2024年ウズベキスタン旅行9日目(2024-05-04)の記録です。 サマルカンド観光2日目、一番の有名どころであろうレギスタン広場と、ティムールに関わる建築をじっくりと見て周ります。
今回の旅全体のまとめはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
グーリ・アミール廟
ティムール朝の祖であり、13世紀にモンゴル帝国によって荒れ果てたサマルカンドの街を再興した、ティムール。 そのティムールの墓所がこのグーリ・アミール廟です。
- 入場料は確か40千So'm。
- 滞在時間は1時間近く
正面入口の門。
門の横の壁がないのですが、どうも元あった建物は崩れてしまったと思われます。
後述しますが、けっこう破損していた時期があり、今残されている建物は全体の一部分に限られているようです。
朝9時頃と早い時間帯だったのですが、団体客で賑わっていました。
門をくぐると、青いドームを戴いた左右対称の建築が出迎えてくれます。
なお、さっきの写真だと門に隠されてドームは見えていませんでしたが、実際はこの高さもあって遠くからでも目立ちます。
このドーム、ドームが建物屋根から直接生えてるわけではなく、間に円筒状のドラムを挟んでいるのが印象的です。
ブハラで見たカラーン・モスクやミルアラブ・マドラサのドームもこの形式でしたね。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
このような円筒状のドラムは中央アジアでよく見られる形式だったと思います(要出典)*1。
イーワーン右側に人がつめかけてたのが気になって入ったところ、


墓石が並べられた空間で、中では人々がduaを行っていました(duaについては前日の旅行記参照。)。 ただ、duaをしている一方で髪を隠していない女性もそこそこいたので、世俗的な人でもするのかもしれないな、ということに気づけて興味深かったです。 duaについては前日の旅行記参照 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
再度外に出てイーワーン左側の入り口から中に入ります。


内部にはささやかながら展示もありました。 復元模型と現在の建物を比較すると、左右の部分はほぼ現存しないことが見て取れます。
印象に残ったのは古写真。廟の建築がけっこう派手に崩れていたことが分かります(ここに写っているのは正面の門だと思われます。)。
となると、今見える姿が、どこまでが本来の姿を反映したもので、どこからが現代の想像によって補われたものなんだろうとか気になり、素直に楽しみにくい。。。
そして、建物中央部の大ドームの下には、なんとも華やかで厳かな空間が広がっていました。
こちらのドーム、先ほど外から見た「円筒状のドラムの上に乗ったドーム」とは様子が違いますが、それもそのはず、このドームは2重になっていて、このドームの外側/上にドラムと外ドームが乗っかる形になっています*2。
イスラーム建築の本を読んだときは、外側から見える姿を高く大きくしたい+ドームを軽量化したい、という理由で説明されていた気がする(要出典)のですが、それなら単純に外側ドームだけで良い気がしていて、このへんまだ納得できていないです。
壁の装飾は綺麗すぎて、どこまで元来の姿を反映しているのかはよくわかりません。。。
ついついドームや壁面の装飾に目がいきますが、ここは霊廟。ということで、墓石が並べられています。
解説パネルによると、中央右の黒い墓石がティムールのものとのこと。
3はティムールの孫。もともとこの霊廟はこの孫のために建てられたそうです*3。
墓石の主の一覧を見ると、Sayyidという称号を持った人々がいることも分かります。 具体的には、ティムールの墓石の隣の4番のサイイド・バラカ、左奥の一段高い場所にある5番のサイイド・ウマル。 サイイド、というのは預言者ムハンマドの子孫を表わす称号で、ティムールは権力を握る際に彼らの承認を得ることでイスラームの権威も利用したそうです*4。
サイイド・ウマルの墓石の横には木の棒が立っていて、
棒の先端には何やら繊維の房のようなもの?がつながれていました。
どういう意味があるのか気になります。
中庭に出ると、彫刻が施された大きな岩に観光客が集まっていました。
もしかしたら興味深い来歴があるのかもなので、気になります。


レギスタン通りを歩いて、次の目的地のレギスタン広場に向かいます。 ちなみに傘をさしている方が写っていることからも分かる通り、このあたりで雨が降り始めました。
レギスタン広場
- 入場料 : 1人65千So'm(確か)
- 滞在時間 : 約2時間半
前日や前々日にライトアップされたレギスタン広場を眺めていたのですが、あれは広場の外から見たもの。広場内部や建物内部に入るには入場料が必要です。
広場の西側での入り口でチケットを購入して入ります。(東側は確か出口限定だったと思います。)
レギスタン広場には、3つのマドラサがコの字型に配置されています。
向かって左はウルグ・ベク・マドラサ、中央はティラカリ・マドラサ、右はシェルドル・マドラサ。
と言っても左と右のマドラサは見切れていますが、、、全景は広場の外からの方が見やすいので後で改めて眺めることにします。
せっかくここまで入ってきたので、建物1つ1つを見ていきます。
ちなみに「レギスタン」とはペルシア語で「砂地」の意味*5。 どういう経緯でこう呼ばれるようになったのか気になるところです*6。
ウルグ・ベク・マドラサ
まずは向かって左(広場の西側)のウルグ・ベク・マドラサへ。
正面入り口、随所に施されたアラビア文字の装飾が印象的です。四角に収まった幾何学文様のようなものの、図案化されたクーフィー体アラビア文字かもです。読めると面白そう。
さてこちらのマドラサ、名前からも分かる通り、ティムール朝の君主にして天文学者ウルグ・ベクが建てたマドラサ*7*8。 竣工は1420年*9で、確かこのレギスタン広場の3つのマドラサの中では最も古いものです。
ウルグ・ベクの天文学者としての功績については前日の旅行記の天文台跡の箇所を参照。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
ブハラのウルグ・ベク・マドラサはこちら参照。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
入口近辺で見つけた銘板。googleレンズの雑な翻訳と私の雀の涙しかないウズベク語力を信じるなら、タジク・ペルシア詩人?のАБДУРАХМОН ЖОМИЙがここ(このマドラサのことだと思います)で15世紀に活動していたことを述べたもののようです。
АБДУРАХМОН ЖОМИЙは、たぶんこの人のこと Jami - Wikipedia
中庭には緑豊かな空間が広がっています。
ちょっと気になったのはイーワーンの上部。
アーチ部分に金属製の部材らしきものが取り付けられています。
たぶん近現代になって補強のためにつけたのかなーと推察されます*10。
マドラサの小部屋は多くが工芸品のお店になっており、お店の人から日本語で声をかけられることも多かったです。
ただこちとらバックパッカーなので、かさばるものはだめだし、特に重くて割れやすいものは買えないんだな。。。
《HISTORY OF EDUCATION IN SAMARKAND》 EXPOSITIONと題された展示もありました。
マドラサで用いられた教材の例。
文字の見た目がだいぶ違うなと思ったら、左のものは19世紀のリトグラフ印刷されたもので、右のは18世紀の手写本*11。
そういえばイスラーム圏でアラビア文字の印刷が普及したのはかなり遅めで18世紀オスマン帝国のイブラヒム・ミュテフェッリカを嚆矢とするとか、宗教文献の印刷への反発は強かったとか聞いた記憶がある(要出典)のですが、このへんどういう紆余曲折を経て中央アジアで広まってマドラサの教材(展示されている品はどうも宗教関係っぽい)に利用されるようになったのか気になるところです。 ただ、これはリトグラフだから、活版印刷とはまた話が違うのかなあ。


左はウルグ・ベク・マドラサで教育を受けた著名な面々の紹介。 いくつか見覚えのある名前もあって、
- Alisher Navoiは泣く子も黙る(?)チャガタイ文学の創始者(たぶん)。
- Abdurahmon Jomiyは、さきほどこのマドラサの入り口に掲げられた銘板で見たАБДУРАХМОН ЖОМИЙのこと(たぶん)。
- Ali ibn Muhammad Kuschchiは、ウルグ・ベク天文台の責任者を務め、ウルグ・ベク亡き後に蔵書と共にイスタンブールに渡ってその業績を後世に伝えたAli Kuschchiのこと(たぶん)。詳細は前日の旅行記の天文台の箇所を参照。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
右のパネルではマドラサでの教育内容について触れられていて、イスラームの教学だけでなく、数学や地理、歴史、科学、医学など幅広い分野が教授された(でもイスラームに最も重きが置かれた)とか。 マドラサでどういう学問がどのようにして教授されたかとか、その社会的な位置づけとか気になるところです。 山川世界史リブレットにそれっぽい本があるので、読んでみたいところ。 《世界史リブレット》 102.イスラーム社会の知の伝達 | 山川出版社
いつ撮られたかは記載されていませんが、ここレギスタン広場のマドラサの写真。
かなーり損傷していて、特にティリャコリ・マドラサは正面のタイルほぼ全てが剥がれ、左のドームまで崩落しているというありさま。
既に聞いたことのある話なんですが、現在の姿はかなり修復した後のようですね。
ここまで修復されてるんだったら、もしかして装飾はほとんど後世のものかなー、と思ったのですが、
石に彫られた銘やタイルの文字装飾などからは当時の情報を得ることができるとのことで、往時の姿を留めているものもあると思われます。
"Masterpieces of Uzbekistan’s architectural epigraphy"(2011)という、このトピックに特化した本も出版されているそう。
石碑や文字が好きな人間なので、これはたまらん。
ちなみにamazonで調べたら著者がIslam Karimovと書かれていてびっくり。
国家的プロジェクトだったということですかね。
一通り展示を見たので、狭い階段を上って2階に上がります(写真は2階で撮影したもの。)。
中庭は緑豊かな分、地上からは見通しが効きにくいので、2階からの方が全体像が見えやすいかと思います。
中庭に面した箇所では、映え自撮りを撮影する人で渋滞もできてました。
少し離れたところから見るとこんな感じ。
なお、2階の通廊を一周することはできません。
というのも、イーワーンの開口部が貫通してるので。
ウルグ・ベク・マドラサを出るときには通り雨が降っていて、雨樋が仕事をしていました。
雨樋が長いなと思ったのですが、なるべく建物外壁から離れた場所に水を落とすことで、はねた水が建物にかかるのを防ぐためかもしれません。
ティリャコリ・マドラサ
次に、広場の北側に建つティリャコリ・マドラサに。
このときは雨で空模様もいまいちだったのですが、
この後晴れたときの姿はこちら。やっぱり青空の方が映えますね。
いずれにせよ、向かって左側にだけドームがあるのが見て取れます(これは後で大事になるポイント。)。
中に入ると、内側に向いた雨樋があり、その水をバケツで受け止めてました。
水の勢いが強くて、そのままだと地面の舗装が傷むから、とか?
こちらはさきほどのウルグ・ベク・マドラサと違って1階建て。
ですが、こちらのドームを戴いた部分は高く聳え、ひときわ目立ちます。
内部に入りドームを見上げると、なんとも華やかで距離感がおかしくなるような?装飾の天井が目に飛び込んできます。
ただ、さきほどウルグ・ベク・マドラサの展示で見た古写真の通りならドームは一度崩落しているので、これは恐らく再建なんだろうなーと思われます
(いやでも二重殻ドームの外側だけ崩れて、内側だけ残ってた可能性もある否定できないかも?)。
下に目を転じると、


ミフラーブとミンバルが目に入ります。 マドラサにしてはやけに立派な礼拝室だなーと思ったらそれも尤もだったようで、どうもビビ・ハヌム・モスク(後述)の崩落が進んでからは、本来マドラサだったこちらがモスクとして利用されていたそうです*12。
さて、ここで外から見た姿を思い出すと、広場の北に建つこのマドラサの向かって左側(つまり大雑把に西側)にだけドームがありました。 そして、サマルカンドから見てメッカはだいたい西側にあります(西南西くらいかな、たぶん)。 ドームの場所が非対称で一見不思議ですが、メッカを向いた礼拝堂の上にだけドームをかけるとこうなる、と思うと納得感があります。
マドラサ内には展示スペースもあり、タイル片や陶磁器、古写真などが展示されていました。
ものはあまり解説がない(せめて時代は書いてほしかった...)のですが、古写真は面白かったです。
1930年代のウルグ・ベク・マドラサ。
よーく手前部分を見ると、テント?などが立ち並ぶバザールのような状態になっていることが見て取れます。
19世紀の旅行記にもそのような記録があるとか*13。
こちらは中庭から撮ったものだと思うのですが、2階部分ないですね。。。ということは、さきほど回った2階部分は修復/再建したものかな。


Cathedral mosqueとありましたが、おそらく(この日後で訪れる)ビビ・ハヌム・モスクのこと。 前述の通り17世紀には崩落が進んでいたようですが、19世紀末の地震でさらにダメージを受けたそうです*14。
さきほどウルグ・ベク・マドラサでも似たようなものがあったのですが、15世紀の時代のレギスタン広場の図。
今でこそ3つのマドラサが並ぶ広場ですが、当時はウルグ・ベク・マドラサ、モスクや隊商宿などの施設が並んでいたと考えられているようです。
で、残り2つのマドラサ(ティリャコリ、シェルドル)は時代が少し下って、17世紀の建造*15。
ということで、ティムール朝の繁栄を象徴するかのように見られることもあるレギスタン広場ですが、3つのマドラサが広場を囲む姿になったのは17世紀、ブハラ・ハン国の時代ですね。
さて、次のシェルドル・マドラサに向かおうとしたところで気づいたことが: ティリャコリ、シェルドルの2つのマドラサは共通の基壇の上に建っていたのですが、ウルグ・ベク・マドラサはその基壇の上にはありませんでした。これは、もしかするとウルグ・ベク・マドラサと残り2つのマドラサの建築時期の違いを示すものかもしれません。
詳細は以下の通り


- 左の写真では、左側がウルグ・ベク・マドラサ、右側がティリャコリ・マドラサ。後者は基壇の上に建っているものの、前者はそうではないことが見て取れます。
- 右の写真はシェルドル・マドラサの前で撮ったもので、奥がティリャコリ・マドラサ、映っていないですが右側にシェルドル・マドラサがあります。この写真だと伝わりにくいですが、両者は共通の基壇の上に建っていました。
シェルドル・マドラサ
最後に、広場の東側のシェルドル・マドラサに*16。
こちらは2つのドームと、建物正面の具象的な動物の絵柄が印象的です(イスラームの宗教建築で動物の絵柄を描くのは珍しいかと思います。)。
ただ、傷んだ建物の写真を散々見たので、「これどこまで創建当初の姿なんだ...?」と気になってしまいました。
中に入ると、こちらはウルグ・ベク・マドラサと同様の2階建て。
ただ、観光客もお土産屋もウルグ・ベク・マドラサよりは少なくて落ち着いた雰囲気でした(時間帯の問題かも。)。
イーワーンにはベンチ(タプチャンだったかも?)も置かれており、ここでくつろぐのも気持ちよさそう。
何やら仮装写真を撮っている方もいました。
入り口側を振り返ったところ。2個のドームが印象的です。ドームの下の空間には入れなかったと思います。もしかしたら墓廟になってるのかも?
全景
最後に出口から出て、全景をもう一度。やはり青空の下で眺めると映えますね(といっても完璧な青空ではないですが)。
また、さきほど触れた基壇の話(ウルグ・ベク・マドラサ以外の2つのマドラサは共通の基壇の上に建っているが、ウルグ・ベク・マドラサはそうではない)も、この写真からよくわかります。 と言っても私は広場外から見たときは全くそのことに気が付かなかったので、やっぱり近くを歩いて観察するの大事ですね。
ところで、今更な疑問 : この広場に3つものマドラサが集中してたわけですが、どう運営していたのか気になります。それぞれ独立した機関だったのか、もしそうなら教育内容や専門が分かれてたのかとか、あとはしょうもない想像ですが、近くのマドラサどうしでライバル心を燃やしたりしたこともあったのかな、などなど。
あと、そもそもここにこれだけのマドラサは必要だったの?も気になるところ。
昼食
前日の夕飯に行ったお店でお昼にします(一都市に滞在するときは気に入ったお店を再訪しがち。)。 昨日ウズベク語で簡単なやりとりをした店員さんがウズベク語で注文をとってくださいました。 「何で国外からの観光客にウズベク語で話してんの笑」みたいな顔で別の店員さんが先ほどの店員さんに話かけていたのが印象的だったのでウズベク語少しできるアピール(← が、少し複雑な話になると全然分からなかったので、あえなく英語ができる店員さんのお助けを請いました。


どれも美味しく、特にショルヴァのハーブを利かせた香りが良かったです。
ハズラティヒズル・モスク
タクシーで少し移動し、ハズラティヒズル・モスクに向かいます。
こちらのモスク、個人的に一番の見どころはウズベキスタン共和国初代大統領イスラーム・カリモフの墓廟。 墓廟周辺は写真撮影禁止でしたが、記憶が正しければ、説明書きには"This is a sacred and eternal place where (とても長い美称) Islom Karimov rests."とありました。 また、他の廟で見たようなドゥアーを行っている人もいて印象的でした。 社会主義体制に由来する権威主義とイスラーム(というか正確には聖者信仰?)が共存する空間として、非常に興味深かったです。 ちなみにカリモフの扱いについては参考文献[3]の第45章に詳しいです。


先ほど下から見たテラス部分はこんな感じ。 木造の平屋根を支える造りです(ヒヴァの大モスクや、ブハラのアルクでも見かけたスタイル。)。 そういえばマドラサでは全然このタイプのものを見かけなかったけどなんでなんだろう。
また、このときはアラビア語圏から来たと思しき来賓*17がちょうど来ていて、テラスで記念撮影していました。自分もテラスで写真を撮ろうとそちらに近づいたら、SPのような人に制止されたり。ちなみに、後で彼らが乗った車が警察の車に先導されているのが見えました。 国外のお偉いさんの視察とかかなー。
このモスクは少し高いところにあるので、テラスからは遠くを望むことができます。
中央やや右の巨大な建造物は、この後すぐ訪れるビビハヌムモスク。
また、中央やや右下の歩道橋から奥に続く道はレギスタン広場すぐそばまで続いていました
こちらの滞在は20分くらいで、さきほどの歩道橋を渡ってビビ・ハヌム・モスクの方に進みます。
シヨブ・バザール。こちらも観光地として有名かと思うのですが、今回はスキップ。
ハズラティヒズル・モスクを振り返ったところ。
この通りは歩行者用の道として整備されており、人々で賑わっていました。
なお、歩行者用と書きましたが、写真奥にも見える通り電動カートも走るので要注意。
ちなみに、この通りでは、写真左のように手押し車でのアイスクリーム販売をよく見かけました。Andijon Muzqaymoqとありますが、アンディジャンと何か関係あるのかな。
ビビハヌム・モスク
- 入場料 : 40千So'm
- 滞在時間 : 約30分
ということで、ビビハヌム・モスクに到着。
なお、こちらはレギスタン広場のマドラサとは異なり、ティムールが建築したものです。
とにかく大きいの一言に尽きる壮大な建築です。
建物も巨大なら、中庭に鎮座する書見台も巨大。
こちらは確か中庭一番奥の建物。
中に入ることはできませんが、
隙間から中を覗くとこんな感じでタイルも装飾もなく傷んだ姿が見えますが、むしろさきほどティリャコリ・マドラサで見た古写真での損傷具合を見ると、よくドームを崩さずに保ち、外面だけでも修復したなと思いました。
同じ場所から入り口を振り返って撮ったパノラマ。
ドームを戴く建物が複数存在することが分かります。
ただ、元はたぶんこれら大ドームの建物をつなぐように建物があって中庭を囲っていたんだろうなーと思われます。
ビビハヌム・モスクの向かいにはビビハニヌム廟もあり、そちらも訪問したのですがここでは割愛。
散策と夕食
レギスタン広場付近で見たいものはだいたい見たので、ホテルに向かってぶらぶら歩きます。
イスラーム・カリモフ初代大統領の像の前で記念撮影する子供たち。
ハズラティヒズル・モスクの霊廟と言い、指導者の扱いが印象的。
電動カートと自転車?人力車?
この日は土曜日で賑わっており、子供たち中心ですが乗っている人も見かけた気がします。


夕食はお昼と同じお店にしました。 昨夜から続いて3回目なのでさすがに店員さんにも顔を覚えられたのか、目があうとにこっと軽く挨拶されました。 ラグマンとサラダ(アチュックチュチュック?)。こちらのサラダは香草などはないシンプルなものでした。
ご飯中に激しい雨が降ったのですが、食事をしている間にやみました。 今日午前もそうですが、もしかして雨といっても丸一日ふるとかじゃなく通り雨が多いのかも?
まだ明るいので、ぶらぶら散歩します。
横断歩道の面白い表示。たぶん、左から、スマホ見ながら歩くな、本読みながら歩くな、ヘッドホンで音楽聞きながら歩くな、...と一番右はなんだろ。
水たまりへの反射が良い雰囲気出してます。
ぼけーっと景色を眺めてたら何人かの人に声をかけられたりもしました。 現地の方から「アンニョンハセヨ」と挨拶されて韓国の存在感高いなーと思ったり、年齢訊かれたり、ウズベキスタンどう?一人旅?とか訊かれたり。 ちなみに年齢は今回も「何歳に見える?」と訊き返したら実年齢マイナス10歳くらいで答えてくださったので嬉しい(←
あとは、日本の方からタジキスタンへの日帰りツアーに同行しないか誘っていただいたのですが、翌日にタシケントへの移動が控えてたので残念ながら見送り。
飽きずに景色を眺めていると、段々と日が暮れてきました。
光の加減が変わり、ライトアップもはじまってこれも綺麗。
なんだかんだで3日連続でここのライトアップ見てます。
もうしばらく眺めてから、ホテルに戻りました。
翌日に続きます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com
参考文献
- [1] 小松久男 編者代表 (2023)「中央ユーラシア文化事典」丸善出版 ISBN: 978-4-621-30806-6
- [2] 小松久男, 梅村坦, 宇山智彦, 帯谷知可, 堀川徹 編 (2005)「中央ユーラシアを知る事典」平凡社 ISBN: 4-582-12636-7
- [3] 帯谷知可 編著 (2018)「ウズベキスタンを知るための60章」明石書店 ISBN: 978-4-7503-4637-3
- [4] 宇山智彦 編著 (2010)「中央アジアを知るための60章 第2版」明石書店 ISBN: 978-4-7503-3137-9
*1:トルコとイランを旅したときにはあまり見かけた記憶がないです。
*2:参考文献[1] p.562-p.563「青のドーム」の項。
*3:参考文献[2] p.172「グーリ・アミール廟」の項。「元来, 1403年に夭折した愛孫のムハンマド・スルタンを葬るために, ティムールが建てさせたのであるが, 彼自身もここに葬られることになった.」
*4:参考文献[4]p.35「一方、ティムールはイスラームの権威をも利用しようとした。政権樹立にあたり、かれはサイイド・バラカをはじめとするサイイド(預言者ムハンマドの子孫)たちの同意をとりつけ、イスラームの権威者からのいわば「お墨付き」を獲得した。」
*5:参考文献[2]p.528「レギスタン広場」の項。「原義はペルシア語で砂地。」
*6:前近代なら舗装してない砂地の方が普通の気がするので、ありふれた「砂地」を地名に使うのも変では?という気がしています。
*7:参考文献[2]p.87「ウルグ・ベク」の項。「その他, ウルグ・ベクは現存するサマルカンドとブハラのマドラサをはじめとして, モスク・校風浴場・スーフィー道場などの公共建築物を建て, 学者・文人の保護者として学術の発展に寄与した.」。ここで言及されているサマルカンドのマドラサが、このウルグ・ベク・マドラサのことかと思います。
*8:現地解説パネルより。
*9:現地解説パネルより。
*10:奈良の東大寺も内部には鉄骨が入ってるらしいですし、構造上補強はやむを得ないときもあるんだろうなーと理解しています。
*11:manuscriptとあるのをこの意味で理解していますが、100%の自信はないです。
*12:参考文献[2]p.443「ビビ・ハヌム・モスク」の項。「あまりにも完成を急がせたことから, 随所にいわゆる<手抜き>工事のあとが見られ, 完成後すぐに崩落が始まった. そのため, 17世紀には金曜モスクとしての用をなさなくなり, もともとマドラサとして建設されたレギスタン広場のティッラーカーリーが利用されるようになった.」
*13:参考文献[2]p.582「レギスタン広場」の項。「19世紀の旅行記では, ここにモスク, マドラサ, 病院をはじめ多くの建物や, 色とりどりのテントが立ち並ぶバザールがあったと伝えられているが, 現在はごく一部を除きすっきり取り払われている.」
*14:参考文献[2]p.443 「ビビ・ハヌム・モスク」の項。「1897年の地震によって, 建物は致命的な損害を受け, ドーム部分の崩壊が早まった. 」
*15:参考文献[2]p.528 「レギスタン広場」の項。「15世紀前半にウルグ・ベクは, ここにモスク, マドラサ, 公共浴場, 宿泊施設などを建設したと伝えられるが, マドラサのみが残り, 17世紀には, その形体をモデルとしたシールダール・マドラサが, ウルグ・ベクのマドラサに相対して建設された. また、広場の北側にはティッラーカーリー・マドラサが建てられ, モザイク・タイルで飾られた大きな前壁を持つマドラサが, 西東北三方から広場を囲む形となった. 」ティリャカリ・マドラサが17世紀とは明言されていないので、ここは留保が必要かもしれません。一応、https://en.wikipedia.org/wiki/Registan にはいずれも17世紀の建造とあるのですが、wikipediaは出典としては弱いので。。。