世界史ときどき語学のち旅

歴史と言語を予習して旅に出る記録。西安からイスタンブールまで陸路で旅したい。

2023年トルコ旅行記 11日目 イスタンブール観光その2

2023年のゴールデンウィークのトルコ旅行11日目(2023-05-06)の記録です。 引き続きイスタンブールのスルタンアフメト地区周辺を観光します。 博物館2か所、遺跡2か所、モスク3か所とだいぶ詰め込みましたが、見どころが集中しているおかげで移動に時間をとられず、じっくりたっぷり余裕を持って楽しむことができました。 リュステム・パシャ・ジャーミィはタイルで彩られた空間が本当に美しく、アヤ・ソフィアやスルタン・アフメト・ジャーミィ(いわゆるブルーモスク」)より人も少なくゆったりできるのでおすすめ。

トルコ旅行全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

朝食

昨日と同じく、ホテルのビュッフェで朝食。

地下宮殿

朝食後、アヤソフィアに行こうかと思ったのですが、歩いてる途中に地下宮殿入り口に並ぶ行列が見えた(確か9時の開館時間より前だったと思います)ので、なんとなく地下宮殿に行くことにしました。

  • 公式webサイト(たぶん) : https://yerebatan.com/en/
  • MUSEUMPASS TÜRKİYEの対象外です。
  • 1時間ほど滞在しました。
  • 俗称の「地下宮殿」で呼んでいますが、正しくは宮殿ではなく、地下に設けられた貯水池です。

ユスティニアヌス帝の時代(6世紀)に築かれ*1*2、1500年近い年月を経て今に残っています。 解説パネルによると、オスマン帝国の時代にも一時期トプカプ宮殿の水源として用いられていたとか。 古代ローマの土木技術の高さには恐れ入ります。。。

古代ローマオスマン帝国時代に幾度も整備された水道についての解説パネルもありました。 イスタンブールは真水の地下水に乏しく、これだけ水道整備が必要になったそうです*3

天井はレンガのアーチでできており、それを石柱が支える構造のようです。 重機もない時代にこれを施工するのはすごい。。。

ライトアップの色が切り替わるので、見るタイミングによって雰囲気もだいぶ変わります。

ところで上の写真からも分かる通り、石柱の柱頭のデザインはまちまちです。 また、一部の石柱は高さが足りなかったのか台座のうえに設置されています。 恐らく、既存の建築の石柱を転用したのではないかと思われます。

極めつけはこちらのメドゥーサ(たぶん)の頭。 人目につかない地下貯水池にわざわざ彫刻を施した石材を用意するとも考えにくいので、これも転用かもしれません。

こちらは通称「涙の柱」と呼ばれている(らしい)柱。ただ、実際は涙の模様ではなく、木の幹を表わしたものだそうです*4

あとはこっちの柱には明らかに文字が刻まれていることが見て取れました。 何が書いてあるかはよくわからないですが、これも転用かな。。。

出てくるころにはアヤ・ソフィアには長蛇の列ができていたので、そちらは翌日に回すことにしました。

次の見どころに向かう途中で客引きのような人2人に日本語と英語で声をかけられたので少しお喋りしました。 イスタンブール(スルタンアフメト地区の観光関係者限定かもしれないですが)、これまで行った他のトルコの都市(カッパドキアは除く)と比べてぶっちぎりに英語が通じてすごい。

  • 「このへん、夜はぼったくりバーに連れ込もうとする人がいるから気を付けてね」(意訳)と言われました*5
  • 筆者が中国語もできるという話から、「中国語のニックネームがある」と言われたので何なのか訊いてみたら「我叫帅哥」って返されて笑いました。

最後お茶に誘われてお断りしたのですが、たぶん絨毯販売の客引きだったのかな。

トルコ・イスラーム美術博物館

続いて、広場の北西側に建つトルコ・イスラーム美術博物館に向かいました。 こちらの建物、今は博物館ですが、元はイブラヒム・パシャ(スレイマン1世の寵臣)の邸宅だったそうです*6

  • MUSEUMPASS TÜRKİYEで入れました。
  • 2時間半ほど滞在しました。
  • 展示は概ね時代(王朝)の順番に並べられていました。
  • 解説パネルはトルコ語と英語が併記されていました。
  • 展示室に入ってから音声ガイドがあることに気が付いたのですが、借りそびれました。入場前に確認したほうが良いかも?

ウマイヤ朝の石板。 墓碑か何かかなと思ったら、パネルには"mile stone"と書かれていました。 交通の話はかなり気になるので、中に何が書かれているのか興味を惹かれました(読めないけど)。

同じくウマイヤ朝クルアーン写本。 何ともかわいらしい(?)書体で、ウマイヤ朝にしては書体が新しいのでは?と思ってパネルを見たら、"Umayyad Period. North Africa, late 12th or early 13th century"と書いてありました。 「すぐわかるイスラームの美術」(参考文献[2])のp.76, p.77と見比べてみると+北アフリカで書かれたものということを勘案すると、マグリビー体な気がします。

セルジューク朝の焼き物。 左下のボウルの絵、人物の髪型にどことなく東洋らしさを感じる気がします。

マムルーク朝の、モスクのガラスランプ。 この時代は宗教施設の建築が盛んで、それらの内部を照らすためにこのようなガラスランプが大量に製造されたそうです*7。 文字文様や植物文様などを組み合わせて表面が美しく飾られています。 ただ、装飾が多い分透過性が低くなる気もして、ランプとして機能するのか少し気になりました。

同じくマムルーク朝クルアーン写本。こちらは見慣れた(?)書体ですね。 ただ、右側の装飾された枠内の文字は他とは異なる書体のようです。たぶんクーフィー体? あと、枠外余白の文字が何なのか気になります。もしや後から使用者が書き込んだものとか...?

ちょっと気になったのが、サファヴィー朝時代のこちらの器。 パネルには"Kashkul(Beggar's Bowl)"と書いてあったので、托鉢に用いる容器だったようです。 こんなに綺麗に装飾された容器で本当に托鉢に行ってたのかな...?

こちらの木製品は、確かルーム・セルジューク朝かベイリク時代あたりのもの。 精緻な彫刻もさることながら、木製品が数百年もきれいにのこっていること自体がすごい気がします。

こちらは確かオスマン帝国の勅書か公文書? 上半分を占める華やかな装飾は恐らくスルタンなどのトゥグラ(花押)ではないかと思います。 どの文書も左上がりに書かれているのですが、わざとでしょうか。

オスマン朝のエリアには絨毯も多数展示されていました。

オスマン朝まで一通り見終わって中庭に出たのでこれで終わりかな、と思ったのですが、"Ethnography Hall"と書かれた展示室があったので入ってみました。

主に近代の市民生活や民俗についての展示のようで、ハマム、コーヒーハウス、絨毯など様々な文化についての解説と展示がありました。

影絵芝居(カラギョズ)に用いられる人形(?)。 影絵芝居と言えば東南アジアのイメージがあるのですが、どうも中国→東南アジア→マムルーク朝オスマン帝国と伝来してきたという説も有力なようです*8。 海の交易が伝えた文化だとしたら、とても興味深いです。

驚いたのはこちら。絵かと思いきや、なんと絨毯でした。 イスタンブールの街の様子絵が描写されており、アヤ・ソフィアやガラタ塔などが判別できます。

アト広場(ヒッポドローム跡)

美術館を出て正面の広場、アト広場(トルコ語で馬広場という意味のようです*9 )。 ただの広場ではなく様々な古代の文化財が並んでいます。

こちらは古代エジプトオベリスク。 もともとは紀元前15世紀にエジプトの神殿に立てられたものだそうです。 それをコンスタンティヌス1世の時代に輸送し、次のテオドシウス1世の時代にこの広場に立てたとのこと*10*11

オベリスクの台座の四面には浮彫が施されています。 左の写真にはオベリスクを立てるときの様子らしきものが描かれており面白い。

続いて、serpent columnと呼ばれる*12こちらのらせん状の柱。 ペルシア戦争での戦勝を記念して古代ギリシャで作られ、元来はデルフォイの神殿に納められていたものだそうです*13。 もともとは先端には蛇の頭3つがついていたとのこと*14。 この柱と言いオベリスクと言い、帝国各地からいろいろと持ってきて飾ってるな。。。

最後に、こちらの角柱。解説をざっと読んだ限りでは、これも古代ローマから残る品のようです。

さて、これらの柱は一直線上に並んでいるのですが、それも訳あってのこと。 というのも、この広場は往時は広場ではなく戦車競技場(ヒッポドローム)のトラックで、これらの柱はトラック内側の分離帯としての役割を果たしていたそうです*15オベリスクの台座の写真を見返してみると、馬に引かれた戦車(チャリオット)が描かれており、これは戦車競技の様子を描いたものかもしれません。

なお、この近くに皇帝の宮殿もあって現在は大宮殿モザイク博物館となっているのですが、私が訪れたときは閉鎖中でした。

昼食

広場から南に向かい、手近なお店で昼食にしました。

観光客向けのお店だったからかお高めで、これで300TLくらいした記憶があります...。

レストランの前はけっこう狭い道(車がすれ違えないくらい)だったのですが、食事中にアスファルトを積んだトラックが来て、道路の補修工事が突然始まって少し驚きました。 特に通行規制とかもせずにサクサク工事を進めていたのが印象的でした。 工事の車両や機械の排ガスがひどかったのですが、お店のスタッフがすぐにドアを閉めたので、排ガスに悩まされずに食事できて助かった。

ソコルル・メフメト・パシャ・ジャーミィ

レイマン1世をはじめ3代のスルタンに仕えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャ*16が建てたモスクです。 建造年は1571年*17

急斜面に建っており、斜面の下の入り口*18から入ると、階段をのぼりながらトンネルの奥にモスクの姿が見えてくるのが面白かったです。

それほど大規模なモスクではなく、観光客も非常に少なく落ち着いた雰囲気でした。

内部は青のタイル装飾が美しかったです。

ミフラーブ横のタイルを拡大。

中央にはドームを戴いています。 翌日に訪れたスルタン・アフメト・モスクなどでは中央の大ドームを支える柱は確か4本で、こちらは6本のタイプ。 以前は「大ドームを小ドームで支えるのはオスマン帝国のモスクあるある」という雑な理解だったのですが、支柱の本数や小ドームの配置など、いろいろとバリエーションがあるなー、と思いました*19

なお、写真撮影を制止されたという話もインターネット上で聞いた(要出典)のですが、私は特に止められませんでした。 ただ、これはムスリムの家族連れ*20が写真を撮ってる横で私も写真を撮っていて、目立たなかったからかもしれません。

イスラーム科学技術歴史博物館

  • MUSEUMPASS TÜRKİYEで入れました。
  • 約1時間滞在しました*21
  • 解説はトルコ語、英語、あと3言語(たぶんドイツ語とフランス語とアラビア語)の併記でした。ただし、動画の展示はトルコ語のみだったような気がします。
  • 展示構成は分野別でした。

天文学

ずらりと並べられたアストロラーベ厨二病心(?)をくすぐります。 解説を読んだかぎりではレプリカのようですが、これだけ並べられると壮観です。

近づいてみてみると、アラビア文字が刻まれていることが見て取れます。 これの意味を(数理的な部分も含めて)理解して実際に使えたらかっこいいだろうなー、と思ってしまいました。

サマルカンドのウルグ・ベク天文台の模型。

こうやって使ったそうです。

不思議な観測機材いろいろ。

もろもろの観測機材がどういう原理で動いているのかきちんと理解できなかったのですが、当時の天文学がどのようなものだったのか、興味をかきたてられました。

兵器

投石器など?

こちらは城門を破るための攻城兵器。 ただ、当時の書物の内容を元に再現した模型だそうなので、当時実際にこのような兵器があったのかは分からないです。

物理(というか力学???)

水の流れを利用した揚水ポンプ。 ただ、これも写本の説明から作った模型のようなので、実物があったかどうかは私にはわからないです。

解説には"Ship mill"と書かれていました。 写本に基づく模型のようですが、解説には"This type of mill was in widespread use throughout the Islamic world. "とも書かれていました。 据え置き型じゃなくて船にした理由が気になります。

建築

主にモスク建築の模型が展示されていました。 特にオスマン帝国のものが多かったと思います。 オスマン帝国のモスク、「大ドームを複数の小ドームが支える」という形式のものが多くて一見どれも似ているのですが、模型で見ると柱や小ドームの個数などの違いがとても分かりやすかったです。

スルタン・アフメト・ジャーミィ(通称ブルーモスク)。 ドームを支える支柱は4本で、4つの小ドームが横から主ドームを支えています。 実物は翌日見に行きました。

スレイマニエ・ジャーミィ。 こちらもドームを支える支柱は4本ですが、小ドームは2つだけです。アヤ・ソフィアと似た配置になっています。 こちらも実物は翌日見に行きました。

エディルネのセリミエ・ジャーミィ。 こちらは8本の支柱を使っていて、上の2者とは大きく印象が異なります。 本当はエディルネで実物も見たかったのですが、この旅の間は修復工事中だったようなので、エディルネには行きませんでした。 また次の機会を狙いたいと思います。

ちなみにイスラーム建築については日本でもそこそこ本が出ているので、トルコに行く前に読んでおきました。 解像度が上がる気がするのでおすすめ。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

他にも、数学、化学、地質学などの分野の展示室がありました。

全体的に興味を惹かれ「もっと詳しく知りたい!」と思わされる展示でした。 ざっと調べた限りでは以下の本とか読んでみたい。

リュステム・パシャ・ジャーミィ

トラムに乗って移動し、北のエミニョニュに向かいます。

このときは大統領選挙中で、広場では両陣営の旗や車が見られました。

で、お目当てはこちらのリュステム・パシャ・ジャーミー。 スレイマン1世の娘婿にして大宰相のリュステム・パシャ*22の建てたモスクです。 建設年は明確ではないものの、おそらく1562年ではないかとのこと*23

姿はもう見えているのですが、入り口は狭い路地に面していて、見つけるのに少しかかりました*24

こちらが一見質素な入り口。でもきちんと案内があってありがたい。 ここから階段を上って2階にモスクがありました。 現地でどうなっているか確認し忘れたのですが、当初から1階は倉庫や商店として利用されていたそうです*25。コンヤで見たカプ・ジャーミィもこのパターンだった気がする。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

2階に上がったところ。 こちらの正面は礼拝者用の入り口で、観光客向けの入り口は横にあります(親切に"Tourist Entrance"と案内が書かれていました。)。

内部の壁は多くのタイルで装飾され、美しい空間を作り出しています。

タイルを近くで見ると、様々な模様のものがあることが見て取れます。

基調となる青と白のコントラストも美しいのですが、赤色も綺麗。 確か釉下彩の赤を綺麗に出すのって難しいんじゃなかったっけ...?*26

こちらのドームは8本の支柱で支えるタイプですね。

あまりに綺麗だったので、モスクの端の方に座って、しばし時間を忘れて見入ってしまいました。 大きなモスクではありませんが、40~50分くらい滞在してしまいました。

イェニ・ジャーミィ

エミニョニュに来たお目当ては先ほどのリュステム・パシャ・ジャーミーだったのですが、トラムを降りてすぐのところに大きいモスクがあり、気になったので寄ってみました。

google mapsで調べたらYeni Camiという名前なので新しいものかと思った*27*28のですが、1664年完成なので、十分古い気がします。なお、基礎工事が始まったのは1597年ですが、地盤が緩くて工事が難航したり、建築家がペストで亡くなったり、さらに工事が中断されたりと紆余曲折を経ているそうです*29

中庭から見てもなかなかの威容。

中に入ると、カラフルで淡い色合いの装飾のせいか、どことなくヨーロッパの教会に似た印象を受けました*30。 ソコルル・メフメト・パシャ・ジャーミーやリュステム・パシャ・ジャーミーに比べると観光客が多かったです。

タイルにしては色合いが淡いし、継ぎ目も見えないなーとぼんやり思っていたのですが、下の方はタイル装飾、上の方はフレスコ画による装飾になっていると後から知って納得しました*31

主ドームを4本の柱と4つの小ドームで支える構成。

なお、今回は行かなかったのですが、この隣にムスル・チャルシュ(英語での通称エジプシャン・バザール)があり、そちらはこのモスクに付属するものとして建造されたそうです*32

夕食

再びトラムに乗って、ホテル近くまで移動。

夕食は3日続いて同じロカンタにしました。 他のお店はケバブ推しのところが多かったのですが、煮込み料理やスープ(チョルバ)が好きなので、ついついここに通ってしまいました。 お値段70TL(この日は確か鶏肉だったのでお安め。)。

翌日に続きます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

*1:参考文献[1]p.69「ユスティニアヌス一世が六世紀に建造したこの巨大な地下貯水槽は、近代に至るまで朧げにその存在が認知されながらも、正確な位置の知れないミステリアスな施設でもあった。」

*2:現地の解説パネル "The Basilica Cistern, one of the most important witness of Istanbul's glorious history, was built by the Eastern Roman Emperor Justinian in the 6th century."

*3:参考文献[1]p.69(オスマン帝国の泉亭と、古代ローマの地下宮殿の文脈で)「もっとも、近世イスタンブールが泉亭という優れた水道施設を備えたのは、裏を返せばそれだけの設備投資をしなければ水を得られなかったということ。実はこの街は地下水に乏しく、地面を掘っても出てくるのは塩交じりの水ばかりという渇水都市でもあるのだ。」

*4:通称もこの解説も、いずれも現地の解説パネルより。

*5:日本でも噂は聞いてました。

*6:参考文献[1]p.57「白と灰色の端整なスルタン・アフメト・モスク(ブルー・モスク)、大堂宇と対面していまはトルコ・イスラーム美術博物館となったイブラヒム・パシャ邸など」p.60~p.61にはイブラヒム・パシャと、美術館になる前の邸宅についての記載もあります。

*7:参考文献[2]p.124「マムルーク朝の有力者は競ってワクフ(財産寄進制度→32頁)による宗教施設を建設したが、その内部を照らすランプもワクフの一部として大量に制作させたのである。」

*8:参考文献[1]p.105~p.106「起源については遊牧民由来説、自然発生説など諸説あるものの、マムルーク朝征討によって一六世紀初頭にエジプトから入ってきた芸能であるのはほぼ確かだと言われる。ということは、中国に発する人形劇がベトナムやジャワを経てムスリムの海たるインド洋を介して伝わったと考えるのが自然であろう。」

*9:参考文献[1]p.56「トルコ語でアト(馬)広場(スルタンアフメト広場とも)と呼ばれ、」

*10:参考文献[1]p.57「表面に聖刻文字が刻まれた四角錐の巨大な方尖柱(オベリスク)は、もともとメギドの戦いに勝利し古代エジプトの最大版図を築いたトトメス三世(紀元前一四七九-一四二五)がテーベ近郊に建てた護石(テケン)である。コンスタンティヌス一世の時代に戦利品として運んできたものの、あまりにも巨大なため次代のテオドシウス一世(在位三七九-三九五)の時代にようやく現在の場所に据えられた。」

*11:現地の解説パネル "Several obelisks were transported from Egypt to Rome. It was Constantine the Great who displaced this one in order to decorate his new capital, yet the delivery took long for unknown reasons. It was during the reign of Theodosius I that the obelisk was re-erected in its current place. "

*12:現地解説パネル

*13:参考文献[1]p.iv「...オベリスクの隣の三蛇頭の円柱を示す。見よ、あれこそがペルシア戦争において野蛮にして隷属的なオリエントの民を降した偉大なアテナイ人たちが戦勝を祝してデルフォイ神殿に奉納した神器にほかならないのだ、と。」

*14:参考文献[3]p.128「このうちデルポイアポロン神には、戦利品の一割を使用して黄金製の鼎が奉納された。この鼎は青銅製の三匹の蛇によって支えられていたが、本来の記念物の主役だった黄金製の鼎は早い段階で持ち去られてしまい、蛇の銅柱像のみが奉納されてから約八〇〇年間、デルポイの聖域に残った。しかし、四世紀前半にローマ皇帝コンスタンティヌス大帝が、おそらくは対サーサーン朝ペルシア戦の縁起物として、これを新首都コンスタンティノープルの競馬場へと運び出した(4-2)。」「現在でも、トルコ共和国イスタンブル市のスルタン・アフメト・ジャーミィ(通称「ブルー・モスク」)脇に位置する「馬の広場」で、頭部が落ちて身体だけになった姿の「蛇柱モニュメント」を目にすることができる。」往時の姿の復元想像図も掲載されています。

*15:参考文献[1]p.58「実は、いま私たちが立っているこの場所は本来、広場にあらず、ローマ式戦車競走が行われた戦車競技場(ヒッポドローム)のトラックであり、巨柱群は戦車が周回したスピナ(分離帯)に当たるのである。」

*16:参考文献[1]p.44 (デヴシルメの説明の文脈で)「叩き上げの一兵卒からスレイマン一世に見いだされソコルル・メフメト・パシャ(一五〇五-一五七九)などはその典型で、帝王三代に仕えた名宰相として知られ、晩年には故郷に橋や泉亭を建設している。」

*17:参考文献[4]p.209

*18:複数の入り口があるのですが、たぶんこれが正面の入り口だと思います。

*19:このへんは行く前に参考文献[4]を読んで意識するようになりました。

*20:女性がスカーフを髪に巻いていたので、おそらくイスラーム教徒かな、と推測。

*21:ただし、ざっくりしか見てないです。解説を真面目に読んだら時間もっとかかったかも。

*22:参考文献[5]p.159~p.160

*23:参考文献[4]p.210

*24:と言ってももしかしたらもっと目立つ入り口があって私が見逃しただけかもしれません。

*25:参考文献[4]p.210「高さ6mほどの1階のすべてを倉庫と商店にし、その上にテラスと礼拝室を建設している。」

*26:素人のあやふやな記憶です。

*27:トルコ語のyeniは「新しい」の意味

*28:ただ、正式名称はイェニ・ヴァーリデ・ジャーミーなので、単なる「新しいモスク」という意味ではなさそう。

*29:参考文献[4]p.235

*30:イスタンブール旧市街はヨーロッパでは?」という突っ込みがきそうなので補足すると、より西側の中欧・西欧のキリスト教文化圏、くらいの意味合いのつもりです。

*31:参考文献[4]p.237「室内装飾では、4本のピアの約2/3の高さまでと、2階ギャラリーは窓の上端の高さまで、青を基調としたタイルで覆われている。それより上は、フレスコ画による装飾である。」

*32:参考文献[1]p.82~p.83「グランド・バザールと並び称されるこのL字型の屋内商店街は、もともと近傍のモスクの付属施設として建造された。ウンカパヌの海岸にでんと構えるイェニ・ヴァーリデ・スルタン・モスク、通称イェニ・ジャーミィである。」