的かどうかは分からないですが、面白い配置だと思います。

モスクの周りはさきほどのシェフザーデ・ジャーミィと同様に緑にあふれ、ピクニックなどに興じる人々で賑わっていました。 公園みたいな扱いなのかな。

モスク外の、キュッリエの建物。かつてはメドレセなどだったようです*16*17。 ざっと見た範囲では今はレストランとして使われているようですが、後でgoogle mapsで調べたら図書館や大学の講堂となっているものもあるようです。 特に図書館は手稿本を多く所蔵しているそう*18。 一般の観光客向けの展示を行っているかどうかは確認していないのですが、モスクだけでなくこちらも行ってみれば良かったなーと後悔。。。

やたらとkuru fasulyeの看板を掲げたお店が並んでいたので、ここの名物なのかな。 写真には「TÜRKİYENİN EN İYİ KURUFASÜLYECİSİ」となんとも自信にあふれた言葉も見えます。 夕飯にはまだ早いかなと思って食べなかったのですが、今となっては悔やまれる。。。(2回目)

移動と夕食

最後に新市街に向かいます。

歩いて海辺まで降ります。なかなかの坂で、スレイマニエ・ジャーミィが高台の上に建てられていることを実感できました。

そこから今回の旅で初のイスタンブールのバスに乗りました。 その際はこちらの方の記事が参考になりました。 feel-the-earth.com

新市街のチョルバジュで夕飯にします。 ただ、うーん、スープが薄い気がするし、パンも袋に入った個包装のもので、ちょっといまいちだったかな。 コンヤやカイセリで入ったお店の方が断然美味しかったと思います。

ガラタ塔

夕食後、せっかくなので近くのガラタ塔(MUSEUMPASS TÜRKİYEで入れる)に寄ることにしました。

歩いて行ったのですが、途中かなりの坂を上ることになります。イスタンブールは坂が多い気がする。

下から見上げたガラタ塔。 夕方という時間故か、入場待ちの長蛇の列ができていました。

もとはガラタの城壁そばに見張り塔として建てられ、長らく火の見櫓としての役目を果たしてきたそうです*19。 現存する塔は、1348年に建てられたものが幾たびもの損壊と修復・改修を経たもののようです*20。 ただ、外壁は綺麗で、内部も現代のエレベーターまで備わっていたので、正直なところどこまで古い構造がそのまま残っているのかは自信がないです。

一番上の展望台では、ガラス越しではなく、屋外に出て景色を眺めることができます。 上からの眺望はすばらしく、旧市街を眺めながらどれがどのスポットか考えたり地図と比較したりと、イスタンブール観光の締めにとても良かったです。

写真左端の塔はトプカプ宮殿の円蓋下の間/議会の間の上に建つ塔(この2日前に行ったときの記録はこちら参照)、そこから右に目を向けると、アヤ・ソフィアやスルタン・アフメト・ジャーミィなどが見えます。

海岸近くにはイェニ・ジャーミィ、右の丘の上にはスレイマニエ・ジャーミィも見えます(たぶん)。

なお、塔の上の屋外展望台は人が多い割にとても狭く、誘導も行われなかった(一方通行などもなかった)ので、やや危ない気もしました。 むしろその一段下の屋内からの方が、ガラス越しとはいえ、ゆったりと外の眺めを楽しめたと思います。

登りはエレベーターでしたが、下りは階段で降りました。 途中、ガラタ塔やイスタンブールの歴史についての展示もありました。

空港へ

観光を一通り済ませたので、名残惜しいですがメトロでイスタンブール国際空港に向かいます。

これは地下鉄駅の入り口前で最後に見送ってくれた(?)エルドアン大統領のお顔。 このときは大統領選挙中でした。

まず手近な駅から乗り継いでKağıthane駅へ。

Kağıthane駅ではいったん外に出て地上を歩いて乗り換えます。ちょっとややこしいので注意。 上の写真がKağıthane駅での空港線への入り口。 なお、空港線は2023年1月に開業したばかりのようで、駅も車両もとんでもなく綺麗でした。

やたらとかっこいい。

Kağıthane駅から空港駅まで30分程度だったと思います。

空港駅から空港までは少し歩きますが、動く歩道もあるので、大荷物がなければあまり問題ない気もします。

深夜発の便で日本に戻りました。

参考文献

*1:参考文献[1]p.33「...557年の地震で亀裂が生まれ、558年にドームは崩落した。再建され562年に献堂ドームは、...(中略)...南北の大アーチを補強して架けられた。このドームも989年に西側の約1/3が、1346年には東から東南の約1/2が、いずれも地震により崩落したが、かなり忠実に修復されたので、現存のドームは562年に再建されたドームとほぼ同じ形態だといえる。」

*2:参考文献[2]p.64「その建造にあたってエフェソスのアルテミス神殿や、エジプトのヘリオポリスなどから運ばれた古代円柱や、大理石がふんだんに使われた床、そして大円蓋は―幾度か部分的に崩壊したとはいえ―創建当時のままである反面、内部装飾の多くはレオーン三世期(七一七-七四一)の聖像破壊運動(イコノクラスム)によって失われ、いまも残るモザイク画は帝国の最盛期にあたる九世紀以降に作られたもの。」

*3:参考文献[1]p.33「16世紀半ばには、倒壊を防ぐための補強バットレスが多数付け加えられたため、外観はかなり醜い状態になって現在に至っている。」

*4:私は構造力学は全く分からないので勉強したい。

*5:ただ、上の写真だけをもってして「これは元はモスクではないことが分かる」というのは主張が強すぎる気がします。たとえば、モスクでも「メッカの方角を測りなおした結果ミフラーブの向きを調整する」等といったことも、もしかしたらあるもしれないので。。。

*6:参考文献[2]p.67「たとえばドームの四隅の穹隅を見てみよう。大きな顔から羽の生えた異形が描かれている。こちらは四大天使をかたどった壁画だが、漆喰を塗るのに手間がかかるためか、オスマン期にも塗り潰されず放っておかれていた。」

*7:参考文献[1]p.231

*8:参考文献[1]p.234「2階の窓の高さより上の装飾は、ピアやドームの内面も含め、筆で描かれたフレスコ画である。」

*9:参考文献[2]p.56, p.61

*10:参考文献[1]p.181「1543年6月に定礎を行い1548年に完成したこのキュッリエは、...」キュッリエ(複合施設)の完成年としての記述なので、モスク単体の完成年は異なるかもしれません。

*11:参考文献[1]p.181。ただし、元来はスレイマン1世自身のために建設されていたのではないか、との説もp.181~p.182で紹介されており、著者はこれを支持しています。

*12:参考文献[2]p.112

*13:参考文献[1]p.182, p.189

*14:このへんについては参考文献[3]p.147にマドラサ建築と墓の関係として詳しく述べられています。スレイマニエ・ジャーミィについてもp.216に次のような記載があります。「アイユーブ、マムルーク両王朝時代の墓付きマドラサほど露骨な形ではないが、スレイマニエをはじめとするオスマン朝のスルタンたちの複合施設群も、建設者の墓廟の永続的な維持、管理をその建設目的の一つとしていたことは間違いない。」

*15:参考文献[3]p.217「その壁の外側には、スレイマンの墓があるため、メッカの方向へ向かってひれ伏しているムスリムは、結果としてスレイマンの墓にも祈りを捧げていることになってしまうのである。また、別の見方をすれば、スレイマンが信徒の先頭に立ってメッカに祈りを捧げていると考えることもできよう。いずれにせよ、神と信徒の間にスレイマンがいることに変わりはない。」

*16:参考文献[1]p.183 図64

*17:参考文献[4] p.176 図5-5

*18:【世界の図書館から】 スレイマニイェ図書館(トルコ) https://u-parl.lib.u-tokyo.ac.jp/japanese/world-library46

*19:参考文献[2]p.140

*20:参考文献[2]p.140~p.141

2023年トルコ旅行記 11日目 イスタンブール観光その2

2023年のゴールデンウィークのトルコ旅行11日目(2023-05-06)の記録です。 引き続きイスタンブールのスルタンアフメト地区周辺を観光します。 博物館2か所、遺跡2か所、モスク3か所とだいぶ詰め込みましたが、見どころが集中しているおかげで移動に時間をとられず、じっくりたっぷり余裕を持って楽しむことができました。 リュステム・パシャ・ジャーミィはタイルで彩られた空間が本当に美しく、アヤ・ソフィアやスルタン・アフメト・ジャーミィ(いわゆるブルーモスク」)より人も少なくゆったりできるのでおすすめ。

トルコ旅行全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

朝食

昨日と同じく、ホテルのビュッフェで朝食。

地下宮殿

朝食後、アヤソフィアに行こうかと思ったのですが、歩いてる途中に地下宮殿入り口に並ぶ行列が見えた(確か9時の開館時間より前だったと思います)ので、なんとなく地下宮殿に行くことにしました。

  • 公式webサイト(たぶん) : https://yerebatan.com/en/
  • MUSEUMPASS TÜRKİYEの対象外です。
  • 1時間ほど滞在しました。
  • 俗称の「地下宮殿」で呼んでいますが、正しくは宮殿ではなく、地下に設けられた貯水池です。

ユスティニアヌス帝の時代(6世紀)に築かれ*1*2、1500年近い年月を経て今に残っています。 解説パネルによると、オスマン帝国の時代にも一時期トプカプ宮殿の水源として用いられていたとか。 古代ローマの土木技術の高さには恐れ入ります。。。

古代ローマオスマン帝国時代に幾度も整備された水道についての解説パネルもありました。 イスタンブールは真水の地下水に乏しく、これだけ水道整備が必要になったそうです*3

天井はレンガのアーチでできており、それを石柱が支える構造のようです。 重機もない時代にこれを施工するのはすごい。。。

ライトアップの色が切り替わるので、見るタイミングによって雰囲気もだいぶ変わります。

ところで上の写真からも分かる通り、石柱の柱頭のデザインはまちまちです。 また、一部の石柱は高さが足りなかったのか台座のうえに設置されています。 恐らく、既存の建築の石柱を転用したのではないかと思われます。

極めつけはこちらのメドゥーサ(たぶん)の頭。 人目につかない地下貯水池にわざわざ彫刻を施した石材を用意するとも考えにくいので、これも転用かもしれません。

こちらは通称「涙の柱」と呼ばれている(らしい)柱。ただ、実際は涙の模様ではなく、木の幹を表わしたものだそうです*4

あとはこっちの柱には明らかに文字が刻まれていることが見て取れました。 何が書いてあるかはよくわからないですが、これも転用かな。。。

出てくるころにはアヤ・ソフィアには長蛇の列ができていたので、そちらは翌日に回すことにしました。

次の見どころに向かう途中で客引きのような人2人に日本語と英語で声をかけられたので少しお喋りしました。 イスタンブール(スルタンアフメト地区の観光関係者限定かもしれないですが)、これまで行った他のトルコの都市(カッパドキアは除く)と比べてぶっちぎりに英語が通じてすごい。

  • 「このへん、夜はぼったくりバーに連れ込もうとする人がいるから気を付けてね」(意訳)と言われました*5
  • 筆者が中国語もできるという話から、「中国語のニックネームがある」と言われたので何なのか訊いてみたら「我叫帅哥」って返されて笑いました。

最後お茶に誘われてお断りしたのですが、たぶん絨毯販売の客引きだったのかな。

トルコ・イスラーム美術博物館

続いて、広場の北西側に建つトルコ・イスラーム美術博物館に向かいました。 こちらの建物、今は博物館ですが、元はイブラヒム・パシャ(スレイマン1世の寵臣)の邸宅だったそうです*6

  • MUSEUMPASS TÜRKİYEで入れました。
  • 2時間半ほど滞在しました。
  • 展示は概ね時代(王朝)の順番に並べられていました。
  • 解説パネルはトルコ語と英語が併記されていました。
  • 展示室に入ってから音声ガイドがあることに気が付いたのですが、借りそびれました。入場前に確認したほうが良いかも?

ウマイヤ朝の石板。 墓碑か何かかなと思ったら、パネルには"mile stone"と書かれていました。 交通の話はかなり気になるので、中に何が書かれているのか興味を惹かれました(読めないけど)。

同じくウマイヤ朝クルアーン写本。 何ともかわいらしい(?)書体で、ウマイヤ朝にしては書体が新しいのでは?と思ってパネルを見たら、"Umayyad Period. North Africa, late 12th or early 13th century"と書いてありました。 「すぐわかるイスラームの美術」(参考文献[2])のp.76, p.77と見比べてみると+北アフリカで書かれたものということを勘案すると、マグリビー体な気がします。

セルジューク朝の焼き物。 左下のボウルの絵、人物の髪型にどことなく東洋らしさを感じる気がします。

マムルーク朝の、モスクのガラスランプ。 この時代は宗教施設の建築が盛んで、それらの内部を照らすためにこのようなガラスランプが大量に製造されたそうです*7。 文字文様や植物文様などを組み合わせて表面が美しく飾られています。 ただ、装飾が多い分透過性が低くなる気もして、ランプとして機能するのか少し気になりました。

同じくマムルーク朝クルアーン写本。こちらは見慣れた(?)書体ですね。 ただ、右側の装飾された枠内の文字は他とは異なる書体のようです。たぶんクーフィー体? あと、枠外余白の文字が何なのか気になります。もしや後から使用者が書き込んだものとか...?

ちょっと気になったのが、サファヴィー朝時代のこちらの器。 パネルには"Kashkul(Beggar's Bowl)"と書いてあったので、托鉢に用いる容器だったようです。 こんなに綺麗に装飾された容器で本当に托鉢に行ってたのかな...?

こちらの木製品は、確かルーム・セルジューク朝かベイリク時代あたりのもの。 精緻な彫刻もさることながら、木製品が数百年もきれいにのこっていること自体がすごい気がします。

こちらは確かオスマン帝国の勅書か公文書? 上半分を占める華やかな装飾は恐らくスルタンなどのトゥグラ(花押)ではないかと思います。 どの文書も左上がりに書かれているのですが、わざとでしょうか。

オスマン朝のエリアには絨毯も多数展示されていました。

オスマン朝まで一通り見終わって中庭に出たのでこれで終わりかな、と思ったのですが、"Ethnography Hall"と書かれた展示室があったので入ってみました。

主に近代の市民生活や民俗についての展示のようで、ハマム、コーヒーハウス、絨毯など様々な文化についての解説と展示がありました。

影絵芝居(カラギョズ)に用いられる人形(?)。 影絵芝居と言えば東南アジアのイメージがあるのですが、どうも中国→東南アジア→マムルーク朝オスマン帝国と伝来してきたという説も有力なようです*8。 海の交易が伝えた文化だとしたら、とても興味深いです。

驚いたのはこちら。絵かと思いきや、なんと絨毯でした。 イスタンブールの街の様子絵が描写されており、アヤ・ソフィアやガラタ塔などが判別できます。

アト広場(ヒッポドローム跡)

美術館を出て正面の広場、アト広場(トルコ語で馬広場という意味のようです*9 )。 ただの広場ではなく様々な古代の文化財が並んでいます。

こちらは古代エジプトオベリスク。 もともとは紀元前15世紀にエジプトの神殿に立てられたものだそうです。 それをコンスタンティヌス1世の時代に輸送し、次のテオドシウス1世の時代にこの広場に立てたとのこと*10*11

オベリスクの台座の四面には浮彫が施されています。 左の写真にはオベリスクを立てるときの様子らしきものが描かれており面白い。

続いて、serpent columnと呼ばれる*12こちらのらせん状の柱。 ペルシア戦争での戦勝を記念して古代ギリシャで作られ、元来はデルフォイの神殿に納められていたものだそうです*13。 もともとは先端には蛇の頭3つがついていたとのこと*14。 この柱と言いオベリスクと言い、帝国各地からいろいろと持ってきて飾ってるな。。。

最後に、こちらの角柱。解説をざっと読んだ限りでは、これも古代ローマから残る品のようです。

さて、これらの柱は一直線上に並んでいるのですが、それも訳あってのこと。 というのも、この広場は往時は広場ではなく戦車競技場(ヒッポドローム)のトラックで、これらの柱はトラック内側の分離帯としての役割を果たしていたそうです*15オベリスクの台座の写真を見返してみると、馬に引かれた戦車(チャリオット)が描かれており、これは戦車競技の様子を描いたものかもしれません。

なお、この近くに皇帝の宮殿もあって現在は大宮殿モザイク博物館となっているのですが、私が訪れたときは閉鎖中でした。

昼食

広場から南に向かい、手近なお店で昼食にしました。

観光客向けのお店だったからかお高めで、これで300TLくらいした記憶があります...。

レストランの前はけっこう狭い道(車がすれ違えないくらい)だったのですが、食事中にアスファルトを積んだトラックが来て、道路の補修工事が突然始まって少し驚きました。 特に通行規制とかもせずにサクサク工事を進めていたのが印象的でした。 工事の車両や機械の排ガスがひどかったのですが、お店のスタッフがすぐにドアを閉めたので、排ガスに悩まされずに食事できて助かった。

ソコルル・メフメト・パシャ・ジャーミィ

レイマン1世をはじめ3代のスルタンに仕えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャ*16が建てたモスクです。 建造年は1571年*17

急斜面に建っており、斜面の下の入り口*18から入ると、階段をのぼりながらトンネルの奥にモスクの姿が見えてくるのが面白かったです。

それほど大規模なモスクではなく、観光客も非常に少なく落ち着いた雰囲気でした。

内部は青のタイル装飾が美しかったです。

ミフラーブ横のタイルを拡大。

中央にはドームを戴いています。 翌日に訪れたスルタン・アフメト・モスクなどでは中央の大ドームを支える柱は確か4本で、こちらは6本のタイプ。 以前は「大ドームを小ドームで支えるのはオスマン帝国のモスクあるある」という雑な理解だったのですが、支柱の本数や小ドームの配置など、いろいろとバリエーションがあるなー、と思いました*19

なお、写真撮影を制止されたという話もインターネット上で聞いた(要出典)のですが、私は特に止められませんでした。 ただ、これはムスリムの家族連れ*20が写真を撮ってる横で私も写真を撮っていて、目立たなかったからかもしれません。

イスラーム科学技術歴史博物館

  • MUSEUMPASS TÜRKİYEで入れました。
  • 約1時間滞在しました*21
  • 解説はトルコ語、英語、あと3言語(たぶんドイツ語とフランス語とアラビア語)の併記でした。ただし、動画の展示はトルコ語のみだったような気がします。
  • 展示構成は分野別でした。

天文学

ずらりと並べられたアストロラーベ厨二病心(?)をくすぐります。 解説を読んだかぎりではレプリカのようですが、これだけ並べられると壮観です。

近づいてみてみると、アラビア文字が刻まれていることが見て取れます。 これの意味を(数理的な部分も含めて)理解して実際に使えたらかっこいいだろうなー、と思ってしまいました。

サマルカンドのウルグ・ベク天文台の模型。

こうやって使ったそうです。

不思議な観測機材いろいろ。

もろもろの観測機材がどういう原理で動いているのかきちんと理解できなかったのですが、当時の天文学がどのようなものだったのか、興味をかきたてられました。

兵器

投石器など?

こちらは城門を破るための攻城兵器。 ただ、当時の書物の内容を元に再現した模型だそうなので、当時実際にこのような兵器があったのかは分からないです。

物理(というか力学???)

水の流れを利用した揚水ポンプ。 ただ、これも写本の説明から作った模型のようなので、実物があったかどうかは私にはわからないです。

解説には"Ship mill"と書かれていました。 写本に基づく模型のようですが、解説には"This type of mill was in widespread use throughout the Islamic world. "とも書かれていました。 据え置き型じゃなくて船にした理由が気になります。

建築

主にモスク建築の模型が展示されていました。 特にオスマン帝国のものが多かったと思います。 オスマン帝国のモスク、「大ドームを複数の小ドームが支える」という形式のものが多くて一見どれも似ているのですが、模型で見ると柱や小ドームの個数などの違いがとても分かりやすかったです。

スルタン・アフメト・ジャーミィ(通称ブルーモスク)。 ドームを支える支柱は4本で、4つの小ドームが横から主ドームを支えています。 実物は翌日見に行きました。

スレイマニエ・ジャーミィ。 こちらもドームを支える支柱は4本ですが、小ドームは2つだけです。アヤ・ソフィアと似た配置になっています。 こちらも実物は翌日見に行きました。

エディルネのセリミエ・ジャーミィ。 こちらは8本の支柱を使っていて、上の2者とは大きく印象が異なります。 本当はエディルネで実物も見たかったのですが、この旅の間は修復工事中だったようなので、エディルネには行きませんでした。 また次の機会を狙いたいと思います。

ちなみにイスラーム建築については日本でもそこそこ本が出ているので、トルコに行く前に読んでおきました。 解像度が上がる気がするのでおすすめ。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

他にも、数学、化学、地質学などの分野の展示室がありました。

全体的に興味を惹かれ「もっと詳しく知りたい!」と思わされる展示でした。 ざっと調べた限りでは以下の本とか読んでみたい。

リュステム・パシャ・ジャーミィ

トラムに乗って移動し、北のエミニョニュに向かいます。

このときは大統領選挙中で、広場では両陣営の旗や車が見られました。

で、お目当てはこちらのリュステム・パシャ・ジャーミー。 スレイマン1世の娘婿にして大宰相のリュステム・パシャ*22の建てたモスクです。 建設年は明確ではないものの、おそらく1562年ではないかとのこと*23

姿はもう見えているのですが、入り口は狭い路地に面していて、見つけるのに少しかかりました*24

こちらが一見質素な入り口。でもきちんと案内があってありがたい。 ここから階段を上って2階にモスクがありました。 現地でどうなっているか確認し忘れたのですが、当初から1階は倉庫や商店として利用されていたそうです*25。コンヤで見たカプ・ジャーミィもこのパターンだった気がする。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

2階に上がったところ。 こちらの正面は礼拝者用の入り口で、観光客向けの入り口は横にあります(親切に"Tourist Entrance"と案内が書かれていました。)。

内部の壁は多くのタイルで装飾され、美しい空間を作り出しています。

タイルを近くで見ると、様々な模様のものがあることが見て取れます。

基調となる青と白のコントラストも美しいのですが、赤色も綺麗。 確か釉下彩の赤を綺麗に出すのって難しいんじゃなかったっけ...?*26

こちらのドームは8本の支柱で支えるタイプですね。

あまりに綺麗だったので、モスクの端の方に座って、しばし時間を忘れて見入ってしまいました。 大きなモスクではありませんが、40~50分くらい滞在してしまいました。

イェニ・ジャーミィ

エミニョニュに来たお目当ては先ほどのリュステム・パシャ・ジャーミーだったのですが、トラムを降りてすぐのところに大きいモスクがあり、気になったので寄ってみました。

google mapsで調べたらYeni Camiという名前なので新しいものかと思った*27*28のですが、1664年完成なので、十分古い気がします。なお、基礎工事が始まったのは1597年ですが、地盤が緩くて工事が難航したり、建築家がペストで亡くなったり、さらに工事が中断されたりと紆余曲折を経ているそうです*29

中庭から見てもなかなかの威容。

中に入ると、カラフルで淡い色合いの装飾のせいか、どことなくヨーロッパの教会に似た印象を受けました*30。 ソコルル・メフメト・パシャ・ジャーミーやリュステム・パシャ・ジャーミーに比べると観光客が多かったです。

タイルにしては色合いが淡いし、継ぎ目も見えないなーとぼんやり思っていたのですが、下の方はタイル装飾、上の方はフレスコ画による装飾になっていると後から知って納得しました*31

主ドームを4本の柱と4つの小ドームで支える構成。

なお、今回は行かなかったのですが、この隣にムスル・チャルシュ(英語での通称エジプシャン・バザール)があり、そちらはこのモスクに付属するものとして建造されたそうです*32

夕食

再びトラムに乗って、ホテル近くまで移動。

夕食は3日続いて同じロカンタにしました。 他のお店はケバブ推しのところが多かったのですが、煮込み料理やスープ(チョルバ)が好きなので、ついついここに通ってしまいました。 お値段70TL(この日は確か鶏肉だったのでお安め。)。

翌日に続きます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

*1:参考文献[1]p.69「ユスティニアヌス一世が六世紀に建造したこの巨大な地下貯水槽は、近代に至るまで朧げにその存在が認知されながらも、正確な位置の知れないミステリアスな施設でもあった。」

*2:現地の解説パネル "The Basilica Cistern, one of the most important witness of Istanbul's glorious history, was built by the Eastern Roman Emperor Justinian in the 6th century."

*3:参考文献[1]p.69(オスマン帝国の泉亭と、古代ローマの地下宮殿の文脈で)「もっとも、近世イスタンブールが泉亭という優れた水道施設を備えたのは、裏を返せばそれだけの設備投資をしなければ水を得られなかったということ。実はこの街は地下水に乏しく、地面を掘っても出てくるのは塩交じりの水ばかりという渇水都市でもあるのだ。」

*4:通称もこの解説も、いずれも現地の解説パネルより。

*5:日本でも噂は聞いてました。

*6:参考文献[1]p.57「白と灰色の端整なスルタン・アフメト・モスク(ブルー・モスク)、大堂宇と対面していまはトルコ・イスラーム美術博物館となったイブラヒム・パシャ邸など」p.60~p.61にはイブラヒム・パシャと、美術館になる前の邸宅についての記載もあります。

*7:参考文献[2]p.124「マムルーク朝の有力者は競ってワクフ(財産寄進制度→32頁)による宗教施設を建設したが、その内部を照らすランプもワクフの一部として大量に制作させたのである。」

*8:参考文献[1]p.105~p.106「起源については遊牧民由来説、自然発生説など諸説あるものの、マムルーク朝征討によって一六世紀初頭にエジプトから入ってきた芸能であるのはほぼ確かだと言われる。ということは、中国に発する人形劇がベトナムやジャワを経てムスリムの海たるインド洋を介して伝わったと考えるのが自然であろう。」

*9:参考文献[1]p.56「トルコ語でアト(馬)広場(スルタンアフメト広場とも)と呼ばれ、」

*10:参考文献[1]p.57「表面に聖刻文字が刻まれた四角錐の巨大な方尖柱(オベリスク)は、もともとメギドの戦いに勝利し古代エジプトの最大版図を築いたトトメス三世(紀元前一四七九-一四二五)がテーベ近郊に建てた護石(テケン)である。コンスタンティヌス一世の時代に戦利品として運んできたものの、あまりにも巨大なため次代のテオドシウス一世(在位三七九-三九五)の時代にようやく現在の場所に据えられた。」

*11:現地の解説パネル "Several obelisks were transported from Egypt to Rome. It was Constantine the Great who displaced this one in order to decorate his new capital, yet the delivery took long for unknown reasons. It was during the reign of Theodosius I that the obelisk was re-erected in its current place. "

*12:現地解説パネル

*13:参考文献[1]p.iv「...オベリスクの隣の三蛇頭の円柱を示す。見よ、あれこそがペルシア戦争において野蛮にして隷属的なオリエントの民を降した偉大なアテナイ人たちが戦勝を祝してデルフォイ神殿に奉納した神器にほかならないのだ、と。」

*14:参考文献[3]p.128「このうちデルポイアポロン神には、戦利品の一割を使用して黄金製の鼎が奉納された。この鼎は青銅製の三匹の蛇によって支えられていたが、本来の記念物の主役だった黄金製の鼎は早い段階で持ち去られてしまい、蛇の銅柱像のみが奉納されてから約八〇〇年間、デルポイの聖域に残った。しかし、四世紀前半にローマ皇帝コンスタンティヌス大帝が、おそらくは対サーサーン朝ペルシア戦の縁起物として、これを新首都コンスタンティノープルの競馬場へと運び出した(4-2)。」「現在でも、トルコ共和国イスタンブル市のスルタン・アフメト・ジャーミィ(通称「ブルー・モスク」)脇に位置する「馬の広場」で、頭部が落ちて身体だけになった姿の「蛇柱モニュメント」を目にすることができる。」往時の姿の復元想像図も掲載されています。

*15:参考文献[1]p.58「実は、いま私たちが立っているこの場所は本来、広場にあらず、ローマ式戦車競走が行われた戦車競技場(ヒッポドローム)のトラックであり、巨柱群は戦車が周回したスピナ(分離帯)に当たるのである。」

*16:参考文献[1]p.44 (デヴシルメの説明の文脈で)「叩き上げの一兵卒からスレイマン一世に見いだされソコルル・メフメト・パシャ(一五〇五-一五七九)などはその典型で、帝王三代に仕えた名宰相として知られ、晩年には故郷に橋や泉亭を建設している。」

*17:参考文献[4]p.209

*18:複数の入り口があるのですが、たぶんこれが正面の入り口だと思います。

*19:このへんは行く前に参考文献[4]を読んで意識するようになりました。

*20:女性がスカーフを髪に巻いていたので、おそらくイスラーム教徒かな、と推測。

*21:ただし、ざっくりしか見てないです。解説を真面目に読んだら時間もっとかかったかも。

*22:参考文献[5]p.159~p.160

*23:参考文献[4]p.210

*24:と言ってももしかしたらもっと目立つ入り口があって私が見逃しただけかもしれません。

*25:参考文献[4]p.210「高さ6mほどの1階のすべてを倉庫と商店にし、その上にテラスと礼拝室を建設している。」

*26:素人のあやふやな記憶です。

*27:トルコ語のyeniは「新しい」の意味

*28:ただ、正式名称はイェニ・ヴァーリデ・ジャーミーなので、単なる「新しいモスク」という意味ではなさそう。

*29:参考文献[4]p.235

*30:イスタンブール旧市街はヨーロッパでは?」という突っ込みがきそうなので補足すると、より西側の中欧・西欧のキリスト教文化圏、くらいの意味合いのつもりです。

*31:参考文献[4]p.237「室内装飾では、4本のピアの約2/3の高さまでと、2階ギャラリーは窓の上端の高さまで、青を基調としたタイルで覆われている。それより上は、フレスコ画による装飾である。」

*32:参考文献[1]p.82~p.83「グランド・バザールと並び称されるこのL字型の屋内商店街は、もともと近傍のモスクの付属施設として建造された。ウンカパヌの海岸にでんと構えるイェニ・ヴァーリデ・スルタン・モスク、通称イェニ・ジャーミィである。」

王力「古代汉语常识」(古代漢語常識)

9月の河西回廊の旅で木簡や石刻(石碑や墓誌など)をいくつも見て「古代漢語(いわゆる「漢文」)を読んでみたいなー」という思いが強まったので、はじめの一歩として王力「古代汉语常识」を神保町の内山書店で購入しました*1

裏面の説明を見ると、古代漢語の入門者のために、王力の書いた文章を集めて編集した本のようです。 想定読者は小学生~高校生のようで、比較的平易な文体の中国語で書かれていたので、それほど苦労せずに読めました。 ただし、後半1/3くらいは読んでいません。

書誌情報など

  • 著者 : 王力
  • タイトル : 古代汉语常识
  • 出版年 : 2020年
  • 出版社 : 中华书局
  • ISBN : 978-7-101-14686-8

簡体字、横書きです。 目次は出版社の公式ページ(「图书目录」の箇所)または豆瓣读书のページなどに記載があります。

なお、これは2020年に中华书局から出版されたものです。 他の年の他の出版社によるものもいくつかあり、ざっと調べた限りだと章立てが異なるものもあるようです。

内容と感想など

漢語の歴史の概観や古代漢語を学ぶ理由や学習の心構え(?)などから始まり、現代漢語と古代漢語の語彙や文法の違いなどを具体例を交えながら説明し、最後の方では暦法の話まで扱っています*2

心構えの箇所では「常用単語は1000-1200くらい。頻出単語だけ覚えればよく、マニアックなものを無理に覚えなくて良い。」「一見簡単な文字や単語ほど、辞書を引かずに分かった気になってしまい、誤った意味で解釈してしまいがちなので、要注意。」「古代漢語で書かれた文書を、ある程度の量は読むべし。ただし、精読が大事。初学者はいきなりたくさん読まなくて良い。まずは中学/高校の教科書の古代漢語の文章を読む。」(超ざっくりした要約)あたりが印象に残りました。当然と言えば当然の話ですが、勉強する前に釘を刺してくれるのはありがたい。

語彙や文法については現代漢語との違いを具体例も交えていて、重点的に解説していました。 たとえば、

  • 「再」は上古では「二回」「第二回」を意味し、「またもう一度」という意味はない。たとえば、「五年再会」と書いたら、「5年の間に2回会う」という意味で、「5年後に再び会う」という意味ではない。ただし、唐宋以降は現代と同じ意味でも用いられる*3
  • 通常は動詞と目的語は「{動詞}{目的語}」の順番だが、否定文中で、目的語が代名詞のときは「{目的語}{動詞}」の語順になる*4

などなど*5。 特に、よく使われる虚詞18個の意味をまとめて解説した部分*6は、読解などで詰まったときに見返すと役立ちそうです。

ただ、もともと別個に書かれた文章を集めてきたためか、異なる章の間で内容に重複がそこそこ見られます。また、元々書かれた年代が古い(著者は1980年代に亡くなっている)ため、注意が必要かもしれません。たとえば、新しい工具書*7に言及はありません。

「現代漢語はある程度できて、古代漢語を学びたい」という私にとっては、気軽に読んで得るところがあった本だと思います。 ただし、上に書いたように体系だった教科書として編まれたものではないので、お薦めできる本かどうかはよくわからないです。

この後何を読むか

上にも書いた通り、「まずは中学・高校の教科書の古代漢語の文章を読むべし」と言われているのですが、ネイティブほどは現代中国語ができるわけではない*8ので、もう少し敷居を下げて(?)千字文あたりからかなー、と考えています。

具体的には、古勝隆一先生の文言基礎の千字文をコツコツと進めたいと考えています。 xuetui.hatenadiary.org

ゆくゆくは「古代汉语」と銘打たれたような教科書にも手を出してみたいです*9。 「古代汉语」と題した教科書は数多いのですが、こちらの知乎には13冊を比較した長大な記事があり、参考になるかもしれません : 【书荐】十三版《古代汉语》教科书简要对比

*1:少なくとも中国の文献史料を読むなら漢文訓読を経由しなくて良いのではと思ったので、漢文訓読を経由せずに中国語で学ぶことにしました。王力「古代汉语」などは自分にはまだ読めなさそう。。。

*2:ただし、暦法の話は読んでいません。

*3:以上、七,古代汉语的词汇(一)古今字义的差别 p.75より。他にも10個くらいまとめて解説してくれています。

*4:八,古代汉语的语法(二)词序 p.101~p.102より。

*5:このへん、きちんと漢文を勉強した方には「当たり前やん」と言われそうですが、高校のときの漢文の記憶があまり残っていない。。。

*6:八,古代汉语的语法 (三)虚词 p.103~p.124。解説している文字/単語は 而,夫,盖,乎,其,是,所,为,焉,耶,也,以,矣,与,哉,则,者,之。

*7:たとえば古汉语常用字字典

*8:単一の文字で出てきたときの意味の理解や、声調が怪しい文字が多い。

*9:とはいえかなり分厚い教科書が多いので、実際に読めるかは自信がない。。。

2023年トルコ旅行記 10日目 イスタンブール観光その1

2023年のゴールデンウィークのトルコ旅行10日目(2023-05-05)の記録です。 この日はトプカプ宮殿などの見どころを主に徒歩で周ります。 本文中にも書いたのですが、トプカプ宮殿に行くなら中公新書の「物語 イスタンブールの歴史」(参考文献[2])はおすすめです。

トルコ旅行全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

朝食

朝食はホテルのビュッフェ。

朝食を済ませて出かけようとしたら、ホテルから外に出るドアにこんな注意書きがありました。 "Dikkat"は既にいろんなところでたくさん見たので覚えました。 扉の外にうっすら見えるラインがトラムの線路で、しかもトラムと歩道も近いので要注意。

Sirkeciの辺りのホテルにしたので、この日徒歩移動のみで済んで便利でした。

トプカプ宮殿

全体概要

  • 定休日は火曜日でした(私が行った当時は)
  • MUSEUMPASS TÜRKİYEで入りました。
  • じっくりまったり見て、5時間ほどかかりました*1
  • 屋内は撮影禁止と書いてあるところが多かったのですが、写真を撮っている観光客は多く、スタッフも制止しないし、なんなら「photo allowed, no flash」と言ってるスタッフもいました。 ということで、屋内も遠慮せず写真を撮りました。

敷地が広い上に部屋数も多く、モスクみたいな分かりやすさもないので要注意。 何がどこにあって、それぞれの空間が何に使われていたかを頭に入れてから行くのがおすすめです。 私が読んだ中では「世界のイスラーム建築」(参考文献[1])と「物語イスタンブールの歴史」(参考文献[2])に詳しい情報があり、特に[2]はそれぞれの空間の用途が詳しい上に、往時の賑わいの様子も(もちろん想像ですが)描写されていて、時間を超えて旅行しているような気持になれて素晴らしかったです。私は現地に[2]を持って行って、宮殿内で対応する箇所を読んだりもしました。

宮殿自体は、複数の庭園(中庭)とそれを囲む建物(と庭園に立つキョスク)から構成されています。 大きな建造物が連なる西欧や中国の宮殿とは異なる様相を呈しています。 これは、草原にテントをはっていた遊牧民の伝統の影響を受けたものかもしれない、という説もありました*2*3

さて広大なトプカプ宮殿ですが、大雑把に分けると、4つの庭園と1つのハレムから成ります(上の写真の案内図参照。)。

第1の庭園

一番外側の第1の庭園は入場券なしで入れます。

往時も、許可を得た市民も立ち入りができたそうです*4。 また、動物を放して狩猟にも興じていたとか*5*6

上の写真の「挨拶の門」と呼ばれる門をくぐって第2の庭園に入ります。 ここでチケットの確認がありました。

第2の庭園(外廷)

第2の庭園は外廷とも呼ばれ、公的な政治の場としての役割を担っていたようです*7*8

厨房の展示など

第2の中庭入って右手には厨房が広がっています(写真でも微妙に煙突が見えます。)。

中から厨房の天井を見たところ。ドーム構造の上に煙突がついているようです。 上の2つの写真でドームのかけ方が異なるように見えるのが面白い。

厨房内部には当時の調理器具や食器などが展示されています。 右の写真はタジンみたいなのですが、解説には"helva dishes"と書いてあったので違うようです(helvaはお菓子の一種)。

シャルベット*9を入れる容器いろいろ。 一番左のものは明朝の永楽年間のものと書かれていました。 これ元から蓋や注ぎ口がついていたのか、それとも中国で作られた当初はついていなくて後からつけたのか、気になりました。 当初の想定とは異なる用途で使われているとしたら面白いし、逆に中国でわざわざシャルベット容器として生産されていたとしても面白い。

中国陶磁のコレクションもありました。 ここに見える3つの青花(染付)は元朝時代14世紀のものと書かれていました。 元朝の青花が好きなので美術的な面でも気になるのですが、一方でどういう経路で元朝の青花がここまでたどり着いたのかも気になりました*10

たぶんこの本とかに詳しそう。 www.nhk-book.co.jp

こちらはもう少し新しめの中国陶磁たち。

円蓋下の間/議会の間

庭園をはさんで厨房の向かい側には、塔を戴く建物があります。 この建物(部屋?)は「円蓋下の間/議会の間」と呼ばれ、ここで御前会議が開かれていたとのことです*11オスマン帝国の政治的中枢がまさにこの目の前の場所にあったのだと思うと感慨深いです。

議会の間の入り口。解説パネルによると、建物は16世紀の建造のようですが、正面の装飾などは18世紀末から19世紀初めに今の形になったようです。 いかにもそのあたりの時代のロココ様式っぽさを感じます(偏見)。 入り口両側にスルタンの花押(トゥグラ)と銘文が書かれているのが印象的です。

銘文自体は私には読めないのですが、銘文の左下をよーく見ると年の記載があり、これは読めました(以前イラン旅行のためにアラビア語・ペルシア語での数字表記を覚えた記憶がギリギリ残ってた。)。 おそらく1207年と書かれていて、西暦に換算すると1792年~1793年頃のようです*12

内部は意外と簡素でした。 御前会議の際、スルタンは奥の透かし窓の裏に座し、会議を見守っていた(?)そうです*13

続いて、「至福門」をくぐって第3の庭園に入ります。 ちなみに、第2の中庭で儀式を行う際には、ここにスルタンの玉座が置かれたそうです*14

第3の庭園(内廷)

第3の庭園は内廷という別称からも示唆される通り、第2の庭園と比べると公的な色彩は弱くなるようです*15*16*17

ここには内廷学校と呼ばれる教育機関も置かれ、デヴシルメで徴用された少年たちの中から選抜されたエリート予備軍たちが教育を受けていたそうです。このへんは「物語イスタンブールの歴史」(参考文献[2])のp.43~p.46が詳しかったです。往時の姿が生き生きと目に浮かぶような描写だったので、おすすめです。

現在、第3の庭園を囲む部屋の数々は、現在は数々の美術・工芸品などが展示される空間となっていました。

こちらは16世紀のカフタン。

少し驚いたのが、こちらの服。

よーく見ると細かい文字がびっしりと書き込まれていました。 解説パネルにはTalismanic Shirtsと書かれており、厄除け(?)のためにクルアーンからの聖句などが書き込まれているそうです。 このへん、文化圏は違えども日本の耳なし芳一の話と近いものを感じます。

文字だけでなく、魔法陣のようなものが描かれたものもありました。

他にも多数の豪奢で美しい服が展示されていました。 服飾への興味が薄い私でも面白く感じられたので、興味がある人はもっと楽しめそうです。

宝物室

宝物室にはまばゆいばかりの品々が展示されていました。 上のはクルアーンのためのカバー(?)。

こちらは武器の数々。とはいえ豪華な装飾が施されているので、儀礼用のものでしょうか。

これはなんとゆりかご。 実用に供されていたのかどうか疑ってしまうくらい豪華です。 こんな豪勢なゆりかごで過ごせる子供は将来も人生イージーモードかと思いきや、兄弟殺し*18の話もあるのでたぶんそうでもない気がする。ということで、どこも大変だな、などとよくわからん感想を抱きました。

あ、でも帰ってから本をきちんと読み直したら17世紀には兄弟殺しの慣習は廃れたようなので、このゆりかごが作られた時代*19にはもうちょっと平和になっていたようです*20。軟禁に近い状態ではあったようですが。。。*21

聖遺物の展示室

トプカプ宮殿自体は世俗の建物ですが、ここだけはモスクに準じた服装を求められました。

聖遺物の展示室ではクルアーンの朗誦が流れていて、録音と思いきやその場で朗誦している人がいました。 観光客でごった返す中で写真や動画を撮られながら読むの大変だろうな。。。

私はあっさりとしてか見ていませんが、他にもイスラームに関わる様々な品々が展示されていました。 「物語イスタンブールの歴史」(参考文献[2])p.42によると、第三代カリフのウスマーンが暗殺されたときに手にしていたとされる(本当かどうかは不明らしいです)クルアーンも展示されているそうです(もしかしたら上の写真のものかも?)。

図書館

第3の内廷の中には小さな図書館もありました。 本好きとしてはとても気になる。

入り口には銘文が記されていました。 1131年という紀年だけは分かる。 写真右はその翻訳(たぶん)。

ちょっと面白かったのが、本が縦ではなく横に寝かせる形でおかれていたこと。 当時も実際にこのように置かれていたのかが気になるのですが、そうだとしたら下の本を取り出すのが大変そうなので、なんでこの置き方をしているのか気になるところです。

あとそもそもどんな蔵書があってどう活用されていたかも気になります。 クルアーンとかが一番ありそうだけど、内廷学校の生徒の教育のための本とかもあったのかな。

第4の庭園

続いて門をくぐり、最奥部の第4の庭園に向かいます。

バグダード・キョスク。1638年のバグダード征服を記念して建てられたそうです*22*23。 かつてはスルタンが朝食を摂る場所だったとか*24

メジディエ館と呼ばれる西洋風の建物もあったのですが、そちらは軽く見ただけで写真は撮っていません。

ここの庭園からはボスフォラス海峡(たぶん)を望むことができます。 ところで右の写真の左側遠くに巨大な塔のようなものが映っていて正体が気になるところ。

ハレム

最後にハレムに向かいます。ハレムへの入り口は第2の中庭にあるので、いったん来た道を戻る必要があります。 また、ハレムは別料金ですが、MUSEUMPASS TÜRKİYEには含まれていました。

ハレムに足を踏み入れたときの最初の感想は「空が狭いな」というものでした。

ハレムというと豪奢に飾られた空間かと思っていたのですが、ハレムの女性の大半を占める女奴隷は上の写真のような意外と質素な部屋で集団で生活していたようです*25

こちらは一転して優美な装飾が施された帝王の間。 ちなみにトプカプ宮殿はガイドに率いられた団体客も多く、特にハレムのこの部屋は団体客が滞留しがちでした。

泉亭と昼食

トプカプ宮殿、9時に入ったのにまったり見てたらあっという間に時間が経ち、出てきた頃には14時過ぎになっていました。 お腹もすいたので、昼食のお店を探します。

歩いている途中で見かけた建物。 確かアフメト3世のチェシメ(泉亭)のはず*26*27。 人々に水を供給するための場であると同時に、この泉亭は豪華な記念碑的な建物でもあったようです*28*29

このときは気に留めなかったのですが、銘板にはオスマン語の詩が書かれており、詩の結びの句に含まれるアラビア文字の数価を足しあわせると、泉亭の完成した年になる、というなんとも風流な工夫がこらされているそうです*30。これを現地で確認できなかったのは悔しい。。。 ちなみに泉亭の詩を巡るのを趣味にする人もいるそうです*31

このへんの話は東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の以下のエッセイとサイトに詳しい説明や具体例がありました。特に、後者では計算したい詩句を入力すると、自動で数価の合計を計算してくれるそうです。次は現地で使ってみたい(と言いつつ、そもそも先にこの文字を読めるようになる必要があるわけですが。。。)。

お昼は近くのケバブ屋さんで食べることにしました。 255TLでした。観光地価格お高い。。。

アギア・イレネー

昼食後、再びトプカプ宮殿方面に戻って、トプカプ宮殿の第一の中庭に建つアギア・イレネーを見学しました。

こちらは東ローマ帝国時代の教会で、オスマン帝国時代には倉庫に転用されたそうです*32

内部は装飾などもなく壁がむき出しになっていますが、そのぶん構造が分かりやすいです。

下の方は石材、上の方はレンガを組んでいることが見て取れます。

こちらも同様。 なお、このときアギア・イレネーは工事中で、工事用のネットがはられていました(上の写真左上に映りこんでいるのがそれ。)。

ということで、残念ながら室内を見渡すことはできず、ドームもこんな感じ。

イスタンブール考古学博物館

続いて、イスタンブール考古学博物館観光です。 アギア・イレネー、トプカプ宮殿いずれからも近く歩いてすぐでした。

  • このときは併設の古代オリエント博物館、チニリ・キョシュクはいずれも上の写真の通り閉鎖中でした。
  • 解説パネルはトルコ語だけでなく英語もある親切仕様でした。
  • トルコ全土のものが満遍なく展示されているわけではなく、西側のエーゲ海岸地域のものが多かったと思います。ギリシャ・ローマの文化を感じるものが目立ちました。
  • 展示品の配列ですが、時代別ではなく展示品の種類別(棺、コイン、土器/陶磁器)に並べられているところが多かったです。そのため、「トルコの歴史の流れを見る」という気持ちで行くと少し分かりにくいかもしれません。
  • 2時間半~3時間ほど滞在しました。

1階の棺を集めた展示エリアでは、シドン(現レバノンのサイダー)で発掘された豪勢な石棺がいくつも展示されていました。

中でもひときわ目を惹くのが、こちら、通称「アレクサンドロスの棺」。 といっても、アレクサンドロス大王が埋葬されているわけではないようです(要出典)。

人の背丈を超える高さも強烈な印象を与えますが、周囲の4面に精巧な彫刻も素晴らしく、思わず見入ってしまいました。

  • ペルシア?とマケドニア?の兵士が戦う場面(上の写真1枚目)がある一方、協力して狩りをしてるように見える場面(上の写真2枚目)もありました。なお、いずれの場面でも、マケドニア?側は全裸の兵士がいますが、これはギリシア彫刻の伝統でしょうか。。。
  • 浮き彫りの人物で腕が石棺の平面から浮いてる者は、手に何も持っていない者が多かったです。ただ、ポーズからして剣や弓などの武器を持っていたはずのように見えます。後から欠損した?
  • ところどころ、彩色の跡がある気がします。

屋根部分も芸が細かい。

アレクサンドロスの棺」以外にも、様々な棺が展示されていました。

個人的に気になったのはこちらの古代エジプトっぽい形の棺。 紀元前5世紀後半のものと書いてあって、この時期のレバノンあたりはアケメネス朝ペルシアの支配下だったと思うのですが、エジプトの文化が広がっていたとしたら少し意外に感じました。

彫刻など

こちらはバルケシル出土の紀元前5世紀の葬送碑(?)。 馬が運ぶのは被葬者が納められた石棺でしょうか。 その下の文字が何の文字*33で何が書かれているのか気になります。

古代ローマ時代の彫刻もこれでもかとばかりに展示されていました。

こちらはテュケーの石像。2世紀に造られたものだそうです。 石棺もそうでしたが、2000年前の造形技術の高さと保存状態の良さには思わずため息がでるほどでした。

土器/陶器など

2階には土器/陶器なども展示されていました。 写真のものは絵柄の部分が赤で背景が黒のタイプのものなのですが、逆に絵柄が黒で背景が赤のものもあったと思います。 どういう違いがあるのか気になる。

棺や彫像の展示(あと午前中のトプカプ宮殿も)で既にお腹いっぱいで、2階はざっと見るだけになってしまいました。 消化不良なところもあるので、また行きたいです。

夕食

今日の分は一通り観光し終えたので、ホテルに歩いて戻ります。

こういう街並みを眺めながら歩くのが好き。

夕食は前日と同じロカンタにしました。 スープはたぶんtavuk suyu、右奥のものはほうれん草+卵、手前のはたぶんtas kebabı。 確か170TL。

翌日に続きます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

*1:たぶん、普通はもっと短時間のはず。

*2:参考文献[1]p.130「トルコ族はもともと中央アジア出自の遊牧民だったので、その血の中に故地からの風習が根づいていたのかもしれない。民族性から考えれば、小亭が好んで造られたのはテントへの憧憬があったのかもしれないし、起伏を利用した庭園を造ることも、遊牧時代の生活空間の再現だったのかもしれない。」

*3: 参考文献[3]p.54「宮殿内部にいくつも建設されたキオスクは、おそらく遊牧民のテントに由来する独立した小規模建築で、それぞれの時代の趣味を反映した贅沢な造りを示す。」

*4:参考文献[2]p.38「この第一庭園までは、許可があれば民草も入城を許された、いわば宮中と市中を接続する外苑にあたった。」

*5:参考文献[2]p.38「獲物を放って狩競が楽しまれたほど広大」

*6:参考文献[3]p.54「一番外側の第一宮廷は広大な庭園で、狩りや宮廷行事が行われ、兵士が常住した。」

*7:参考文献[2]p.38「外廷は政庁や国庫が置かれた政の空間だ。」p.50「一方、いまは観光客が行きかうここ外廷庭園もただの庭ではない。よく晴れた吉日には内廷に通じる至福門の屋根の下に玉座が引き出され、論功行賞や各国大使の受任式が行われる儀式空間にさま変わりしたからだ。」

*8:参考文献[1]p.120「第二中庭には政庁、宮廷金庫、台所、厩舎などが配置され、公会議や王位継承式、使節の歓待などが行われた。小学校の校庭くらいの広さで、限られた人々の公的な空間であった。」

*9:解説パネルによると、果物、花、ハーブ、蜂蜜などで作った甘い飲料とのこと。

*10:というのも、これらの青花が作られた頃はこの宮殿はなかったはずだからです。元朝の滅亡が1368年、コンスタンティノープル陥落が1453年なので。

*11:参考文献[2]p.50「宮殿でもっとも高い塔を頂くこの建物が円蓋下の間。いまは観光客が日よけ代わりに群がる柱廊も、往時には屈強なイェニチェリたちによって厳しく警備されていた。この円蓋下の間こそが、オスマン帝国の意思決定を行う御前会議の開催場所であったからだ。」

*12:ヒジュラ暦から西暦変換」 https://keisan.casio.jp/exec/system/1299235060 を利用しました。

*13:参考文献[1]p.120「スルタンは議会の間で開かれる御前会議に、塔の中に設けられた玉座から格子越しに臨んだという。」

*14:参考文献[2]p.50「一方、いまは観光客が行きかうここ外廷庭園もただの庭ではない。よく晴れた吉日には内廷に通じる至福門の屋根の下に玉座が引き出され、論功行賞や各国大使の受任式が行われる儀式空間にさま変わりしたからだ。」

*15:参考文献[1]p.122「スルタンは平生の日中をここで生活していた。」

*16:参考文献[2]p.38~p.40「この外廷の北東に佇む第三の門が至福門、その先が内廷である。帝王の住まいやその個人的な富を収めた宝物庫、内廷学校と呼ばれるエリート養成機関が置かれた第三の庭園域である。」

*17:参考文献[3]p.54「至福門から入る第3宮廷はスルタンの執政と生活の場で、謁見の間や宝物庫、スルタンの私室(のちの執務室)、モスク、スルタンに直接仕える小姓の寄宿学校があった。」

*18:参考文献[5]p.65 : (メフメト2世の即位の文脈で)「即位したスルタンが、特に即位をめぐる係争がなくても予防的措置として行う「兄弟殺し」は、この時期から慣例として定着した。」

*19:現地のパネルによると18世紀

*20:参考文献[5]p.184「このため、次に即位したアフメト一世は、弟ムスタファを殺さずに残し、以後、新スルタン即位時の兄弟殺しは行われなくなった(一六○三年)。」

*21:参考文献[6]p.166「殺されなかった現スルタンの兄弟は、宮殿の奥深くに隔離され、そこで外界との接触を断って育てられた。これを、「鳥籠」(カフェス)」制度と呼ぶ。とはいえ、現スルタンの方針によっては一定の自由が与えられる場合もあり、王位継承候補と目される王子には十分な教育が与えられていた。

*22:参考文献[1]p.122~p.123「さらに北には一六三八年のバグダード征服を記念するバグダード・キョシュクがある。」

*23:参考文献[3]p.55(「バグダード・キオスク」の写真のキャプション「ムラト4世がイラクバグダードでの戦勝を記念して建てた。」

*24:参考文献[2]p.49「さきほどは足を踏み入れなかったハレム庭園の西の隅には、バグダード館が佇んでいる。帝王が金角湾を眺めながら朝食を摂る館であるが、この隣に噴水と池が設えられ、往時にはハレムの女性たちが遊ぶことがあったのだ。」

*25:参考文献[2]p.47「彼女たちの多くはギリシア系かスラヴ系の奴隷で、大半は広い小上がりに布団を並べて起居する大部屋暮らしの身の上。」

*26:参考文献[2]p.55「帝王門を出ると目の前に、灰色の鉛屋根を頂く東屋のような建物が目に入る。チューリップ時代(一七一八-一七三〇)の象徴としていまも愛されるアフメト三世の泉亭(チェシメ)だ。」

*27:参考文献[4]p.255の写真。

*28:参考文献[2]p.55~p.56「泉亭とは市民に無料で水を供する施設で、オスマン期には帝都の津々浦々に泉亭が造られた。」

*29:参考文献[4]p.255「チェシメは昔から田舎の村の広場や辻などにも建設され、様々な形態のものがあるが、ここで扱うチェシメ建築は、街の広場を飾る目的で建てられた特に豪華なものである。」

*30:参考文献[2]p.68(ドイツの泉の文脈で)「それがたとえどんな小さな泉であっても、必ず記年詩(紀年銘とも)と呼ばれるオスマン語の詩をあしらった銘板が掲げられ、その結句のアラビア文字の数価を足すと、泉亭の完成年が現れるという趣向が凝らされているのである。

*31:参考文献[2]p.68~p.69「こうした記年詩大全の類は帝国期から今日まで出版され続け、いまでも泉亭・記年詩探訪を愛好する人が一定数いる。泉亭巡りは、言うなればイスタンブールの街歩きの隠れた人気者なのだ。」

*32:参考文献[2] p.53「オスマン期、ビザンツ教会は往々にしてモスクへと転用されたが、聖エイレーネー教会は具足工房(ジェベハーネ)へ改組され、宮殿外郭の倉庫として便利に用いられて今日に至る。」

*33:フェニキア文字とかアラム文字あたり???