世界史ときどき語学のち旅

歴史と言語を予習して旅に出る記録。西安からイスタンブールまで陸路で旅したい。

2023年トルコ旅行記 12日目 イスタンブール観光その3

2023年のゴールデンウィークのトルコ旅行12日目(2023-05-07)から13日目の記録です。 この日がトルコ最終日、イスタンブール3日目にしてアヤ・ソフィアとスルタン・アフメト・ジャーミィ(ブルーモスク)を訪れました。

トルコ旅行全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

アヤ・ソフィア

  • 2024年1月のニュースで、アヤ・ソフィアが入場料を徴収するようになることと、1階の見学が海外の非イスラム教徒の観光客については制限される旨のニュースを聞きました(詳細未確認)。以下の内容は2023年5月の訪問時のものであり、これから訪れる方は最新の情報をご確認ください。
  • このときは入場無料でした。
  • 1時間半ほど滞在しました。

朝食をホテルで済ませて、歩きでアヤ・ソフィアに向かいます。

朝9時過ぎの時点でこの長蛇の列。この右奥の先にアヤ・ソフィアがあります。 並んでるときに小学生くらいの団体に「写真一緒に撮って!」(たぶん)と言われて写真を撮られまくってました。 学校で修学旅行(?)か何かで来ているようで、引率の先生らしき人曰く「うるさくてすみません、田舎の子供たちには海外の人は珍しくて」とのこと。

外観。 約1500年もの歳月を経て今なおここに建ち続けているという事実に驚きを禁じえません。 と言っても、無傷で生き残ってきたわけではなく、地震などでドームが何度か崩落したそうです*1*2

主ドームを小ドームが支える、という形式はオスマン帝国のモスクに受け継がれたわけですが、後世のオスマン帝国のモスクに比べるとバットレス(?)がどえらく目立つ気がします。 これも技術の進歩によるもので、後世のモスクは安定した構造を確立したということでしょうか。

入り口には、ここがモスクであることが宣言されていました。 思えば、キリスト教会→モスク→博物館→モスクと変遷を経てきたというのも感慨深い。 近年のモスクへの変更が議論を巻き起こしたことは記憶に新しいです。

内部に入る直前。この角度からの写真を見ることはあまりなかったので、よく知った姿とは印象が異なり記憶に残りました。 これまたバットレスがいかつい。もしかしたら後世に足されたものかもしれません*3

ナルテックス。 このときはモザイク画を見ることができましたが、見た感じ布か何かで隠せるようになっているようなので、タイミングによっては見れないかもしれません。

ここで靴を脱いで中に入ります。

身廊に足を踏み入れると、大ドームを戴いた広々とした空間が広がります。 1500年前にこんな建造物を作ったローマ人の土木技術の高度さは感嘆に値します(前日も同じようなことを書いてた気がする。)。 ちなみに写真下端に映った人の頭からも察せられるかと思いますが、中はかなりの人混みでした。

側廊と2階部分。私が訪問した時は2階には入れなかったと思います。 「実は入れるけど気づかなかっただけ」だったら悲しい。

中央の大ドームを半ドームで支えているのですが、よく見ると上の写真の通り、さらにその半ドームを3つのさらに小さいドームで支えているようです。 けっこう構造が複雑なのですが、参考文献[1]p.30~p.31に詳しい解説がありました。

構造力学が分かるとここらへん楽しめそう*4。 ちなみに3つの小ドームのうち中央のものにはモザイク画が描かれているはずなのですが、このときは残念ながら隠されていました。

最奥部は礼拝用のスペースとなっており、礼拝する人以外の立ち入りはお断りになっていました。 礼拝用スペースで自撮りに興じていた人がいて一瞬ひやひやしたのですが、自撮りが終わった後に礼拝を始めたのでセーフ。 ミフラーブのある場所が建物の凹部の中心とは一致しておらず、キリスト教建築に後から付加したものであることを示唆しています*5

柱の頭部の装飾がやたらと綺麗に残っているけど、これはさすがに後から修復してるのかな。 ペンデンティブ部分にいる謎の生命体は天使だそうです*6

出口から出る際に振り返ると、見事なモザイク画が見送ってくれます。 聖母子にコンスタンティノープルとアヤ・ソフィアを寄贈(?)する(東)ローマ皇帝の姿を描いたものだったはず(要出典)。

スルタン・アフメト・ジャーミィ

続いて、スルタン・アフメト・ジャーミィ(通称「ブルー・モスク」)に。 こちらは1617年に建てられたもの*7

常に開いているわけではなく、タイミングによっては礼拝のため観光客は立ち入れないようです。 私が行った時の公開スケジュールは上の写真のとおりですが、季節によって時刻は変わるかと思います。

正面入り口。ここでモスク本体をバックに写真を撮っている人がたくさんいました。

入るときは曇っていたのですが、出てくる頃には青空が広がっていました。これは出てきた後に撮った写真。

実は今回の旅の直前(確か1か月くらい前?)までこのモスクは修復工事中で、「工事いつ終わるかなー」とトルコ語のニュースをgoogleで検索してはやきもきしていました。 運よく訪問前には工事が無事完了し、こうやって内部を見学することができて良かったです。

中央の大ドーム。 なお、上部の装飾はタイルではなくフレスコ画だそうです*8

移動と昼食

スルタン・アフメト・ジャーミィを見終えたので、次の目的地、シェフザーデ・ジャーミィ方面に向けて移動します。

移動前に広場の端に座って少し休憩していたら、「英語の練習がしたい」という少年に声をかけられたので少しお喋りしました。 別れ際に「僕の家族がレストランやってるから、良かったら来るかい?」と言われたのですが、これから向かう方向と逆になりそうだったのでお断りしました。 ソフトな客引きだったのかな。

こちらはトラムの駅まで歩く途中で見かけたハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマーム。 建設年は1556年で、スレイマン1世の寵姫ヒュッレム・スルタンの建てたものだそうです*9。 今も現役のハンマームで、一瞬入ってみようかと思いました。 が、一人旅でしかもこの日はホテルをチェックアウトして荷物を全部抱えて移動しているので、ちょっとハードルが高いなと思って見送りました。 あとけっこうお値段が高かった気もする。

トラムのLaleli-İstanbul Ü.駅で降りて、シェフザーデ・ジャーミィに歩く途中のお店でご飯にしました。

メルジメッキ・チョルバと、鶏肉とジャガイモなどの煮込み(写真撮りそびれた)。 お値段126TL。 スルタン・アフメト地区から少し離れた観光客の少ないエリアだからか、はたまた鶏肉だから、前日のお昼などに比べるとお安めでした。

シェフザーデ・ジャーミィ

昼食を食べたお店から少し歩くと、大きなジャーミィが見えてきました。

こちらのジャーミィは、かの名建築家ミマール・スィナンの手による建築で、1548年頃完成とのこと*10。 スレイマン1世と妃ヒュッレムの子で、夭逝した王子メフメットのためのキュッリエの一部です。 「シェフザーデ」という言葉は「王子・スルタンの息子」の意味だそうです*11

正面入り口が分からず、少し目立たない出入口から「観光客なんですが入って良いですか?」と出てきたおじさまに訊いて入りました。 が、こちらは礼拝者用の出入り口だったようで、入ったらもろに礼拝者用のスペースに出てしまって焦りました。

スルタンアフメト地区に比べると観光客は少なく、落ち着いて過ごすことができました。

大ドームを4本の柱と4つの小ドームで支える形式です。 大ドーム内の装飾、スルタン・アフメト・ジャーミィのものよりもコントラストがくっきりしているような気がして、好みです。

礼拝室から中庭に出たところ。 本来、正面入り口から入っていたら、こちらの中庭を経由して室内に入るはずでしたね。

モスクの周囲は緑がひろがり、ベンチも置かれていて、人々の憩いの場となっていました。

ヴァレンス水道橋

このまま歩いてスレイマニエ・ジャーミィに向かうのですが、近くにヴァレンス水道橋もあったので、寄ってみました。

ヴァレンス帝の治世下の西暦378年に完成した水道橋です*12。 1500年以上残る水道橋を建造したローマ人もさることながら、これを横切る形で車道を整備した後世の人々もすごいと思います。 ローマ人たちも、馬よりもはるかに速い乗り物が橋の下をびゅんびゅん通過していく様子は想像していなかっただろうなー。

近づいて見てみると、上段の一部は石材ではなくレンガでできているように見えます。 「下は石材、上はレンガ」というのは、エフェソスの遺跡や、セルチュクの教会、ここイスタンブールのアギア・イレネーでも見たパターンです。

スレイマニエ・ジャーミィ

坂道を上り、スレイマニエ・ジャーミィに向かいます。

さきほどのシェフザーデ・ジャーミィと同じくミマール・スィナンの手による建築で、こちらはスレイマン1世本人のためのものです*13

大ドームを4本の柱で支えていますが、大ドームの周りの小ドームは2つだけ、という形。これは午前に見たアヤ・ソフィアと同じ様式ですね。

観光客はシェフザーデ・ジャーミィよりは多かったですが、スルタンアフメト・ジャーミィよりは少なく、比較的落ち着いていました。

内部には英語で解説してくださるボランティアの方もいました。 ただ、少し話した限りでは、モスクの歴史や建築よりはイスラームの教義などをメインに解説しているようでした。 「ここはスルタンが財産を寄付して慈善施設として造ったのです。どうしてだと思いますか?」(意訳)と訊かれたので「表向きは宗教的な善行としてだけど、もっと実際的な理由として、ワクフ制度を利用して自らの墓を末永く維持するため」というなんとも即物的な理由*14を言おうかと思ったのですが、自重して(というかそこまで瞬時に言える英語力がなかったので)「宗教的に良い行いとされていたから...?」と無難な答えを返してしまいました。

時間に余裕があったので、持ってきた「物語イスタンブールの歴史」(参考文献[2])をぱらぱら眺めながら休憩しました。 こちらの本、まるで時間旅行をしているように往時の様子を生き生きと描写しているので、現地で読むとなお面白い。

モスクの裏に出ると、海を見下ろすことができます。 高台に建っているので景色が良い。

そしてそのすぐ近くにあるのが、スレイマン1世(右)と寵姫ヒュッレム(左)の墓廟。 さっき解説の方に言おうとした件ですね。

しかもちょうどモスクのキブラ壁の外側にあるので、モスクで礼拝する信徒の祈る方向は、必然これらの墓廟の方向になります*15。 意図的かどうかは分からないですが、面白い配置だと思います。

モスクの周りはさきほどのシェフザーデ・ジャーミィと同様に緑にあふれ、ピクニックなどに興じる人々で賑わっていました。 公園みたいな扱いなのかな。

モスク外の、キュッリエの建物。かつてはメドレセなどだったようです*16*17。 ざっと見た範囲では今はレストランとして使われているようですが、後でgoogle mapsで調べたら図書館や大学の講堂となっているものもあるようです。 特に図書館は手稿本を多く所蔵しているそう*18。 一般の観光客向けの展示を行っているかどうかは確認していないのですが、モスクだけでなくこちらも行ってみれば良かったなーと後悔。。。

やたらとkuru fasulyeの看板を掲げたお店が並んでいたので、ここの名物なのかな。 写真には「TÜRKİYENİN EN İYİ KURUFASÜLYECİSİ」となんとも自信にあふれた言葉も見えます。 夕飯にはまだ早いかなと思って食べなかったのですが、今となっては悔やまれる。。。(2回目)

移動と夕食

最後に新市街に向かいます。

歩いて海辺まで降ります。なかなかの坂で、スレイマニエ・ジャーミィが高台の上に建てられていることを実感できました。

そこから今回の旅で初のイスタンブールのバスに乗りました。 その際はこちらの方の記事が参考になりました。 feel-the-earth.com

新市街のチョルバジュで夕飯にします。 ただ、うーん、スープが薄い気がするし、パンも袋に入った個包装のもので、ちょっといまいちだったかな。 コンヤやカイセリで入ったお店の方が断然美味しかったと思います。

ガラタ塔

夕食後、せっかくなので近くのガラタ塔(MUSEUMPASS TÜRKİYEで入れる)に寄ることにしました。

歩いて行ったのですが、途中かなりの坂を上ることになります。イスタンブールは坂が多い気がする。

下から見上げたガラタ塔。 夕方という時間故か、入場待ちの長蛇の列ができていました。

もとはガラタの城壁そばに見張り塔として建てられ、長らく火の見櫓としての役目を果たしてきたそうです*19。 現存する塔は、1348年に建てられたものが幾たびもの損壊と修復・改修を経たもののようです*20。 ただ、外壁は綺麗で、内部も現代のエレベーターまで備わっていたので、正直なところどこまで古い構造がそのまま残っているのかは自信がないです。

一番上の展望台では、ガラス越しではなく、屋外に出て景色を眺めることができます。 上からの眺望はすばらしく、旧市街を眺めながらどれがどのスポットか考えたり地図と比較したりと、イスタンブール観光の締めにとても良かったです。

写真左端の塔はトプカプ宮殿の円蓋下の間/議会の間の上に建つ塔(この2日前に行ったときの記録はこちら参照)、そこから右に目を向けると、アヤ・ソフィアやスルタン・アフメト・ジャーミィなどが見えます。

海岸近くにはイェニ・ジャーミィ、右の丘の上にはスレイマニエ・ジャーミィも見えます(たぶん)。

なお、塔の上の屋外展望台は人が多い割にとても狭く、誘導も行われなかった(一方通行などもなかった)ので、やや危ない気もしました。 むしろその一段下の屋内からの方が、ガラス越しとはいえ、ゆったりと外の眺めを楽しめたと思います。

登りはエレベーターでしたが、下りは階段で降りました。 途中、ガラタ塔やイスタンブールの歴史についての展示もありました。

空港へ

観光を一通り済ませたので、名残惜しいですがメトロでイスタンブール国際空港に向かいます。

これは地下鉄駅の入り口前で最後に見送ってくれた(?)エルドアン大統領のお顔。 このときは大統領選挙中でした。

まず手近な駅から乗り継いでKağıthane駅へ。

Kağıthane駅ではいったん外に出て地上を歩いて乗り換えます。ちょっとややこしいので注意。 上の写真がKağıthane駅での空港線への入り口。 なお、空港線は2023年1月に開業したばかりのようで、駅も車両もとんでもなく綺麗でした。

やたらとかっこいい。

Kağıthane駅から空港駅まで30分程度だったと思います。

空港駅から空港までは少し歩きますが、動く歩道もあるので、大荷物がなければあまり問題ない気もします。

深夜発の便で日本に戻りました。

参考文献

*1:参考文献[1]p.33「...557年の地震で亀裂が生まれ、558年にドームは崩落した。再建され562年に献堂ドームは、...(中略)...南北の大アーチを補強して架けられた。このドームも989年に西側の約1/3が、1346年には東から東南の約1/2が、いずれも地震により崩落したが、かなり忠実に修復されたので、現存のドームは562年に再建されたドームとほぼ同じ形態だといえる。」

*2:参考文献[2]p.64「その建造にあたってエフェソスのアルテミス神殿や、エジプトのヘリオポリスなどから運ばれた古代円柱や、大理石がふんだんに使われた床、そして大円蓋は―幾度か部分的に崩壊したとはいえ―創建当時のままである反面、内部装飾の多くはレオーン三世期(七一七-七四一)の聖像破壊運動(イコノクラスム)によって失われ、いまも残るモザイク画は帝国の最盛期にあたる九世紀以降に作られたもの。」

*3:参考文献[1]p.33「16世紀半ばには、倒壊を防ぐための補強バットレスが多数付け加えられたため、外観はかなり醜い状態になって現在に至っている。」

*4:私は構造力学は全く分からないので勉強したい。

*5:ただ、上の写真だけをもってして「これは元はモスクではないことが分かる」というのは主張が強すぎる気がします。たとえば、モスクでも「メッカの方角を測りなおした結果ミフラーブの向きを調整する」等といったことも、もしかしたらあるもしれないので。。。

*6:参考文献[2]p.67「たとえばドームの四隅の穹隅を見てみよう。大きな顔から羽の生えた異形が描かれている。こちらは四大天使をかたどった壁画だが、漆喰を塗るのに手間がかかるためか、オスマン期にも塗り潰されず放っておかれていた。」

*7:参考文献[1]p.231

*8:参考文献[1]p.234「2階の窓の高さより上の装飾は、ピアやドームの内面も含め、筆で描かれたフレスコ画である。」

*9:参考文献[2]p.56, p.61

*10:参考文献[1]p.181「1543年6月に定礎を行い1548年に完成したこのキュッリエは、...」キュッリエ(複合施設)の完成年としての記述なので、モスク単体の完成年は異なるかもしれません。

*11:参考文献[1]p.181。ただし、元来はスレイマン1世自身のために建設されていたのではないか、との説もp.181~p.182で紹介されており、著者はこれを支持しています。

*12:参考文献[2]p.112

*13:参考文献[1]p.182, p.189

*14:このへんについては参考文献[3]p.147にマドラサ建築と墓の関係として詳しく述べられています。スレイマニエ・ジャーミィについてもp.216に次のような記載があります。「アイユーブ、マムルーク両王朝時代の墓付きマドラサほど露骨な形ではないが、スレイマニエをはじめとするオスマン朝のスルタンたちの複合施設群も、建設者の墓廟の永続的な維持、管理をその建設目的の一つとしていたことは間違いない。」

*15:参考文献[3]p.217「その壁の外側には、スレイマンの墓があるため、メッカの方向へ向かってひれ伏しているムスリムは、結果としてスレイマンの墓にも祈りを捧げていることになってしまうのである。また、別の見方をすれば、スレイマンが信徒の先頭に立ってメッカに祈りを捧げていると考えることもできよう。いずれにせよ、神と信徒の間にスレイマンがいることに変わりはない。」

*16:参考文献[1]p.183 図64

*17:参考文献[4] p.176 図5-5

*18:【世界の図書館から】 スレイマニイェ図書館(トルコ) https://u-parl.lib.u-tokyo.ac.jp/japanese/world-library46

*19:参考文献[2]p.140

*20:参考文献[2]p.140~p.141