世界史ときどき語学のち旅

歴史と言語を予習して旅に出る記録。西安からイスタンブールまで陸路で旅したい。

2023年トルコ旅行記 10日目 イスタンブール観光その1

2023年のゴールデンウィークのトルコ旅行10日目(2023-05-05)の記録です。 この日はトプカプ宮殿などの見どころを主に徒歩で周ります。 本文中にも書いたのですが、トプカプ宮殿に行くなら中公新書の「物語 イスタンブールの歴史」(参考文献[2])はおすすめです。

トルコ旅行全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

朝食

朝食はホテルのビュッフェ。

朝食を済ませて出かけようとしたら、ホテルから外に出るドアにこんな注意書きがありました。 "Dikkat"は既にいろんなところでたくさん見たので覚えました。 扉の外にうっすら見えるラインがトラムの線路で、しかもトラムと歩道も近いので要注意。

Sirkeciの辺りのホテルにしたので、この日徒歩移動のみで済んで便利でした。

トプカプ宮殿

全体概要

  • 定休日は火曜日でした(私が行った当時は)
  • MUSEUMPASS TÜRKİYEで入りました。
  • じっくりまったり見て、5時間ほどかかりました*1
  • 屋内は撮影禁止と書いてあるところが多かったのですが、写真を撮っている観光客は多く、スタッフも制止しないし、なんなら「photo allowed, no flash」と言ってるスタッフもいました。 ということで、屋内も遠慮せず写真を撮りました。

敷地が広い上に部屋数も多く、モスクみたいな分かりやすさもないので要注意。 何がどこにあって、それぞれの空間が何に使われていたかを頭に入れてから行くのがおすすめです。 私が読んだ中では「世界のイスラーム建築」(参考文献[1])と「物語イスタンブールの歴史」(参考文献[2])に詳しい情報があり、特に[2]はそれぞれの空間の用途が詳しい上に、往時の賑わいの様子も(もちろん想像ですが)描写されていて、時間を超えて旅行しているような気持になれて素晴らしかったです。私は現地に[2]を持って行って、宮殿内で対応する箇所を読んだりもしました。

宮殿自体は、複数の庭園(中庭)とそれを囲む建物(と庭園に立つキョスク)から構成されています。 大きな建造物が連なる西欧や中国の宮殿とは異なる様相を呈しています。 これは、草原にテントをはっていた遊牧民の伝統の影響を受けたものかもしれない、という説もありました*2*3

さて広大なトプカプ宮殿ですが、大雑把に分けると、4つの庭園と1つのハレムから成ります(上の写真の案内図参照。)。

第1の庭園

一番外側の第1の庭園は入場券なしで入れます。

往時も、許可を得た市民も立ち入りができたそうです*4。 また、動物を放して狩猟にも興じていたとか*5*6

上の写真の「挨拶の門」と呼ばれる門をくぐって第2の庭園に入ります。 ここでチケットの確認がありました。

第2の庭園(外廷)

第2の庭園は外廷とも呼ばれ、公的な政治の場としての役割を担っていたようです*7*8

厨房の展示など

第2の中庭入って右手には厨房が広がっています(写真でも微妙に煙突が見えます。)。

中から厨房の天井を見たところ。ドーム構造の上に煙突がついているようです。 上の2つの写真でドームのかけ方が異なるように見えるのが面白い。

厨房内部には当時の調理器具や食器などが展示されています。 右の写真はタジンみたいなのですが、解説には"helva dishes"と書いてあったので違うようです(helvaはお菓子の一種)。

シャルベット*9を入れる容器いろいろ。 一番左のものは明朝の永楽年間のものと書かれていました。 これ元から蓋や注ぎ口がついていたのか、それとも中国で作られた当初はついていなくて後からつけたのか、気になりました。 当初の想定とは異なる用途で使われているとしたら面白いし、逆に中国でわざわざシャルベット容器として生産されていたとしても面白い。

中国陶磁のコレクションもありました。 ここに見える3つの青花(染付)は元朝時代14世紀のものと書かれていました。 元朝の青花が好きなので美術的な面でも気になるのですが、一方でどういう経路で元朝の青花がここまでたどり着いたのかも気になりました*10

たぶんこの本とかに詳しそう。 www.nhk-book.co.jp

こちらはもう少し新しめの中国陶磁たち。

円蓋下の間/議会の間

庭園をはさんで厨房の向かい側には、塔を戴く建物があります。 この建物(部屋?)は「円蓋下の間/議会の間」と呼ばれ、ここで御前会議が開かれていたとのことです*11オスマン帝国の政治的中枢がまさにこの目の前の場所にあったのだと思うと感慨深いです。

議会の間の入り口。解説パネルによると、建物は16世紀の建造のようですが、正面の装飾などは18世紀末から19世紀初めに今の形になったようです。 いかにもそのあたりの時代のロココ様式っぽさを感じます(偏見)。 入り口両側にスルタンの花押(トゥグラ)と銘文が書かれているのが印象的です。

銘文自体は私には読めないのですが、銘文の左下をよーく見ると年の記載があり、これは読めました(以前イラン旅行のためにアラビア語・ペルシア語での数字表記を覚えた記憶がギリギリ残ってた。)。 おそらく1207年と書かれていて、西暦に換算すると1792年~1793年頃のようです*12

内部は意外と簡素でした。 御前会議の際、スルタンは奥の透かし窓の裏に座し、会議を見守っていた(?)そうです*13

続いて、「至福門」をくぐって第3の庭園に入ります。 ちなみに、第2の中庭で儀式を行う際には、ここにスルタンの玉座が置かれたそうです*14

第3の庭園(内廷)

第3の庭園は内廷という別称からも示唆される通り、第2の庭園と比べると公的な色彩は弱くなるようです*15*16*17

ここには内廷学校と呼ばれる教育機関も置かれ、デヴシルメで徴用された少年たちの中から選抜されたエリート予備軍たちが教育を受けていたそうです。このへんは「物語イスタンブールの歴史」(参考文献[2])のp.43~p.46が詳しかったです。往時の姿が生き生きと目に浮かぶような描写だったので、おすすめです。

現在、第3の庭園を囲む部屋の数々は、現在は数々の美術・工芸品などが展示される空間となっていました。

こちらは16世紀のカフタン。

少し驚いたのが、こちらの服。

よーく見ると細かい文字がびっしりと書き込まれていました。 解説パネルにはTalismanic Shirtsと書かれており、厄除け(?)のためにクルアーンからの聖句などが書き込まれているそうです。 このへん、文化圏は違えども日本の耳なし芳一の話と近いものを感じます。

文字だけでなく、魔法陣のようなものが描かれたものもありました。

他にも多数の豪奢で美しい服が展示されていました。 服飾への興味が薄い私でも面白く感じられたので、興味がある人はもっと楽しめそうです。

宝物室

宝物室にはまばゆいばかりの品々が展示されていました。 上のはクルアーンのためのカバー(?)。

こちらは武器の数々。とはいえ豪華な装飾が施されているので、儀礼用のものでしょうか。

これはなんとゆりかご。 実用に供されていたのかどうか疑ってしまうくらい豪華です。 こんな豪勢なゆりかごで過ごせる子供は将来も人生イージーモードかと思いきや、兄弟殺し*18の話もあるのでたぶんそうでもない気がする。ということで、どこも大変だな、などとよくわからん感想を抱きました。

あ、でも帰ってから本をきちんと読み直したら17世紀には兄弟殺しの慣習は廃れたようなので、このゆりかごが作られた時代*19にはもうちょっと平和になっていたようです*20。軟禁に近い状態ではあったようですが。。。*21

聖遺物の展示室

トプカプ宮殿自体は世俗の建物ですが、ここだけはモスクに準じた服装を求められました。

聖遺物の展示室ではクルアーンの朗誦が流れていて、録音と思いきやその場で朗誦している人がいました。 観光客でごった返す中で写真や動画を撮られながら読むの大変だろうな。。。

私はあっさりとしてか見ていませんが、他にもイスラームに関わる様々な品々が展示されていました。 「物語イスタンブールの歴史」(参考文献[2])p.42によると、第三代カリフのウスマーンが暗殺されたときに手にしていたとされる(本当かどうかは不明らしいです)クルアーンも展示されているそうです(もしかしたら上の写真のものかも?)。

図書館

第3の内廷の中には小さな図書館もありました。 本好きとしてはとても気になる。

入り口には銘文が記されていました。 1131年という紀年だけは分かる。 写真右はその翻訳(たぶん)。

ちょっと面白かったのが、本が縦ではなく横に寝かせる形でおかれていたこと。 当時も実際にこのように置かれていたのかが気になるのですが、そうだとしたら下の本を取り出すのが大変そうなので、なんでこの置き方をしているのか気になるところです。

あとそもそもどんな蔵書があってどう活用されていたかも気になります。 クルアーンとかが一番ありそうだけど、内廷学校の生徒の教育のための本とかもあったのかな。

第4の庭園

続いて門をくぐり、最奥部の第4の庭園に向かいます。

バグダード・キョスク。1638年のバグダード征服を記念して建てられたそうです*22*23。 かつてはスルタンが朝食を摂る場所だったとか*24

メジディエ館と呼ばれる西洋風の建物もあったのですが、そちらは軽く見ただけで写真は撮っていません。

ここの庭園からはボスフォラス海峡(たぶん)を望むことができます。 ところで右の写真の左側遠くに巨大な塔のようなものが映っていて正体が気になるところ。

ハレム

最後にハレムに向かいます。ハレムへの入り口は第2の中庭にあるので、いったん来た道を戻る必要があります。 また、ハレムは別料金ですが、MUSEUMPASS TÜRKİYEには含まれていました。

ハレムに足を踏み入れたときの最初の感想は「空が狭いな」というものでした。

ハレムというと豪奢に飾られた空間かと思っていたのですが、ハレムの女性の大半を占める女奴隷は上の写真のような意外と質素な部屋で集団で生活していたようです*25

こちらは一転して優美な装飾が施された帝王の間。 ちなみにトプカプ宮殿はガイドに率いられた団体客も多く、特にハレムのこの部屋は団体客が滞留しがちでした。

泉亭と昼食

トプカプ宮殿、9時に入ったのにまったり見てたらあっという間に時間が経ち、出てきた頃には14時過ぎになっていました。 お腹もすいたので、昼食のお店を探します。

歩いている途中で見かけた建物。 確かアフメト3世のチェシメ(泉亭)のはず*26*27。 人々に水を供給するための場であると同時に、この泉亭は豪華な記念碑的な建物でもあったようです*28*29

このときは気に留めなかったのですが、銘板にはオスマン語の詩が書かれており、詩の結びの句に含まれるアラビア文字の数価を足しあわせると、泉亭の完成した年になる、というなんとも風流な工夫がこらされているそうです*30。これを現地で確認できなかったのは悔しい。。。 ちなみに泉亭の詩を巡るのを趣味にする人もいるそうです*31

このへんの話は東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の以下のエッセイとサイトに詳しい説明や具体例がありました。特に、後者では計算したい詩句を入力すると、自動で数価の合計を計算してくれるそうです。次は現地で使ってみたい(と言いつつ、そもそも先にこの文字を読めるようになる必要があるわけですが。。。)。

お昼は近くのケバブ屋さんで食べることにしました。 255TLでした。観光地価格お高い。。。

アギア・イレネー

昼食後、再びトプカプ宮殿方面に戻って、トプカプ宮殿の第一の中庭に建つアギア・イレネーを見学しました。

こちらは東ローマ帝国時代の教会で、オスマン帝国時代には倉庫に転用されたそうです*32

内部は装飾などもなく壁がむき出しになっていますが、そのぶん構造が分かりやすいです。

下の方は石材、上の方はレンガを組んでいることが見て取れます。

こちらも同様。 なお、このときアギア・イレネーは工事中で、工事用のネットがはられていました(上の写真左上に映りこんでいるのがそれ。)。

ということで、残念ながら室内を見渡すことはできず、ドームもこんな感じ。

イスタンブール考古学博物館

続いて、イスタンブール考古学博物館観光です。 アギア・イレネー、トプカプ宮殿いずれからも近く歩いてすぐでした。

  • このときは併設の古代オリエント博物館、チニリ・キョシュクはいずれも上の写真の通り閉鎖中でした。
  • 解説パネルはトルコ語だけでなく英語もある親切仕様でした。
  • トルコ全土のものが満遍なく展示されているわけではなく、西側のエーゲ海岸地域のものが多かったと思います。ギリシャ・ローマの文化を感じるものが目立ちました。
  • 展示品の配列ですが、時代別ではなく展示品の種類別(棺、コイン、土器/陶磁器)に並べられているところが多かったです。そのため、「トルコの歴史の流れを見る」という気持ちで行くと少し分かりにくいかもしれません。
  • 2時間半~3時間ほど滞在しました。

1階の棺を集めた展示エリアでは、シドン(現レバノンのサイダー)で発掘された豪勢な石棺がいくつも展示されていました。

中でもひときわ目を惹くのが、こちら、通称「アレクサンドロスの棺」。 といっても、アレクサンドロス大王が埋葬されているわけではないようです(要出典)。

人の背丈を超える高さも強烈な印象を与えますが、周囲の4面に精巧な彫刻も素晴らしく、思わず見入ってしまいました。

  • ペルシア?とマケドニア?の兵士が戦う場面(上の写真1枚目)がある一方、協力して狩りをしてるように見える場面(上の写真2枚目)もありました。なお、いずれの場面でも、マケドニア?側は全裸の兵士がいますが、これはギリシア彫刻の伝統でしょうか。。。
  • 浮き彫りの人物で腕が石棺の平面から浮いてる者は、手に何も持っていない者が多かったです。ただ、ポーズからして剣や弓などの武器を持っていたはずのように見えます。後から欠損した?
  • ところどころ、彩色の跡がある気がします。

屋根部分も芸が細かい。

アレクサンドロスの棺」以外にも、様々な棺が展示されていました。

個人的に気になったのはこちらの古代エジプトっぽい形の棺。 紀元前5世紀後半のものと書いてあって、この時期のレバノンあたりはアケメネス朝ペルシアの支配下だったと思うのですが、エジプトの文化が広がっていたとしたら少し意外に感じました。

彫刻など

こちらはバルケシル出土の紀元前5世紀の葬送碑(?)。 馬が運ぶのは被葬者が納められた石棺でしょうか。 その下の文字が何の文字*33で何が書かれているのか気になります。

古代ローマ時代の彫刻もこれでもかとばかりに展示されていました。

こちらはテュケーの石像。2世紀に造られたものだそうです。 石棺もそうでしたが、2000年前の造形技術の高さと保存状態の良さには思わずため息がでるほどでした。

土器/陶器など

2階には土器/陶器なども展示されていました。 写真のものは絵柄の部分が赤で背景が黒のタイプのものなのですが、逆に絵柄が黒で背景が赤のものもあったと思います。 どういう違いがあるのか気になる。

棺や彫像の展示(あと午前中のトプカプ宮殿も)で既にお腹いっぱいで、2階はざっと見るだけになってしまいました。 消化不良なところもあるので、また行きたいです。

夕食

今日の分は一通り観光し終えたので、ホテルに歩いて戻ります。

こういう街並みを眺めながら歩くのが好き。

夕食は前日と同じロカンタにしました。 スープはたぶんtavuk suyu、右奥のものはほうれん草+卵、手前のはたぶんtas kebabı。 確か170TL。

翌日に続きます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

*1:たぶん、普通はもっと短時間のはず。

*2:参考文献[1]p.130「トルコ族はもともと中央アジア出自の遊牧民だったので、その血の中に故地からの風習が根づいていたのかもしれない。民族性から考えれば、小亭が好んで造られたのはテントへの憧憬があったのかもしれないし、起伏を利用した庭園を造ることも、遊牧時代の生活空間の再現だったのかもしれない。」

*3: 参考文献[3]p.54「宮殿内部にいくつも建設されたキオスクは、おそらく遊牧民のテントに由来する独立した小規模建築で、それぞれの時代の趣味を反映した贅沢な造りを示す。」

*4:参考文献[2]p.38「この第一庭園までは、許可があれば民草も入城を許された、いわば宮中と市中を接続する外苑にあたった。」

*5:参考文献[2]p.38「獲物を放って狩競が楽しまれたほど広大」

*6:参考文献[3]p.54「一番外側の第一宮廷は広大な庭園で、狩りや宮廷行事が行われ、兵士が常住した。」

*7:参考文献[2]p.38「外廷は政庁や国庫が置かれた政の空間だ。」p.50「一方、いまは観光客が行きかうここ外廷庭園もただの庭ではない。よく晴れた吉日には内廷に通じる至福門の屋根の下に玉座が引き出され、論功行賞や各国大使の受任式が行われる儀式空間にさま変わりしたからだ。」

*8:参考文献[1]p.120「第二中庭には政庁、宮廷金庫、台所、厩舎などが配置され、公会議や王位継承式、使節の歓待などが行われた。小学校の校庭くらいの広さで、限られた人々の公的な空間であった。」

*9:解説パネルによると、果物、花、ハーブ、蜂蜜などで作った甘い飲料とのこと。

*10:というのも、これらの青花が作られた頃はこの宮殿はなかったはずだからです。元朝の滅亡が1368年、コンスタンティノープル陥落が1453年なので。

*11:参考文献[2]p.50「宮殿でもっとも高い塔を頂くこの建物が円蓋下の間。いまは観光客が日よけ代わりに群がる柱廊も、往時には屈強なイェニチェリたちによって厳しく警備されていた。この円蓋下の間こそが、オスマン帝国の意思決定を行う御前会議の開催場所であったからだ。」

*12:ヒジュラ暦から西暦変換」 https://keisan.casio.jp/exec/system/1299235060 を利用しました。

*13:参考文献[1]p.120「スルタンは議会の間で開かれる御前会議に、塔の中に設けられた玉座から格子越しに臨んだという。」

*14:参考文献[2]p.50「一方、いまは観光客が行きかうここ外廷庭園もただの庭ではない。よく晴れた吉日には内廷に通じる至福門の屋根の下に玉座が引き出され、論功行賞や各国大使の受任式が行われる儀式空間にさま変わりしたからだ。」

*15:参考文献[1]p.122「スルタンは平生の日中をここで生活していた。」

*16:参考文献[2]p.38~p.40「この外廷の北東に佇む第三の門が至福門、その先が内廷である。帝王の住まいやその個人的な富を収めた宝物庫、内廷学校と呼ばれるエリート養成機関が置かれた第三の庭園域である。」

*17:参考文献[3]p.54「至福門から入る第3宮廷はスルタンの執政と生活の場で、謁見の間や宝物庫、スルタンの私室(のちの執務室)、モスク、スルタンに直接仕える小姓の寄宿学校があった。」

*18:参考文献[5]p.65 : (メフメト2世の即位の文脈で)「即位したスルタンが、特に即位をめぐる係争がなくても予防的措置として行う「兄弟殺し」は、この時期から慣例として定着した。」

*19:現地のパネルによると18世紀

*20:参考文献[5]p.184「このため、次に即位したアフメト一世は、弟ムスタファを殺さずに残し、以後、新スルタン即位時の兄弟殺しは行われなくなった(一六○三年)。」

*21:参考文献[6]p.166「殺されなかった現スルタンの兄弟は、宮殿の奥深くに隔離され、そこで外界との接触を断って育てられた。これを、「鳥籠」(カフェス)」制度と呼ぶ。とはいえ、現スルタンの方針によっては一定の自由が与えられる場合もあり、王位継承候補と目される王子には十分な教育が与えられていた。

*22:参考文献[1]p.122~p.123「さらに北には一六三八年のバグダード征服を記念するバグダード・キョシュクがある。」

*23:参考文献[3]p.55(「バグダード・キオスク」の写真のキャプション「ムラト4世がイラクバグダードでの戦勝を記念して建てた。」

*24:参考文献[2]p.49「さきほどは足を踏み入れなかったハレム庭園の西の隅には、バグダード館が佇んでいる。帝王が金角湾を眺めながら朝食を摂る館であるが、この隣に噴水と池が設えられ、往時にはハレムの女性たちが遊ぶことがあったのだ。」

*25:参考文献[2]p.47「彼女たちの多くはギリシア系かスラヴ系の奴隷で、大半は広い小上がりに布団を並べて起居する大部屋暮らしの身の上。」

*26:参考文献[2]p.55「帝王門を出ると目の前に、灰色の鉛屋根を頂く東屋のような建物が目に入る。チューリップ時代(一七一八-一七三〇)の象徴としていまも愛されるアフメト三世の泉亭(チェシメ)だ。」

*27:参考文献[4]p.255の写真。

*28:参考文献[2]p.55~p.56「泉亭とは市民に無料で水を供する施設で、オスマン期には帝都の津々浦々に泉亭が造られた。」

*29:参考文献[4]p.255「チェシメは昔から田舎の村の広場や辻などにも建設され、様々な形態のものがあるが、ここで扱うチェシメ建築は、街の広場を飾る目的で建てられた特に豪華なものである。」

*30:参考文献[2]p.68(ドイツの泉の文脈で)「それがたとえどんな小さな泉であっても、必ず記年詩(紀年銘とも)と呼ばれるオスマン語の詩をあしらった銘板が掲げられ、その結句のアラビア文字の数価を足すと、泉亭の完成年が現れるという趣向が凝らされているのである。

*31:参考文献[2]p.68~p.69「こうした記年詩大全の類は帝国期から今日まで出版され続け、いまでも泉亭・記年詩探訪を愛好する人が一定数いる。泉亭巡りは、言うなればイスタンブールの街歩きの隠れた人気者なのだ。」

*32:参考文献[2] p.53「オスマン期、ビザンツ教会は往々にしてモスクへと転用されたが、聖エイレーネー教会は具足工房(ジェベハーネ)へ改組され、宮殿外郭の倉庫として便利に用いられて今日に至る。」

*33:フェニキア文字とかアラム文字あたり???