世界史ときどき語学のち旅

歴史と言語を予習して旅に出る記録。西安からイスタンブールまで陸路で旅したい。

2023年トルコ旅行記 4日目 ヒエラポリス・パムッカレ観光とコンヤへの移動

2023年のゴールデンウィークのトルコ旅行4日目(2023-04-29)の記録です。

トルコ旅行全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

ホテルの朝食ビュッフェでは、ディルやイタリアンパセリのようなハーブ類もあり、オリーブ、チーズ、ハーブとパンの組み合わせがとても美味しかったです。

トルコ滞在中は毎朝オリーブを食べてたのでこれが習慣になり、日本に帰ってからもオリーブを買って朝に食べるようになりました。残念ながらディルは日本ではあまり売ってない。。。

カラハユットからヒエラポリスへの移動

前日にバスを降りた噴水(上の写真)のあたりからドルムシュに乗ってヒエラポリスに向かいました。 ちなみにドルムシュは最初は超ノロノロ運転だったのですが、途中で乗客を何人か拾ったところでスピードを上げていました。

ヒエラポリスにはこのサイトにあるように3つのゲートがありますが、私が向かったのは北ゲートです。 ドルムシュの運転手にはHierapolisで通じましたが、よくよく車内に貼ってあった紙を見るとKuzey kapı(北ゲート)という表示があったので、こっちの方が正しいかもしれません。

かかった時間はおよそ10分、運賃は10TLでした。

ヒエラポリス・パムッカレ観光

概要など

  • (たぶん)公式サイト : Hierapolis (Pamukkale) Arkeoloji Örenyeri
  • museum pass対象です。
  • エフェソス遺跡以上に広いので、地図はあった方が良いかと思います。私は地球の歩き方の地図をスキャンしてスマホにデータを入れていきました。
  • 石灰段丘のうち、水がある箇所は一部のみです。(メインゲートに下るルートは水がありました。)ただ、私はヒエラポリスの遺跡が主目的で、石灰段丘はおまけくらいのつもりだったので、特に気になりませんでした。
  • 団体観光客は多いものの、エフェソス遺跡に比べて面積が広く観光客もある程度分散していたため、あまり気になりませんでした。なお、トルコ国内の団体客多めで、ここでチンチャンチョンを2回くらいました。今回の旅行でこの言葉を聞いたのは(気づいた範囲だと)このときだけでした。
  • かなりまったり見たので、5時間以上いました。

ネクロポリス

北ゲートを入るとまず見えてくるのは、ぽつぽつと散在する墓。

こちらの墓は家の門構えのような正面が印象的でした。

扉枠には軸受けのような穴が開けてあるようだったので、往時はきちんと動く扉がはめられていたのかもしれません。

歩を進めるにつれて墓の密度が上がり、さながら死者の街のような様相を呈します。ネクロポリスという名前もむべなるかなと思われました。

棺にはギリシア文字が刻まれたものもありました。

こちらの墓の正面に彫られた碑文では、墓を荒らすものに不幸や来世での罰が訪れる旨の言葉が書かれているとのことでした(解説パネル。)。

こちらは日本の古墳に近いものを感じる墓。

ところで、下の写真のような、台座や門の上に棺が載ったタイプの墓もいくつか見かけました。この形だと、往時も棺は地下ではなく地上にあったようにも見えるのですが、実際のところが気になります。というか地上にあった場合、衛生面大丈夫だったのだろうか。。。

北ゲートから約1kmほど続いたネクロポリスが終わると、公共浴場跡が見えます。

解説パネルによると、

  • 3世紀の建造で、造られた場所は市壁の外。
  • 当時のアナトリアでは、市内に入る前に身を清めることが義務付けられていた。
  • 6世紀に教会に転用された。

とのことです。

ここまで北ゲートから約1kmほどの道のりでした。 北ゲートからヒエラポリス遺跡に入ると、「段々と街に近づいていく」体験ができ、面白かったです。

市内へ

こちらは街への入り口となる、フロンティヌス門。

解説パネルによると(門に彫られた文言から)、1世紀後半に属州アシアの総督フロンティヌスがドミティアヌス帝に捧げて築かせた門とのこと。 ちなみに、名前に聞き覚えがあるなと思ったら、あの「水道書」のフロンティヌス(Sextus Julius Frontinus)のことのようでした(これも解説パネル情報です。)。

門をくぐると、大通り(フロンティヌス通り)に出ます。

ちなみに写真左側の部分は公衆トイレ跡です。 たぶん、こちらが入り口。

「なんで市内に入ってすぐに公衆トイレがあるんだろう?」と不思議に思ったのですが、帰国後に本を読み返したら、公衆トイレについて「浴場の排水を利用することが多く、隣接していることが多かった。」との記述がありました*1。 確かに、さきほど通ってきた道では、フロンティヌス門の前に公衆浴場がありました。 また、エフェソス遺跡でも公衆トイレのすぐ近くに浴場があるのを思い出しました。

フロンティヌス通りを振り返ったところ

ちなみに、解説パネル曰く、フロンティヌス通りの中央には暗渠があり、公衆トイレの排水を流していたとのこと。 実際、地下が空洞になっていることが敷石の隙間から見て取れました。

また、通りの両側に並ぶ回廊部分の横向きの石材を見ると、穴があいているようです。 梁を通すのに使うのによさそうなので、通りの両側には天井があったのかなーと思いました(素人のあて推量です。)*2

メインの遊歩道あたりからそれると、季節故か、花畑が広がっていました。 花々が咲き乱れる中に遺跡が点在する様、諸行無常を感じて趣深い。

ちなみにこの時点で12時頃。 昼食を食べそびれたので、景色を眺めながら日本から持ってきた行動食を食べました(発想が登山者。)。

劇場

しばらく歩いて着いたのが、たぶんヒエラポリス遺跡の一番有名な見どころ、劇場。 ここは観光客が集中していました。

解説パネルによると、3世紀半ばにセプティミウス・セウェルスの治世下に建造されたとのことです。

下の写真右やや下、客席が半円形になっている部分は、貴賓席のようです*3

なお、斜面を利用して建てられているようですが、横や裏から見ると、高さを人工的に稼いでいるところがあるのも見て取れて面白いです。

考古学博物館

遺跡内には、考古学博物館もあります。 建物はなんと古代ローマの公共浴場を改装したものです*4

内部には、ヒエラポリスや周辺(ラオディキアなど)の発掘品が展示されています。 展示品には石棺や彫像、レリーフから、土器/陶器や小さな装飾品などがありました。

特に、石棺のセクションではいくつもの棺が展示されており、比較して眺めることができて興味深かったです。 手前と奥の棺は、房状の花飾りとメドゥーサの首を組み合わせたモチーフ(奥の棺、この向きからだとメドゥーサが見当たらないですが、裏面にはいました。)

一方、こちら(上の写真の右側にいた棺)は、柱で区切られた空間に人々が描かれたもの。解説パネルによると、どうも被葬者の人生の中のエピソードを描いたもののようです。

ちょっと興味深かったのが、1枚目の写真の奥の棺。 長辺はどちらも他の棺と類似したモチーフが用いられていたのですが、短辺のうち一方は下のようなものでした。

これはたぶん雄牛を屠るミトラス神ですよね…?

石灰棚

博物館を見終えて、最後に石灰棚を通ってパムッカレ村方面の出口に向かいます。

水がないところはこんな感じ

これはこれで白くて綺麗な気もする。

メインのルートには一応水があります。

なお、石灰棚は保護のため靴を履いての通行ができません(ピーチサンダルなどはOKのよう。)。 私は荷物を減らしたかったのでサンダルは持って行かず、裸足で歩いたのですが、なかなか痛いです。 荷物に余裕があればビーチサンダルを持参したほうが楽だと思います。

パムッカレからデニズリに戻る

ドルムシュ

パムッカレ村のこのあたり(google map street view)のあたりからデニズリ行きのドルムシュに乗りました。 ラオディキア遺跡にも行こうかと思っていたのですが、時間がなさそうだったので大人しくデニズリに戻りました。

夕食

デニズリのオトガルの近くのロカンタで夕食。54TL。

小さいお店で、お店の人やその知り合い(たぶん)の親子連れの方など、いろいろな方が話しかけてきてくださいました。 どこから来たのとか、年齢とか仕事とか、どこに観光行くのか、くらいはトルコ語でギリギリしのいだのですが、さすがにこれ以上はgoogle翻訳に頼りました。 ちなみに話してくれていた10代前半くらいの女の子はK-popが好きらしく、イランに行ったときも思ったのですがK-popの人気と影響力はすごいなと思いました(小並感)。

デニズリからコンヤへ

デニズリのオトガルから、夜行バスでコンヤに向かいます。

長距離バスの予約方法や乗り方については(Kamil Koç社のバスのみですが)別の記事に書いたので、そちら参照 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

オトガルのトイレは有料でした。1回2TL。

出発時間15分以上前にトイレから乗り場に戻ってきたところ、心臓に悪い事態が発生; 唯一止まっていたKamil Koçのバスがちょうど目の前で出発していき、「予約してるんですけど...!」という意味で運転席に向けてスマホQRコードを示すも、にこやかに「バイバイ」とばかりに手を振りながら去っていきました。。。が、定刻には早いはずなのでオトガルのカウンターに確認したところ、乗る予定の便の一本前の便が遅延していたもののようでした。セーフ。

乗り場に戻り、バスをそわそわと待っていた(このときはここに書いたbus trackerの存在に気づいていませんでした)のですが、ちょうど同じ便に乗る予定のご婦人が親切にも「30分以上は遅れるらしい」と英語で教えてくださいました。 ちなみに、こちらの方とはそのあともいろいろと話したのですが、英語のhe/sheをたまに逆にしていて、そういえばトルコ語だと3人称単数代名詞(o)は性別を区別しないということを思い出したりしました。

これは乗るのとは別の便。ちなみに、「行きたい行き先には行くけど、経由地まで見ると別の便だった」ということもあるので、車両先頭の経路情報の紙はかなり重要情報でした。

待つこと定刻から40分ほど遅れて、乗る便が到着しました。 乗車中の様子なども、上の長距離バスの記事参照。

翌日に続きます。

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

*1:参考文献[1] 第5章 ローマ「帝国」とは何か p.166

*2:この穴が通りの外側に向けて貫通しているかを確認しそびれました。貫通していなかったとしたら梁を外向きに通せないはずなので、上記のあて推量は大外れだと思います。

*3:解説パネルに"In the centre of the ima cavea (the lower seats) is a large marble exedra, with seats having lion paw terminals and high backs, for persons of high status."との記載がありました。

*4:https://muze.gov.tr/muze-detay?sectionId=DHA01&distId=MRK