世界史ときどき語学のち旅

歴史と言語を予習して旅に出る記録。西安からイスタンブールまで陸路で旅したい。

2023年トルコ旅行記 5日目 コンヤ観光

2023年のゴールデンウィークのトルコ旅行5日目(2023-04-30)の記録です。

ここまでの観光地では古代ローマ時代の遺跡が主でしたが、ここでは時代ががらっと変わり、ルーム・セルジューク朝統治下のイスラーム色の強い歴史的建造物を主に訪れました。

トルコ旅行全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

オトガルから市内へ

オトガル

前日夜に夜行バスに乗り、コンヤ(Konya)のオトガルには午前4時過ぎ、ほぼ定刻通りに到着しました。

まだ夜明け前で、気温は1桁台でかなり寒かったです。 オトガル内には売店やロカンタがあり、深夜早朝でも営業しているようです。(このときは利用しなかったので、食事まで出してるか否かなどは確認していません。)

さすがにまだ街に繰り出すには早すぎる(そしてコンヤのオトガルは中心街から遠い)ので、待合室の椅子にてバックパックを抱えながらしばし仮眠をとりました。 写真の通り、他に仮眠中の方が複数人いました。

また、こちらのオトガルはトイレは無料でした。

なお、2回ほど怒鳴り声が聞こえた(喧嘩かトラブル?)のですが、すぐに警備スタッフにつまみ出されていました。

夜明けを待って、市街地に向かいます。

トラム

コンヤのオトガルは中心街から少し離れていますが、トラムで行くことができます。 ということで、トラム駅への案内に従って移動します。

参考 : コンヤの交通局?の公式サイト(たぶん) https://atus.konya.bel.tr/

オトガル駅で撮影した路線図 :

トラムの支払いにはKonyakartと呼ばれるICカードが必要なようで、かつ購入窓口は有人で深夜早朝は開いていないという情報がありました*1。 一方、非接触決済対応のクレジットカードで支払えるという情報も見かけた*2のですが、未確認です。

で、私はどうしたのかというと、なんとオトガルで英語で雑談したおじさまが「君の分払っておくから好きなところで降りな」(意訳)と親切にも払ってくださいました。深謝。なお、トラム内でもいろいろと話したのですが、「私はクルド人トルコ人は好きじゃない。」という話も出ました。

だいたい30~40分くらいで、アラアッディンの丘周辺の駅に到着。近くのお店で朝食を摂りました。ただ、さすがに朝7時くらいに開いているお店は少ないので、オトガルで食べる方が確実だった気もします*3

ちなみに、この後コンヤの観光は全て徒歩で行いました。 公共交通の出番がオトガルと中心街の移動しかなかったので、Konyakartは仮に買ったとしてもほとんど使う機会がないかもしれません。

アラアッディンの丘周辺

まずは中心街近くアラアッディンの丘周辺から観光開始。

コンヤはルーム・セルジューク朝が都をおいた街*4*5で、アラアッディンの丘周辺の観光地はこの時代の歴史的建造物がメインだったと思います。

インジェ・ミナーレ博物館

公式サイト(たぶん)

解説パネルと公式サイトによると、13世紀後半に、ハディース学を講じるためのメドレセとして建造されたとのこと。 現在は博物館になっているものの、私が訪れたときは残念ながら修復工事のため中には入れませんでした。 守衛の方に拙いトルコ語でいつ開館するか尋ねてみたのですが、「だいぶ先。1年とか、3年とか。」と言われた気がします(自信がない。)

中には入れないとは言え、正面入り口の彫刻は外から存分に堪能できました。

石の上に、よくこれだけ曲線的で流麗な模様を刻んだものだなと驚かされます。 帯の中にはアラビア文字が描かれているようなので、読めると面白いかもしれません(と言いつつも、おそらくクルアーンなどからの定型文なのではないかという気がしています。)

ミナレットの装飾はレンガと施釉タイルの組合せのように見えます。

話がそれるのですが、この時代近辺のアナトリアの建築は、石細工が美しいという印象があります。代表的なものとして世界遺産のディヴリーイ(Divriği)の大モスクと病院が挙げられるのですが、残念ながらそちらも現在工事中と聞いていたので、今回の旅程には含めませんでした。

カラタイ博物館

公式サイト(たぶん)

こちらも13世紀にメドレセとして創建され、現在は博物館として利用されています。

正面装飾が見事なのですが、インジェ・ミナーレ博物館のものとはまた異なるスタイル。 たとえば、ムカルナスはインジェ・ミナーレにはありませんでした。 また、よく見るとこちらにも文字が刻まれています。 扉枠の横にも以下の通り、文字があります。 ありがたいことに、博物館内にはこれらの全訳が書かれたパネルがありました。 それによると、一番上にはこの建物の由緒が記され、扉の周りにはクルアーンハディースなどからの言葉が刻まれているとのことです。

このへん、ワクフの話などをしたくなるのですが、書き始めると長くなりそうなので割愛。

館内中央は、ドームに覆われた広間になっています。

ドームを支える扇型の部材(いわゆる「トルコ扇」)*6がいかにもルーム・セルジューク朝(というかこの時代のアナトリア)らしくて、個人的には好きです*7。他の時代/地域のイスラーム建築ではあまり見かけない気がします*8。 なお、扇の三角形の中にも文字装飾らしきものがあります。解説パネルによると、預言者やカリフなどの名前が繰り返されているようです。

ところで、メドレセ建築の定番は中庭の周りをイーワンや部屋が囲む形式のようなのですが、アナトリアは(ペルシアあたりに比べて)冬寒く降水量も多いので中庭をドームで覆うようになったと読みました*9。 ただ、アナトリアのメドレセが全てこのような形式というわけではなく、たとえばこの後に訪れたスルチャル・メドレセには、屋根のない中庭がありました*10

建物内部には、創建者Celâleddin Karatayの墓もあります。 こういう、「自らが創建した宗教施設の内部に自らや一族の墓を設ける」パターンはよくあるようで、理由としては「マドラサの中に墓を作れば、墓も間接的にイスラム法の保護下におかれ、墓廟を単体で建てるよりも維持がしやすくなるから」(大雑把な要約)という極めて世俗的な理由もあるようです*11*12*13。他の事例や、建設意図についての詳しい議論は、参考文献[6]4章「多様性の時代」の2節「モスクと「墓付きマドラサ」」に詳しいです。

ここまで、メドレセとしての側面について書いてきましたが、この建物自体は現在は博物館で、陶磁器やタイルを展示しています。 以下の写真は、Kubad Abad宮殿から出土した13世紀のタイルとのことです。

写真3枚目の一部のタイルは、ラスター彩っぽい?

アラアッディン・ジャーミー

現地の解説パネルによると、12世紀半ばから13世紀前半にかけて造られたモスク。

一方の入り口は下の写真の通り地味ですが、

側面に回ると、カラタイ博物館の正面と類似した装飾が見られました。

また、よーく見てみると、碑文がいくつもありました。これは読んでみたい。

中庭には、墓が立っています。解説パネルによると、ルーム・セルジューク朝の歴代スルタンの墓とのことでした。

礼拝室内部はこちら。林立した柱とアーケードが平屋根を支える、比較的古典的なつくりに近いもののようです。(ただ、木材は新しく見えたし、金属と思しき補強の部材もあるし、かなり修理されてる...?)

ちなみに今回の旅でモスクの内部に入るのはこれが初めてでした。 礼拝室では祈っている人もいた一方、子供が走り回っていたり、観光客(たぶんトルコ国内)がミフラーブの前で自撮りをしていたりと、なかなか不思議な空間でした。

そのミフラーブはこちら。全体的に地味なこのモスク内部で、この一角は華やかに装飾されています。

ミフラーブ前の天井を覆うドーム。 三角形の組み合わせでドームを支えるこのような様式は初めて見ました*14。カラタイ博物館のドームでは、三角形を扇状につないでドームと壁面をつないでいたので、これとは異なる形式ですね。 1つの技術的課題に対して、歴史的に様々な解決策が用いられているという点は興味深いです。

ミフラーブ横のミンバル(説教壇)。 解説パネルによると、銘文の記載通りならルーム・セルジューク朝時代から残る品とのこと。 参考文献[2] p.155にも写真付きで「アナトリアに残るイスラーム時代の遺物のなかで, 年代の明らかな, 最古のもののひとつである。」と書かれていました*15

考古学博物館周辺

はじめに : 考古学博物館などのgoogle mapsの口コミを見ると、周りの治安が悪い旨の書き込みがありました。実際、建物は見るからにボロボロで荒れているものが多く、物乞いにも遭遇しました。昼間にもかかわらず、歩く際は若干緊張しました。(ということで写真を撮る余裕がなかったので、このエリアの市街地の写真は撮っていません。)

スルチャル・メドレセ

解説パネルによると、13世紀半ばに、イスラーム法のメドレセとして創建されたとのこと。 ただし、現地の解説パネルによると、学生の部屋などは後世に再建されたようです。

私が訪れたときは閉まっており、2枚目の写真も鉄格子の間から撮ったものです。 ただ、本記事執筆時点(2023-06-24)にgoogle mapsの口コミを見たところ、現在は開いているようです。

サーヒブアタ・ジャーミー

こちらも13世紀創建のモスク。 ただ、現地の解説パネルによると、19世紀後半に火災で失われてしまい、往時の姿を留めるのはほんの一部だけのようです。

下の写真も、おそらく数少ない創建時のもの*16*17*18

こちらも石細工が見事でした。周りの治安が心配だったので、あまりぼけーっと眺めることができなかったのが少し残念。

コンヤ考古学博物館

かなり小さい博物館です。

野外部分はこんな感じ。

館内に入ると、まずは精巧な彫刻の施された石棺に出迎えられます。

こちらの棺、側面に3人の人物(おそらく家族?)が彫られているようなのですが、この場合被葬者はこの3人のうち誰なんだろう、というのが気になりました。(セルチュクの博物館でも似たようなこと言ってた気がする。)

奥の方には、チャタルヒュユクなどからの出土品が展示されています。

展示品はなかなか興味を惹かれるものも多いのですが、施設が古く、多くの展示品が雑然と並べられていたり、解説も少なかったりと、全体的にもったいない気がします。 博物館の施設と展示品が釣り合っていない気がする。。。

昼食

歩いてメヴラーナ博物館の方に移動します。 さきほどの考古学博物館のあたりは治安が心配だったのですが、メヴラーナ博物館に向かう大通り(Mevlana caddesi)に出ると雰囲気は様変わり。 こちらにはとても綺麗で賑やかな街並みが広がっています。

昼食はメヴラーナ博物館すぐ近くのお店でいただきました。

あまりお腹が空いていなかったので、arabaşı çorbası(鶏肉スープ)だけ頼んだのですが、セットでついてきたacılı ezmeが大当たりでした(フレッシュなトウガラシの香りがとてもよかったです。辛さはあまりなかったです。)。

ちなみにこのお店は下の内観写真のようにとてもおしゃれ(当社比)なものでした。

で、メニューもこれまた綺麗なものだったのですが、よくよく見ると値段が書いていません。 実は、写真のページとは別に、最後に「価格表」のようなものがついていました。 インフレで値段を頻繁に変えることへの対応策だとしたら興味深いなと思いました。

メヴラーナ博物館周辺

昼食後、すぐ近くのメヴラーナ博物館に向かいます。 ここまでのアラアッディンの丘周辺や考古学博物館周辺では観光客はごく少数だった(もっとも前者は朝早かったからかもしれません)のですが、メヴラーナ博物館近辺は対照的にかなりの人混みでした。ちなみに、この日はちょうどトルコの3連休の中日でした。平日などならもっと空いているかもしれません。

メヴラーナ博物館

公式サイト(たぶん)

現在は博物館となっていますが、もとは神秘主義者ルーミーの墓廟を核とした、メヴレヴィー教団の元拠点(道場や修道院と言うべき?)だったものです。 現地の解説パネルによると、墓廟は13世紀に建てられたようですが、建築には後世にかなり手が加えられているようです*19。 ちなみにルーミーが活動したのも没したのもコンヤの街ですが、もとは現在のアフガニスタンのバルフの生まれで、モンゴルのイラン方面への侵攻の時期にコンヤに移り住んだそうです*20

入り口側から見た姿。写真からわかる通り、塔は囲いに覆われていました(たぶん修復工事中)。

墓廟部分への入り口。

中に入ると、御覧の通りの人混み(ただ、3連休中日でなければ、もっと空いているかもしれません。)

棺などが展示されています(あまりにも人が多く、解説などがあったかどうかも確認しそびれました。)

中でもひときわ目を惹く、煌びやかな装飾が施された棺がこちら(恐らくルーミーのものだと思うのですが、確認していません。 )。

上の棺の前には映え写真を撮ろうとする人々が押し合いへし合いしており(自分もその1人)、元墓廟とはいえ、宗教的な面よりも観光地としての面が強いのかなと感じました。*21

少し興味深いなと思ったのが、棺を納めた建物内部に礼拝するためのエリアがあったこと。共和国成立後ずっとこうだったのか、それともどこかで変更があったのかが気になります。近年、イスタンブールアヤソフィアが博物館からモスクに戻された話もあるので、もしかすると最近変更があったのかもしれないなと思いました。

この建物以外にもいろいろと展示などがあったのですが、あまりにも人が多すぎたので早々に退散しました。

スルタン・セリム・ジャーミー

続いて、メヴラーナ博物館のすぐ隣に建つスルタン・セリム・ジャーミー(Sultan Selim Camii)。

16世紀、オスマン帝国の時代に建造されたモスクのようです*22。内部は、見るからにオスマン帝国様式のモスク。

アズィズィイェ・ジャーミー

次に、西方向の繁華街エリアにある、アズィズィイェ・ジャーミー(Aziziye camii)に。

下の写真は側面のもので、窓の大きさが印象に残りました。

正面

内部

wikipediaトルコ語版のページによると、現在の建物は19世紀に再建されたものとのことです。 窓の大きさと言い装飾と言い、西洋の影響(バロック様式に近いもの?)を感じるところが印象的でした。

カプ・ジャーミー

更にもう少し西に向かい、繁華街の中にあるカプ・ジャーミー(Kapı camii)も訪れました*23。 こちらは観光客はほとんどおらず、静かに礼拝する人がほとんどでした。

1階部分が店舗になっています。恐らく、昔は店舗部分をワクフ財にして、賃料収入をモスクの維持にあててたんだろうなーと推察されます。

内部。木材が使われているようです(トルコのモスクでは珍しいのではないかと思います。)。

入り口の銘板。 google翻訳によると、元は17世紀に造られたモスクですが、改修や火災による消失などを経て19世紀に再建され、直近だと1997年に修復されているようです。

見学中、1つ面白いことがありました。 隣で写真を撮っていた青年が英語で話しかけてきたのですが、てっきり観光客と思いきや礼拝に訪れた方で、イスラームについての軽い説明と「世界にはいろんな信仰や主義主張があるけれど、もしよければイスラームの道を考えてくれると嬉しいな」(意訳)というソフトな布教を受けました。でも押しつけがましさは一切なくて、さっきのセリフの後には「じゃあ、用があるから」と颯爽と去っていきました。これがコミュ力か、と感心しました(←

夕食

お昼のチョルバ(スープ)が美味しくてチョルバをいろいろと試してみたいなーと思ったので、google mapsで検索した近くのチョルバ専門店に行ってみました。

メニューはなかったのですが、実物を見せてくださったので、見ながら注文しました(なお、だいたいどんなものがあるかは、上の写真で分かる通り、店頭の電光掲示板に出ていたので、予め目星をつけておくと良さそう。)。 サイズは普通か小かを選べました。複数種試すのには小サイズが便利そう。

下の写真の通り、テーブルにパンがたくさん入ったボックスがあり、パンはここから自由に取る方式でした。 写真には取りそびれたのですが、テーブルにはテーブルには、レモンやおろしにんにくなどの調味料や、トウガラシのピクルスのようなものがありました。

頼んだのは、バーミャ(bamya。短いオクラ?)、

イシュケンベ(işkembe。羊の胃袋などのスープ。)

ケッレパチャ(kelle paça。羊の足や頭の肉のスープ。)

イシュケンベは少しクセがあったのですが、おろしニンニクを入れると病みつきになる味わいでした。 なお、イシュケンベは白いスープのイメージがあったのですが、こちらのお店のは違うようです。 書いててまた食べたくなってきたけど、日本でケッレパチャとかイシュケンベとかを出してるお店あるのかな。。。

翌日に続きます。

amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

*1:たとえば、https://ca-voir.com/konya-tourism-jp/ や、https://meshi-tabi.com/2023-4-1/#st-toc-h-2 など。

*2: https://www.gezigunlugum.pasdanismanlik.com/2019/04/09/public-transportation-and-elkart-fees-in-konya/ ただし記事執筆時点でリンク切れ。

*3:上のおじさま曰く「オトガルのお店は高いし美味しくない」とのことだったので中心街にしてみました。

*4:参考文献[1]p.137「アナトリアを支配したルームRūm=セルジューク朝(1077~1231)は, 最初イズニク(ニケーア)を都とし, イズニクが第1回十字軍に奪われた後は内陸のコンヤを都とした。」

*5:参考文献[2]p.155写真のキャプション「ルーム・セルジューク朝の首都であったコンヤ」

*6:参考文献[3] p.19。ただし、参考文献[5] p.99では「ターキッシュ・トライアングル」の例としてカラタイ博物館のドーム移行部の写真が挙げられており、トルコ扇とトルコ三角形を区別していないようです。

*7:四角い部屋の上に丸いドームを乗せようとすると、部屋の壁(四角)とドームの底面(円)をうまく接続する必要があります。この問題を解決するための手法にはいくつかの類型があるのですが、詳しくは参考文献[4]のp.265「正方形の部屋にドーム天井を架ける方法について」を参照。そのうちの1つが、ここで述べた、「トルコ扇」です。

*8:参考文献[5]p.99 「ドーム移行部をターキッシュ・トライアングルと呼ばれる三角形の折板構造で仕上げることも、アナトリアに特異な造形である。」

*9:参考文献[5] p.89 「寒さが厳しく降雨が多いアナトリアでは、中庭をドームで覆う変形も現れる」として、カラタイ博物館のドーム室が例に挙げられています。

*10:参考文献[4]p.59には、ルーム・セルジューク朝時代と君侯諸国時代にアナトリアで建設されたマドラサについての調査結果が引用されており、それによると現存するもの51件のうち、屋根のない中庭が中心となるタイプのマドラサが36件とのことでした。

*11:参考文献[6]p.147「イスラム共同体の共有財産であるマドラサは、寄進された財産を元に、未来永劫に存続することが法的に保障されていたから(実際はそうならないことも多かったが)、その限りは中にある建設者の墓も維持されていくはずだった。」ただし、アイユーブ朝マドラサ建築を議論の発端とした文脈での記述です。

*12:参考文献[5]p.88「教育施設は公的な役割を果たす宗教施設であり、モスク同様転用や廃止が禁止されているので、そこに墓を敷設すれば、永続性を確保できる。」ただし、11世紀から13世紀半ばの、大シリアを対象にした文脈です。

*13:ちなみにモスクに墓を併設することはイスラーム世界全体だと少数派のようです。参考文献[6]p.141参照。

*14:参考文献[3]p.17では「トルコ三角形」と呼ばれています。詳しくは参考文献[4]p.266参照。

*15:私が見たものと同一のものかは確証はないですが。

*16:解説パネルによると、残ったものは"Qibla wall of the old mosque, niche and monumental portal"とのこと。最後のmonumental portalがこの写真のものと理解しています。

*17:参考文献[2] p.167の図のキャプションによると、この入り口上方に定礎碑文があり、年代が分かるとのこと。

*18:参考文献[3]p.29 「入口タチカプとタチカプの右側のミナーレはオリジナルだ。」

*19:参考文献[4] p.134「トルコに数ある墓廟の大半は歴史的価値があるものの、時が経って訪れる人も少ないが、メヴラーナ・ルーミー廟は生き続けていて参拝者が絶えない。それゆえでもあるが、多くの修理や増築を受けていて、簡単には説明しきれない複合建築になっている。」p.135には増改築のもう少し詳しい説明もあります。

*20:参考文献[2] p.175

*21:このへんはイランはシーラーズのシャー・チェラーグ廟に行ったときも似たようなものを感じました。そのときは、墓廟の前はもっと厳粛な場で祈る人々が多かったのですが、全体で見るとそのような人々は少数派で、中庭にいた人々の大半は自撮りに興じるなどしていました。

*22:モスク正面には「1570」と書かれた銘板があり、コンヤの自治体公式ページ http://www.konya.gov.tr/sultan-selim-cmii にも1567年完成と書かれていました。

*23:現地の銘板にはKAPI CAMİİと記載があったのですが、google mapsではKapu Camiiとなっていました。