世界史ときどき語学のち旅

歴史と言語を予習して旅に出る記録。西安からイスタンブールまで陸路で旅したい。

2023年冬 中国 西安と蘭州の旅まとめ

2023年の年末に、中国は西安から蘭州を旅しました。 9月の旅で西安から敦煌までを旅したのですが、そのときは時間が足りず蘭州や西安などはあまりじっくり見れなかったので、今回別途行ってきました*1

前回9月の旅のまとめはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

概要

11日間の日程で、西安→蘭州→宝鶏→西安を旅してきました。 前回9月の旅は西安から敦煌を駆け抜ける旅程だったので移動が多かったのですが、今回は西安に5日間滞在するまったり旅程です。 天水(麦積山石窟で有名)も行こうかと思ったのですが、9月の敦煌莫高窟で石窟はお腹いっぱいになったのでパスすることにしました。

予習

9月の旅の予習・復習で既に何冊か本を読んだのですが、さらに追加で何冊か読んでいきました(以下の記事は9月と12月の旅の話をまとめて書いています。)。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

9月の旅で漢代の木簡をいくつも目にして興味を持ち、今回の旅では蘭州の甘粛簡牘博物館に行くことにしたので、木簡・竹簡の本を読んでいきました。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

加えて、西安では碑林博物館を訪れる予定だったので、中国書道についての本もいくつか読んでいきました。 予備知識ほぼゼロで行ったら「石に文字が書いてあるな」くらいしかわからなかったと思うので、これは予習してよかった。

※執筆中

日程詳細と旅行記

1日目 2023-12-13(水) : 日本→西安

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2日目 : 2023-12-14(木) : 蘭州

  • 国鉄路 D2649 西安北 7:04 → 10:23 蘭州西
  • 蘭州観光 : 蘭州簡牘博物館
  • 蘭州市街地に宿泊

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3日目 : 2023-12-15(金) : 蘭州

  • 蘭州観光 : 府城隍庙、黄河鉄橋(中山橋)、白塔山公園、蘭州黄河橋梁博物館、蘭州水車博覧園
  • 蘭州西駅近くに宿泊

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4日目 : 2023-12-16(土) : 宝鶏

  • 国鉄路 G2686 蘭州西 7:06 → 9:19 宝鶏南
  • 宝鶏観光 : 宝鶏青銅器博物館、金台観

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5日目 : 2023-12-17(日) : 咸陽

  • 国鉄路 C162 宝鶏 7:06 → 8:29 興平
  • 咸陽観光 : 茂陵、咸陽博物院、咸陽古渡遺跡博物館

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6日目 : 2023-12-18(月) : 西安

7日目 : 2023-12-19(火) : 西安

8日目 : 2023-12-20(水) : 西安

9日目 : 2023-12-21(木) : 西安

  • 西安観光 : 鐘楼・鼓楼など

10日目~11日目 : 2023-12-22(金) ~ 2023-12-23(土) : 西安→日本

*1:まとめて行こうとすると3週間を超えそうだったので、2分割しました。蘭州より西は寒そうなので、寒くなる前に蘭州~敦煌を旅し、東側は12月にのんびり、という作戦(?)です。

2023年トルコ旅行記 12日目 イスタンブール観光その3

2023年のゴールデンウィークのトルコ旅行12日目(2023-05-07)から13日目の記録です。 この日がトルコ最終日、イスタンブール3日目にしてアヤ・ソフィアとスルタン・アフメト・ジャーミィ(ブルーモスク)を訪れました。

トルコ旅行全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

アヤ・ソフィア

  • 2024年1月のニュースで、アヤ・ソフィアが入場料を徴収するようになることと、1階の見学が海外の非イスラム教徒の観光客については制限される旨のニュースを聞きました(詳細未確認)。以下の内容は2023年5月の訪問時のものであり、これから訪れる方は最新の情報をご確認ください。
  • このときは入場無料でした。
  • 1時間半ほど滞在しました。

朝食をホテルで済ませて、歩きでアヤ・ソフィアに向かいます。

朝9時過ぎの時点でこの長蛇の列。この右奥の先にアヤ・ソフィアがあります。 並んでるときに小学生くらいの団体に「写真一緒に撮って!」(たぶん)と言われて写真を撮られまくってました。 学校で修学旅行(?)か何かで来ているようで、引率の先生らしき人曰く「うるさくてすみません、田舎の子供たちには海外の人は珍しくて」とのこと。

外観。 約1500年もの歳月を経て今なおここに建ち続けているという事実に驚きを禁じえません。 と言っても、無傷で生き残ってきたわけではなく、地震などでドームが何度か崩落したそうです*1*2

主ドームを小ドームが支える、という形式はオスマン帝国のモスクに受け継がれたわけですが、後世のオスマン帝国のモスクに比べるとバットレス(?)がどえらく目立つ気がします。 これも技術の進歩によるもので、後世のモスクは安定した構造を確立したということでしょうか。

入り口には、ここがモスクであることが宣言されていました。 思えば、キリスト教会→モスク→博物館→モスクと変遷を経てきたというのも感慨深い。 近年のモスクへの変更が議論を巻き起こしたことは記憶に新しいです。

内部に入る直前。この角度からの写真を見ることはあまりなかったので、よく知った姿とは印象が異なり記憶に残りました。 これまたバットレスがいかつい。もしかしたら後世に足されたものかもしれません*3

ナルテックス。 このときはモザイク画を見ることができましたが、見た感じ布か何かで隠せるようになっているようなので、タイミングによっては見れないかもしれません。

ここで靴を脱いで中に入ります。

身廊に足を踏み入れると、大ドームを戴いた広々とした空間が広がります。 1500年前にこんな建造物を作ったローマ人の土木技術の高度さは感嘆に値します(前日も同じようなことを書いてた気がする。)。 ちなみに写真下端に映った人の頭からも察せられるかと思いますが、中はかなりの人混みでした。

側廊と2階部分。私が訪問した時は2階には入れなかったと思います。 「実は入れるけど気づかなかっただけ」だったら悲しい。

中央の大ドームを半ドームで支えているのですが、よく見ると上の写真の通り、さらにその半ドームを3つのさらに小さいドームで支えているようです。 けっこう構造が複雑なのですが、参考文献[1]p.30~p.31に詳しい解説がありました。

構造力学が分かるとここらへん楽しめそう*4。 ちなみに3つの小ドームのうち中央のものにはモザイク画が描かれているはずなのですが、このときは残念ながら隠されていました。

最奥部は礼拝用のスペースとなっており、礼拝する人以外の立ち入りはお断りになっていました。 礼拝用スペースで自撮りに興じていた人がいて一瞬ひやひやしたのですが、自撮りが終わった後に礼拝を始めたのでセーフ。 ミフラーブのある場所が建物の凹部の中心とは一致しておらず、キリスト教建築に後から付加したものであることを示唆しています*5

柱の頭部の装飾がやたらと綺麗に残っているけど、これはさすがに後から修復してるのかな。 ペンデンティブ部分にいる謎の生命体は天使だそうです*6

出口から出る際に振り返ると、見事なモザイク画が見送ってくれます。 聖母子にコンスタンティノープルとアヤ・ソフィアを寄贈(?)する(東)ローマ皇帝の姿を描いたものだったはず(要出典)。

スルタン・アフメト・ジャーミィ

続いて、スルタン・アフメト・ジャーミィ(通称「ブルー・モスク」)に。 こちらは1617年に建てられたもの*7

常に開いているわけではなく、タイミングによっては礼拝のため観光客は立ち入れないようです。 私が行った時の公開スケジュールは上の写真のとおりですが、季節によって時刻は変わるかと思います。

正面入り口。ここでモスク本体をバックに写真を撮っている人がたくさんいました。

入るときは曇っていたのですが、出てくる頃には青空が広がっていました。これは出てきた後に撮った写真。

実は今回の旅の直前(確か1か月くらい前?)までこのモスクは修復工事中で、「工事いつ終わるかなー」とトルコ語のニュースをgoogleで検索してはやきもきしていました。 運よく訪問前には工事が無事完了し、こうやって内部を見学することができて良かったです。

中央の大ドーム。 なお、上部の装飾はタイルではなくフレスコ画だそうです*8

移動と昼食

スルタン・アフメト・ジャーミィを見終えたので、次の目的地、シェフザーデ・ジャーミィ方面に向けて移動します。

移動前に広場の端に座って少し休憩していたら、「英語の練習がしたい」という少年に声をかけられたので少しお喋りしました。 別れ際に「僕の家族がレストランやってるから、良かったら来るかい?」と言われたのですが、これから向かう方向と逆になりそうだったのでお断りしました。 ソフトな客引きだったのかな。

こちらはトラムの駅まで歩く途中で見かけたハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマーム。 建設年は1556年で、スレイマン1世の寵姫ヒュッレム・スルタンの建てたものだそうです*9。 今も現役のハンマームで、一瞬入ってみようかと思いました。 が、一人旅でしかもこの日はホテルをチェックアウトして荷物を全部抱えて移動しているので、ちょっとハードルが高いなと思って見送りました。 あとけっこうお値段が高かった気もする。

トラムのLaleli-İstanbul Ü.駅で降りて、シェフザーデ・ジャーミィに歩く途中のお店でご飯にしました。

メルジメッキ・チョルバと、鶏肉とジャガイモなどの煮込み(写真撮りそびれた)。 お値段126TL。 スルタン・アフメト地区から少し離れた観光客の少ないエリアだからか、はたまた鶏肉だから、前日のお昼などに比べるとお安めでした。

シェフザーデ・ジャーミィ

昼食を食べたお店から少し歩くと、大きなジャーミィが見えてきました。

こちらのジャーミィは、かの名建築家ミマール・スィナンの手による建築で、1548年頃完成とのこと*10。 スレイマン1世と妃ヒュッレムの子で、夭逝した王子メフメットのためのキュッリエの一部です。 「シェフザーデ」という言葉は「王子・スルタンの息子」の意味だそうです*11

正面入り口が分からず、少し目立たない出入口から「観光客なんですが入って良いですか?」と出てきたおじさまに訊いて入りました。 が、こちらは礼拝者用の出入り口だったようで、入ったらもろに礼拝者用のスペースに出てしまって焦りました。

スルタンアフメト地区に比べると観光客は少なく、落ち着いて過ごすことができました。

大ドームを4本の柱と4つの小ドームで支える形式です。 大ドーム内の装飾、スルタン・アフメト・ジャーミィのものよりもコントラストがくっきりしているような気がして、好みです。

礼拝室から中庭に出たところ。 本来、正面入り口から入っていたら、こちらの中庭を経由して室内に入るはずでしたね。

モスクの周囲は緑がひろがり、ベンチも置かれていて、人々の憩いの場となっていました。

ヴァレンス水道橋

このまま歩いてスレイマニエ・ジャーミィに向かうのですが、近くにヴァレンス水道橋もあったので、寄ってみました。

ヴァレンス帝の治世下の西暦378年に完成した水道橋です*12。 1500年以上残る水道橋を建造したローマ人もさることながら、これを横切る形で車道を整備した後世の人々もすごいと思います。 ローマ人たちも、馬よりもはるかに速い乗り物が橋の下をびゅんびゅん通過していく様子は想像していなかっただろうなー。

近づいて見てみると、上段の一部は石材ではなくレンガでできているように見えます。 「下は石材、上はレンガ」というのは、エフェソスの遺跡や、セルチュクの教会、ここイスタンブールのアギア・イレネーでも見たパターンです。

スレイマニエ・ジャーミィ

坂道を上り、スレイマニエ・ジャーミィに向かいます。

さきほどのシェフザーデ・ジャーミィと同じくミマール・スィナンの手による建築で、こちらはスレイマン1世本人のためのものです*13

大ドームを4本の柱で支えていますが、大ドームの周りの小ドームは2つだけ、という形。これは午前に見たアヤ・ソフィアと同じ様式ですね。

観光客はシェフザーデ・ジャーミィよりは多かったですが、スルタンアフメト・ジャーミィよりは少なく、比較的落ち着いていました。

内部には英語で解説してくださるボランティアの方もいました。 ただ、少し話した限りでは、モスクの歴史や建築よりはイスラームの教義などをメインに解説しているようでした。 「ここはスルタンが財産を寄付して慈善施設として造ったのです。どうしてだと思いますか?」(意訳)と訊かれたので「表向きは宗教的な善行としてだけど、もっと実際的な理由として、ワクフ制度を利用して自らの墓を末永く維持するため」というなんとも即物的な理由*14を言おうかと思ったのですが、自重して(というかそこまで瞬時に言える英語力がなかったので)「宗教的に良い行いとされていたから...?」と無難な答えを返してしまいました。

時間に余裕があったので、持ってきた「物語イスタンブールの歴史」(参考文献[2])をぱらぱら眺めながら休憩しました。 こちらの本、まるで時間旅行をしているように往時の様子を生き生きと描写しているので、現地で読むとなお面白い。

モスクの裏に出ると、海を見下ろすことができます。 高台に建っているので景色が良い。

そしてそのすぐ近くにあるのが、スレイマン1世(右)と寵姫ヒュッレム(左)の墓廟。 さっき解説の方に言おうとした件ですね。

しかもちょうどモスクのキブラ壁の外側にあるので、モスクで礼拝する信徒の祈る方向は、必然これらの墓廟の方向になります*15。 意図的かどうかは分からないですが、面白い配置だと思います。

モスクの周りはさきほどのシェフザーデ・ジャーミィと同様に緑にあふれ、ピクニックなどに興じる人々で賑わっていました。 公園みたいな扱いなのかな。

モスク外の、キュッリエの建物。かつてはメドレセなどだったようです*16*17。 ざっと見た範囲では今はレストランとして使われているようですが、後でgoogle mapsで調べたら図書館や大学の講堂となっているものもあるようです。 特に図書館は手稿本を多く所蔵しているそう*18。 一般の観光客向けの展示を行っているかどうかは確認していないのですが、モスクだけでなくこちらも行ってみれば良かったなーと後悔。。。

やたらとkuru fasulyeの看板を掲げたお店が並んでいたので、ここの名物なのかな。 写真には「TÜRKİYENİN EN İYİ KURUFASÜLYECİSİ」となんとも自信にあふれた言葉も見えます。 夕飯にはまだ早いかなと思って食べなかったのですが、今となっては悔やまれる。。。(2回目)

移動と夕食

最後に新市街に向かいます。

歩いて海辺まで降ります。なかなかの坂で、スレイマニエ・ジャーミィが高台の上に建てられていることを実感できました。

そこから今回の旅で初のイスタンブールのバスに乗りました。 その際はこちらの方の記事が参考になりました。 feel-the-earth.com

新市街のチョルバジュで夕飯にします。 ただ、うーん、スープが薄い気がするし、パンも袋に入った個包装のもので、ちょっといまいちだったかな。 コンヤやカイセリで入ったお店の方が断然美味しかったと思います。

ガラタ塔

夕食後、せっかくなので近くのガラタ塔(MUSEUMPASS TÜRKİYEで入れる)に寄ることにしました。

歩いて行ったのですが、途中かなりの坂を上ることになります。イスタンブールは坂が多い気がする。

下から見上げたガラタ塔。 夕方という時間故か、入場待ちの長蛇の列ができていました。

もとはガラタの城壁そばに見張り塔として建てられ、長らく火の見櫓としての役目を果たしてきたそうです*19。 現存する塔は、1348年に建てられたものが幾たびもの損壊と修復・改修を経たもののようです*20。 ただ、外壁は綺麗で、内部も現代のエレベーターまで備わっていたので、正直なところどこまで古い構造がそのまま残っているのかは自信がないです。

一番上の展望台では、ガラス越しではなく、屋外に出て景色を眺めることができます。 上からの眺望はすばらしく、旧市街を眺めながらどれがどのスポットか考えたり地図と比較したりと、イスタンブール観光の締めにとても良かったです。

写真左端の塔はトプカプ宮殿の円蓋下の間/議会の間の上に建つ塔(この2日前に行ったときの記録はこちら参照)、そこから右に目を向けると、アヤ・ソフィアやスルタン・アフメト・ジャーミィなどが見えます。

海岸近くにはイェニ・ジャーミィ、右の丘の上にはスレイマニエ・ジャーミィも見えます(たぶん)。

なお、塔の上の屋外展望台は人が多い割にとても狭く、誘導も行われなかった(一方通行などもなかった)ので、やや危ない気もしました。 むしろその一段下の屋内からの方が、ガラス越しとはいえ、ゆったりと外の眺めを楽しめたと思います。

登りはエレベーターでしたが、下りは階段で降りました。 途中、ガラタ塔やイスタンブールの歴史についての展示もありました。

空港へ

観光を一通り済ませたので、名残惜しいですがメトロでイスタンブール国際空港に向かいます。

これは地下鉄駅の入り口前で最後に見送ってくれた(?)エルドアン大統領のお顔。 このときは大統領選挙中でした。

まず手近な駅から乗り継いでKağıthane駅へ。

Kağıthane駅ではいったん外に出て地上を歩いて乗り換えます。ちょっとややこしいので注意。 上の写真がKağıthane駅での空港線への入り口。 なお、空港線は2023年1月に開業したばかりのようで、駅も車両もとんでもなく綺麗でした。

やたらとかっこいい。

Kağıthane駅から空港駅まで30分程度だったと思います。

空港駅から空港までは少し歩きますが、動く歩道もあるので、大荷物がなければあまり問題ない気もします。

深夜発の便で日本に戻りました。

参考文献

*1:参考文献[1]p.33「...557年の地震で亀裂が生まれ、558年にドームは崩落した。再建され562年に献堂ドームは、...(中略)...南北の大アーチを補強して架けられた。このドームも989年に西側の約1/3が、1346年には東から東南の約1/2が、いずれも地震により崩落したが、かなり忠実に修復されたので、現存のドームは562年に再建されたドームとほぼ同じ形態だといえる。」

*2:参考文献[2]p.64「その建造にあたってエフェソスのアルテミス神殿や、エジプトのヘリオポリスなどから運ばれた古代円柱や、大理石がふんだんに使われた床、そして大円蓋は―幾度か部分的に崩壊したとはいえ―創建当時のままである反面、内部装飾の多くはレオーン三世期(七一七-七四一)の聖像破壊運動(イコノクラスム)によって失われ、いまも残るモザイク画は帝国の最盛期にあたる九世紀以降に作られたもの。」

*3:参考文献[1]p.33「16世紀半ばには、倒壊を防ぐための補強バットレスが多数付け加えられたため、外観はかなり醜い状態になって現在に至っている。」

*4:私は構造力学は全く分からないので勉強したい。

*5:ただ、上の写真だけをもってして「これは元はモスクではないことが分かる」というのは主張が強すぎる気がします。たとえば、モスクでも「メッカの方角を測りなおした結果ミフラーブの向きを調整する」等といったことも、もしかしたらあるもしれないので。。。

*6:参考文献[2]p.67「たとえばドームの四隅の穹隅を見てみよう。大きな顔から羽の生えた異形が描かれている。こちらは四大天使をかたどった壁画だが、漆喰を塗るのに手間がかかるためか、オスマン期にも塗り潰されず放っておかれていた。」

*7:参考文献[1]p.231

*8:参考文献[1]p.234「2階の窓の高さより上の装飾は、ピアやドームの内面も含め、筆で描かれたフレスコ画である。」

*9:参考文献[2]p.56, p.61

*10:参考文献[1]p.181「1543年6月に定礎を行い1548年に完成したこのキュッリエは、...」キュッリエ(複合施設)の完成年としての記述なので、モスク単体の完成年は異なるかもしれません。

*11:参考文献[1]p.181。ただし、元来はスレイマン1世自身のために建設されていたのではないか、との説もp.181~p.182で紹介されており、著者はこれを支持しています。

*12:参考文献[2]p.112

*13:参考文献[1]p.182, p.189

*14:このへんについては参考文献[3]p.147にマドラサ建築と墓の関係として詳しく述べられています。スレイマニエ・ジャーミィについてもp.216に次のような記載があります。「アイユーブ、マムルーク両王朝時代の墓付きマドラサほど露骨な形ではないが、スレイマニエをはじめとするオスマン朝のスルタンたちの複合施設群も、建設者の墓廟の永続的な維持、管理をその建設目的の一つとしていたことは間違いない。」

*15:参考文献[3]p.217「その壁の外側には、スレイマンの墓があるため、メッカの方向へ向かってひれ伏しているムスリムは、結果としてスレイマンの墓にも祈りを捧げていることになってしまうのである。また、別の見方をすれば、スレイマンが信徒の先頭に立ってメッカに祈りを捧げていると考えることもできよう。いずれにせよ、神と信徒の間にスレイマンがいることに変わりはない。」

*16:参考文献[1]p.183 図64

*17:参考文献[4] p.176 図5-5

*18:【世界の図書館から】 スレイマニイェ図書館(トルコ) https://u-parl.lib.u-tokyo.ac.jp/japanese/world-library46

*19:参考文献[2]p.140

*20:参考文献[2]p.140~p.141

2023年トルコ旅行記 11日目 イスタンブール観光その2

2023年のゴールデンウィークのトルコ旅行11日目(2023-05-06)の記録です。 引き続きイスタンブールのスルタンアフメト地区周辺を観光します。 博物館2か所、遺跡2か所、モスク3か所とだいぶ詰め込みましたが、見どころが集中しているおかげで移動に時間をとられず、じっくりたっぷり余裕を持って楽しむことができました。 リュステム・パシャ・ジャーミィはタイルで彩られた空間が本当に美しく、アヤ・ソフィアやスルタン・アフメト・ジャーミィ(いわゆるブルーモスク」)より人も少なくゆったりできるのでおすすめ。

トルコ旅行全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

朝食

昨日と同じく、ホテルのビュッフェで朝食。

地下宮殿

朝食後、アヤソフィアに行こうかと思ったのですが、歩いてる途中に地下宮殿入り口に並ぶ行列が見えた(確か9時の開館時間より前だったと思います)ので、なんとなく地下宮殿に行くことにしました。

  • 公式webサイト(たぶん) : https://yerebatan.com/en/
  • MUSEUMPASS TÜRKİYEの対象外です。
  • 1時間ほど滞在しました。
  • 俗称の「地下宮殿」で呼んでいますが、正しくは宮殿ではなく、地下に設けられた貯水池です。

ユスティニアヌス帝の時代(6世紀)に築かれ*1*2、1500年近い年月を経て今に残っています。 解説パネルによると、オスマン帝国の時代にも一時期トプカプ宮殿の水源として用いられていたとか。 古代ローマの土木技術の高さには恐れ入ります。。。

古代ローマオスマン帝国時代に幾度も整備された水道についての解説パネルもありました。 イスタンブールは真水の地下水に乏しく、これだけ水道整備が必要になったそうです*3

天井はレンガのアーチでできており、それを石柱が支える構造のようです。 重機もない時代にこれを施工するのはすごい。。。

ライトアップの色が切り替わるので、見るタイミングによって雰囲気もだいぶ変わります。

ところで上の写真からも分かる通り、石柱の柱頭のデザインはまちまちです。 また、一部の石柱は高さが足りなかったのか台座のうえに設置されています。 恐らく、既存の建築の石柱を転用したのではないかと思われます。

極めつけはこちらのメドゥーサ(たぶん)の頭。 人目につかない地下貯水池にわざわざ彫刻を施した石材を用意するとも考えにくいので、これも転用かもしれません。

こちらは通称「涙の柱」と呼ばれている(らしい)柱。ただ、実際は涙の模様ではなく、木の幹を表わしたものだそうです*4

あとはこっちの柱には明らかに文字が刻まれていることが見て取れました。 何が書いてあるかはよくわからないですが、これも転用かな。。。

出てくるころにはアヤ・ソフィアには長蛇の列ができていたので、そちらは翌日に回すことにしました。

次の見どころに向かう途中で客引きのような人2人に日本語と英語で声をかけられたので少しお喋りしました。 イスタンブール(スルタンアフメト地区の観光関係者限定かもしれないですが)、これまで行った他のトルコの都市(カッパドキアは除く)と比べてぶっちぎりに英語が通じてすごい。

  • 「このへん、夜はぼったくりバーに連れ込もうとする人がいるから気を付けてね」(意訳)と言われました*5
  • 筆者が中国語もできるという話から、「中国語のニックネームがある」と言われたので何なのか訊いてみたら「我叫帅哥」って返されて笑いました。

最後お茶に誘われてお断りしたのですが、たぶん絨毯販売の客引きだったのかな。

トルコ・イスラーム美術博物館

続いて、広場の北西側に建つトルコ・イスラーム美術博物館に向かいました。 こちらの建物、今は博物館ですが、元はイブラヒム・パシャ(スレイマン1世の寵臣)の邸宅だったそうです*6

  • MUSEUMPASS TÜRKİYEで入れました。
  • 2時間半ほど滞在しました。
  • 展示は概ね時代(王朝)の順番に並べられていました。
  • 解説パネルはトルコ語と英語が併記されていました。
  • 展示室に入ってから音声ガイドがあることに気が付いたのですが、借りそびれました。入場前に確認したほうが良いかも?

ウマイヤ朝の石板。 墓碑か何かかなと思ったら、パネルには"mile stone"と書かれていました。 交通の話はかなり気になるので、中に何が書かれているのか興味を惹かれました(読めないけど)。

同じくウマイヤ朝クルアーン写本。 何ともかわいらしい(?)書体で、ウマイヤ朝にしては書体が新しいのでは?と思ってパネルを見たら、"Umayyad Period. North Africa, late 12th or early 13th century"と書いてありました。 「すぐわかるイスラームの美術」(参考文献[2])のp.76, p.77と見比べてみると+北アフリカで書かれたものということを勘案すると、マグリビー体な気がします。

セルジューク朝の焼き物。 左下のボウルの絵、人物の髪型にどことなく東洋らしさを感じる気がします。

マムルーク朝の、モスクのガラスランプ。 この時代は宗教施設の建築が盛んで、それらの内部を照らすためにこのようなガラスランプが大量に製造されたそうです*7。 文字文様や植物文様などを組み合わせて表面が美しく飾られています。 ただ、装飾が多い分透過性が低くなる気もして、ランプとして機能するのか少し気になりました。

同じくマムルーク朝クルアーン写本。こちらは見慣れた(?)書体ですね。 ただ、右側の装飾された枠内の文字は他とは異なる書体のようです。たぶんクーフィー体? あと、枠外余白の文字が何なのか気になります。もしや後から使用者が書き込んだものとか...?

ちょっと気になったのが、サファヴィー朝時代のこちらの器。 パネルには"Kashkul(Beggar's Bowl)"と書いてあったので、托鉢に用いる容器だったようです。 こんなに綺麗に装飾された容器で本当に托鉢に行ってたのかな...?

こちらの木製品は、確かルーム・セルジューク朝かベイリク時代あたりのもの。 精緻な彫刻もさることながら、木製品が数百年もきれいにのこっていること自体がすごい気がします。

こちらは確かオスマン帝国の勅書か公文書? 上半分を占める華やかな装飾は恐らくスルタンなどのトゥグラ(花押)ではないかと思います。 どの文書も左上がりに書かれているのですが、わざとでしょうか。

オスマン朝のエリアには絨毯も多数展示されていました。

オスマン朝まで一通り見終わって中庭に出たのでこれで終わりかな、と思ったのですが、"Ethnography Hall"と書かれた展示室があったので入ってみました。

主に近代の市民生活や民俗についての展示のようで、ハマム、コーヒーハウス、絨毯など様々な文化についての解説と展示がありました。

影絵芝居(カラギョズ)に用いられる人形(?)。 影絵芝居と言えば東南アジアのイメージがあるのですが、どうも中国→東南アジア→マムルーク朝オスマン帝国と伝来してきたという説も有力なようです*8。 海の交易が伝えた文化だとしたら、とても興味深いです。

驚いたのはこちら。絵かと思いきや、なんと絨毯でした。 イスタンブールの街の様子絵が描写されており、アヤ・ソフィアやガラタ塔などが判別できます。

アト広場(ヒッポドローム跡)

美術館を出て正面の広場、アト広場(トルコ語で馬広場という意味のようです*9 )。 ただの広場ではなく様々な古代の文化財が並んでいます。

こちらは古代エジプトオベリスク。 もともとは紀元前15世紀にエジプトの神殿に立てられたものだそうです。 それをコンスタンティヌス1世の時代に輸送し、次のテオドシウス1世の時代にこの広場に立てたとのこと*10*11

オベリスクの台座の四面には浮彫が施されています。 左の写真にはオベリスクを立てるときの様子らしきものが描かれており面白い。

続いて、serpent columnと呼ばれる*12こちらのらせん状の柱。 ペルシア戦争での戦勝を記念して古代ギリシャで作られ、元来はデルフォイの神殿に納められていたものだそうです*13。 もともとは先端には蛇の頭3つがついていたとのこと*14。 この柱と言いオベリスクと言い、帝国各地からいろいろと持ってきて飾ってるな。。。

最後に、こちらの角柱。解説をざっと読んだ限りでは、これも古代ローマから残る品のようです。

さて、これらの柱は一直線上に並んでいるのですが、それも訳あってのこと。 というのも、この広場は往時は広場ではなく戦車競技場(ヒッポドローム)のトラックで、これらの柱はトラック内側の分離帯としての役割を果たしていたそうです*15オベリスクの台座の写真を見返してみると、馬に引かれた戦車(チャリオット)が描かれており、これは戦車競技の様子を描いたものかもしれません。

なお、この近くに皇帝の宮殿もあって現在は大宮殿モザイク博物館となっているのですが、私が訪れたときは閉鎖中でした。

昼食

広場から南に向かい、手近なお店で昼食にしました。

観光客向けのお店だったからかお高めで、これで300TLくらいした記憶があります...。

レストランの前はけっこう狭い道(車がすれ違えないくらい)だったのですが、食事中にアスファルトを積んだトラックが来て、道路の補修工事が突然始まって少し驚きました。 特に通行規制とかもせずにサクサク工事を進めていたのが印象的でした。 工事の車両や機械の排ガスがひどかったのですが、お店のスタッフがすぐにドアを閉めたので、排ガスに悩まされずに食事できて助かった。

ソコルル・メフメト・パシャ・ジャーミィ

レイマン1世をはじめ3代のスルタンに仕えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャ*16が建てたモスクです。 建造年は1571年*17

急斜面に建っており、斜面の下の入り口*18から入ると、階段をのぼりながらトンネルの奥にモスクの姿が見えてくるのが面白かったです。

それほど大規模なモスクではなく、観光客も非常に少なく落ち着いた雰囲気でした。

内部は青のタイル装飾が美しかったです。

ミフラーブ横のタイルを拡大。

中央にはドームを戴いています。 翌日に訪れたスルタン・アフメト・モスクなどでは中央の大ドームを支える柱は確か4本で、こちらは6本のタイプ。 以前は「大ドームを小ドームで支えるのはオスマン帝国のモスクあるある」という雑な理解だったのですが、支柱の本数や小ドームの配置など、いろいろとバリエーションがあるなー、と思いました*19

なお、写真撮影を制止されたという話もインターネット上で聞いた(要出典)のですが、私は特に止められませんでした。 ただ、これはムスリムの家族連れ*20が写真を撮ってる横で私も写真を撮っていて、目立たなかったからかもしれません。

イスラーム科学技術歴史博物館

  • MUSEUMPASS TÜRKİYEで入れました。
  • 約1時間滞在しました*21
  • 解説はトルコ語、英語、あと3言語(たぶんドイツ語とフランス語とアラビア語)の併記でした。ただし、動画の展示はトルコ語のみだったような気がします。
  • 展示構成は分野別でした。

天文学

ずらりと並べられたアストロラーベ厨二病心(?)をくすぐります。 解説を読んだかぎりではレプリカのようですが、これだけ並べられると壮観です。

近づいてみてみると、アラビア文字が刻まれていることが見て取れます。 これの意味を(数理的な部分も含めて)理解して実際に使えたらかっこいいだろうなー、と思ってしまいました。

サマルカンドのウルグ・ベク天文台の模型。

こうやって使ったそうです。

不思議な観測機材いろいろ。

もろもろの観測機材がどういう原理で動いているのかきちんと理解できなかったのですが、当時の天文学がどのようなものだったのか、興味をかきたてられました。

兵器

投石器など?

こちらは城門を破るための攻城兵器。 ただ、当時の書物の内容を元に再現した模型だそうなので、当時実際にこのような兵器があったのかは分からないです。

物理(というか力学???)

水の流れを利用した揚水ポンプ。 ただ、これも写本の説明から作った模型のようなので、実物があったかどうかは私にはわからないです。

解説には"Ship mill"と書かれていました。 写本に基づく模型のようですが、解説には"This type of mill was in widespread use throughout the Islamic world. "とも書かれていました。 据え置き型じゃなくて船にした理由が気になります。

建築

主にモスク建築の模型が展示されていました。 特にオスマン帝国のものが多かったと思います。 オスマン帝国のモスク、「大ドームを複数の小ドームが支える」という形式のものが多くて一見どれも似ているのですが、模型で見ると柱や小ドームの個数などの違いがとても分かりやすかったです。

スルタン・アフメト・ジャーミィ(通称ブルーモスク)。 ドームを支える支柱は4本で、4つの小ドームが横から主ドームを支えています。 実物は翌日見に行きました。

スレイマニエ・ジャーミィ。 こちらもドームを支える支柱は4本ですが、小ドームは2つだけです。アヤ・ソフィアと似た配置になっています。 こちらも実物は翌日見に行きました。

エディルネのセリミエ・ジャーミィ。 こちらは8本の支柱を使っていて、上の2者とは大きく印象が異なります。 本当はエディルネで実物も見たかったのですが、この旅の間は修復工事中だったようなので、エディルネには行きませんでした。 また次の機会を狙いたいと思います。

ちなみにイスラーム建築については日本でもそこそこ本が出ているので、トルコに行く前に読んでおきました。 解像度が上がる気がするのでおすすめ。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

他にも、数学、化学、地質学などの分野の展示室がありました。

全体的に興味を惹かれ「もっと詳しく知りたい!」と思わされる展示でした。 ざっと調べた限りでは以下の本とか読んでみたい。

リュステム・パシャ・ジャーミィ

トラムに乗って移動し、北のエミニョニュに向かいます。

このときは大統領選挙中で、広場では両陣営の旗や車が見られました。

で、お目当てはこちらのリュステム・パシャ・ジャーミー。 スレイマン1世の娘婿にして大宰相のリュステム・パシャ*22の建てたモスクです。 建設年は明確ではないものの、おそらく1562年ではないかとのこと*23

姿はもう見えているのですが、入り口は狭い路地に面していて、見つけるのに少しかかりました*24

こちらが一見質素な入り口。でもきちんと案内があってありがたい。 ここから階段を上って2階にモスクがありました。 現地でどうなっているか確認し忘れたのですが、当初から1階は倉庫や商店として利用されていたそうです*25。コンヤで見たカプ・ジャーミィもこのパターンだった気がする。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

2階に上がったところ。 こちらの正面は礼拝者用の入り口で、観光客向けの入り口は横にあります(親切に"Tourist Entrance"と案内が書かれていました。)。

内部の壁は多くのタイルで装飾され、美しい空間を作り出しています。

タイルを近くで見ると、様々な模様のものがあることが見て取れます。

基調となる青と白のコントラストも美しいのですが、赤色も綺麗。 確か釉下彩の赤を綺麗に出すのって難しいんじゃなかったっけ...?*26

こちらのドームは8本の支柱で支えるタイプですね。

あまりに綺麗だったので、モスクの端の方に座って、しばし時間を忘れて見入ってしまいました。 大きなモスクではありませんが、40~50分くらい滞在してしまいました。

イェニ・ジャーミィ

エミニョニュに来たお目当ては先ほどのリュステム・パシャ・ジャーミーだったのですが、トラムを降りてすぐのところに大きいモスクがあり、気になったので寄ってみました。

google mapsで調べたらYeni Camiという名前なので新しいものかと思った*27*28のですが、1664年完成なので、十分古い気がします。なお、基礎工事が始まったのは1597年ですが、地盤が緩くて工事が難航したり、建築家がペストで亡くなったり、さらに工事が中断されたりと紆余曲折を経ているそうです*29

中庭から見てもなかなかの威容。

中に入ると、カラフルで淡い色合いの装飾のせいか、どことなくヨーロッパの教会に似た印象を受けました*30。 ソコルル・メフメト・パシャ・ジャーミーやリュステム・パシャ・ジャーミーに比べると観光客が多かったです。

タイルにしては色合いが淡いし、継ぎ目も見えないなーとぼんやり思っていたのですが、下の方はタイル装飾、上の方はフレスコ画による装飾になっていると後から知って納得しました*31

主ドームを4本の柱と4つの小ドームで支える構成。

なお、今回は行かなかったのですが、この隣にムスル・チャルシュ(英語での通称エジプシャン・バザール)があり、そちらはこのモスクに付属するものとして建造されたそうです*32

夕食

再びトラムに乗って、ホテル近くまで移動。

夕食は3日続いて同じロカンタにしました。 他のお店はケバブ推しのところが多かったのですが、煮込み料理やスープ(チョルバ)が好きなので、ついついここに通ってしまいました。 お値段70TL(この日は確か鶏肉だったのでお安め。)。

翌日に続きます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

*1:参考文献[1]p.69「ユスティニアヌス一世が六世紀に建造したこの巨大な地下貯水槽は、近代に至るまで朧げにその存在が認知されながらも、正確な位置の知れないミステリアスな施設でもあった。」

*2:現地の解説パネル "The Basilica Cistern, one of the most important witness of Istanbul's glorious history, was built by the Eastern Roman Emperor Justinian in the 6th century."

*3:参考文献[1]p.69(オスマン帝国の泉亭と、古代ローマの地下宮殿の文脈で)「もっとも、近世イスタンブールが泉亭という優れた水道施設を備えたのは、裏を返せばそれだけの設備投資をしなければ水を得られなかったということ。実はこの街は地下水に乏しく、地面を掘っても出てくるのは塩交じりの水ばかりという渇水都市でもあるのだ。」

*4:通称もこの解説も、いずれも現地の解説パネルより。

*5:日本でも噂は聞いてました。

*6:参考文献[1]p.57「白と灰色の端整なスルタン・アフメト・モスク(ブルー・モスク)、大堂宇と対面していまはトルコ・イスラーム美術博物館となったイブラヒム・パシャ邸など」p.60~p.61にはイブラヒム・パシャと、美術館になる前の邸宅についての記載もあります。

*7:参考文献[2]p.124「マムルーク朝の有力者は競ってワクフ(財産寄進制度→32頁)による宗教施設を建設したが、その内部を照らすランプもワクフの一部として大量に制作させたのである。」

*8:参考文献[1]p.105~p.106「起源については遊牧民由来説、自然発生説など諸説あるものの、マムルーク朝征討によって一六世紀初頭にエジプトから入ってきた芸能であるのはほぼ確かだと言われる。ということは、中国に発する人形劇がベトナムやジャワを経てムスリムの海たるインド洋を介して伝わったと考えるのが自然であろう。」

*9:参考文献[1]p.56「トルコ語でアト(馬)広場(スルタンアフメト広場とも)と呼ばれ、」

*10:参考文献[1]p.57「表面に聖刻文字が刻まれた四角錐の巨大な方尖柱(オベリスク)は、もともとメギドの戦いに勝利し古代エジプトの最大版図を築いたトトメス三世(紀元前一四七九-一四二五)がテーベ近郊に建てた護石(テケン)である。コンスタンティヌス一世の時代に戦利品として運んできたものの、あまりにも巨大なため次代のテオドシウス一世(在位三七九-三九五)の時代にようやく現在の場所に据えられた。」

*11:現地の解説パネル "Several obelisks were transported from Egypt to Rome. It was Constantine the Great who displaced this one in order to decorate his new capital, yet the delivery took long for unknown reasons. It was during the reign of Theodosius I that the obelisk was re-erected in its current place. "

*12:現地解説パネル

*13:参考文献[1]p.iv「...オベリスクの隣の三蛇頭の円柱を示す。見よ、あれこそがペルシア戦争において野蛮にして隷属的なオリエントの民を降した偉大なアテナイ人たちが戦勝を祝してデルフォイ神殿に奉納した神器にほかならないのだ、と。」

*14:参考文献[3]p.128「このうちデルポイアポロン神には、戦利品の一割を使用して黄金製の鼎が奉納された。この鼎は青銅製の三匹の蛇によって支えられていたが、本来の記念物の主役だった黄金製の鼎は早い段階で持ち去られてしまい、蛇の銅柱像のみが奉納されてから約八〇〇年間、デルポイの聖域に残った。しかし、四世紀前半にローマ皇帝コンスタンティヌス大帝が、おそらくは対サーサーン朝ペルシア戦の縁起物として、これを新首都コンスタンティノープルの競馬場へと運び出した(4-2)。」「現在でも、トルコ共和国イスタンブル市のスルタン・アフメト・ジャーミィ(通称「ブルー・モスク」)脇に位置する「馬の広場」で、頭部が落ちて身体だけになった姿の「蛇柱モニュメント」を目にすることができる。」往時の姿の復元想像図も掲載されています。

*15:参考文献[1]p.58「実は、いま私たちが立っているこの場所は本来、広場にあらず、ローマ式戦車競走が行われた戦車競技場(ヒッポドローム)のトラックであり、巨柱群は戦車が周回したスピナ(分離帯)に当たるのである。」

*16:参考文献[1]p.44 (デヴシルメの説明の文脈で)「叩き上げの一兵卒からスレイマン一世に見いだされソコルル・メフメト・パシャ(一五〇五-一五七九)などはその典型で、帝王三代に仕えた名宰相として知られ、晩年には故郷に橋や泉亭を建設している。」

*17:参考文献[4]p.209

*18:複数の入り口があるのですが、たぶんこれが正面の入り口だと思います。

*19:このへんは行く前に参考文献[4]を読んで意識するようになりました。

*20:女性がスカーフを髪に巻いていたので、おそらくイスラーム教徒かな、と推測。

*21:ただし、ざっくりしか見てないです。解説を真面目に読んだら時間もっとかかったかも。

*22:参考文献[5]p.159~p.160

*23:参考文献[4]p.210

*24:と言ってももしかしたらもっと目立つ入り口があって私が見逃しただけかもしれません。

*25:参考文献[4]p.210「高さ6mほどの1階のすべてを倉庫と商店にし、その上にテラスと礼拝室を建設している。」

*26:素人のあやふやな記憶です。

*27:トルコ語のyeniは「新しい」の意味

*28:ただ、正式名称はイェニ・ヴァーリデ・ジャーミーなので、単なる「新しいモスク」という意味ではなさそう。

*29:参考文献[4]p.235

*30:イスタンブール旧市街はヨーロッパでは?」という突っ込みがきそうなので補足すると、より西側の中欧・西欧のキリスト教文化圏、くらいの意味合いのつもりです。

*31:参考文献[4]p.237「室内装飾では、4本のピアの約2/3の高さまでと、2階ギャラリーは窓の上端の高さまで、青を基調としたタイルで覆われている。それより上は、フレスコ画による装飾である。」

*32:参考文献[1]p.82~p.83「グランド・バザールと並び称されるこのL字型の屋内商店街は、もともと近傍のモスクの付属施設として建造された。ウンカパヌの海岸にでんと構えるイェニ・ヴァーリデ・スルタン・モスク、通称イェニ・ジャーミィである。」

王力「古代汉语常识」(古代漢語常識)

9月の河西回廊の旅で木簡や石刻(石碑や墓誌など)をいくつも見て「古代漢語(いわゆる「漢文」)を読んでみたいなー」という思いが強まったので、はじめの一歩として王力「古代汉语常识」を神保町の内山書店で購入しました*1

裏面の説明を見ると、古代漢語の入門者のために、王力の書いた文章を集めて編集した本のようです。 想定読者は小学生~高校生のようで、比較的平易な文体の中国語で書かれていたので、それほど苦労せずに読めました。 ただし、後半1/3くらいは読んでいません。

書誌情報など

  • 著者 : 王力
  • タイトル : 古代汉语常识
  • 出版年 : 2020年
  • 出版社 : 中华书局
  • ISBN : 978-7-101-14686-8

簡体字、横書きです。 目次は出版社の公式ページ(「图书目录」の箇所)または豆瓣读书のページなどに記載があります。

なお、これは2020年に中华书局から出版されたものです。 他の年の他の出版社によるものもいくつかあり、ざっと調べた限りだと章立てが異なるものもあるようです。

内容と感想など

漢語の歴史の概観や古代漢語を学ぶ理由や学習の心構え(?)などから始まり、現代漢語と古代漢語の語彙や文法の違いなどを具体例を交えながら説明し、最後の方では暦法の話まで扱っています*2

心構えの箇所では「常用単語は1000-1200くらい。頻出単語だけ覚えればよく、マニアックなものを無理に覚えなくて良い。」「一見簡単な文字や単語ほど、辞書を引かずに分かった気になってしまい、誤った意味で解釈してしまいがちなので、要注意。」「古代漢語で書かれた文書を、ある程度の量は読むべし。ただし、精読が大事。初学者はいきなりたくさん読まなくて良い。まずは中学/高校の教科書の古代漢語の文章を読む。」(超ざっくりした要約)あたりが印象に残りました。当然と言えば当然の話ですが、勉強する前に釘を刺してくれるのはありがたい。

語彙や文法については現代漢語との違いを具体例も交えていて、重点的に解説していました。 たとえば、

  • 「再」は上古では「二回」「第二回」を意味し、「またもう一度」という意味はない。たとえば、「五年再会」と書いたら、「5年の間に2回会う」という意味で、「5年後に再び会う」という意味ではない。ただし、唐宋以降は現代と同じ意味でも用いられる*3
  • 通常は動詞と目的語は「{動詞}{目的語}」の順番だが、否定文中で、目的語が代名詞のときは「{目的語}{動詞}」の語順になる*4

などなど*5。 特に、よく使われる虚詞18個の意味をまとめて解説した部分*6は、読解などで詰まったときに見返すと役立ちそうです。

ただ、もともと別個に書かれた文章を集めてきたためか、異なる章の間で内容に重複がそこそこ見られます。また、元々書かれた年代が古い(著者は1980年代に亡くなっている)ため、注意が必要かもしれません。たとえば、新しい工具書*7に言及はありません。

「現代漢語はある程度できて、古代漢語を学びたい」という私にとっては、気軽に読んで得るところがあった本だと思います。 ただし、上に書いたように体系だった教科書として編まれたものではないので、お薦めできる本かどうかはよくわからないです。

この後何を読むか

上にも書いた通り、「まずは中学・高校の教科書の古代漢語の文章を読むべし」と言われているのですが、ネイティブほどは現代中国語ができるわけではない*8ので、もう少し敷居を下げて(?)千字文あたりからかなー、と考えています。

具体的には、古勝隆一先生の文言基礎の千字文をコツコツと進めたいと考えています。 xuetui.hatenadiary.org

ゆくゆくは「古代汉语」と銘打たれたような教科書にも手を出してみたいです*9。 「古代汉语」と題した教科書は数多いのですが、こちらの知乎には13冊を比較した長大な記事があり、参考になるかもしれません : 【书荐】十三版《古代汉语》教科书简要对比

*1:少なくとも中国の文献史料を読むなら漢文訓読を経由しなくて良いのではと思ったので、漢文訓読を経由せずに中国語で学ぶことにしました。王力「古代汉语」などは自分にはまだ読めなさそう。。。

*2:ただし、暦法の話は読んでいません。

*3:以上、七,古代汉语的词汇(一)古今字义的差别 p.75より。他にも10個くらいまとめて解説してくれています。

*4:八,古代汉语的语法(二)词序 p.101~p.102より。

*5:このへん、きちんと漢文を勉強した方には「当たり前やん」と言われそうですが、高校のときの漢文の記憶があまり残っていない。。。

*6:八,古代汉语的语法 (三)虚词 p.103~p.124。解説している文字/単語は 而,夫,盖,乎,其,是,所,为,焉,耶,也,以,矣,与,哉,则,者,之。

*7:たとえば古汉语常用字字典

*8:単一の文字で出てきたときの意味の理解や、声調が怪しい文字が多い。

*9:とはいえかなり分厚い教科書が多いので、実際に読めるかは自信がない。。。

2023年トルコ旅行記 10日目 イスタンブール観光その1

2023年のゴールデンウィークのトルコ旅行10日目(2023-05-05)の記録です。 この日はトプカプ宮殿などの見どころを主に徒歩で周ります。 本文中にも書いたのですが、トプカプ宮殿に行くなら中公新書の「物語 イスタンブールの歴史」(参考文献[2])はおすすめです。

トルコ旅行全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

朝食

朝食はホテルのビュッフェ。

朝食を済ませて出かけようとしたら、ホテルから外に出るドアにこんな注意書きがありました。 "Dikkat"は既にいろんなところでたくさん見たので覚えました。 扉の外にうっすら見えるラインがトラムの線路で、しかもトラムと歩道も近いので要注意。

Sirkeciの辺りのホテルにしたので、この日徒歩移動のみで済んで便利でした。

トプカプ宮殿

全体概要

  • 定休日は火曜日でした(私が行った当時は)
  • MUSEUMPASS TÜRKİYEで入りました。
  • じっくりまったり見て、5時間ほどかかりました*1
  • 屋内は撮影禁止と書いてあるところが多かったのですが、写真を撮っている観光客は多く、スタッフも制止しないし、なんなら「photo allowed, no flash」と言ってるスタッフもいました。 ということで、屋内も遠慮せず写真を撮りました。

敷地が広い上に部屋数も多く、モスクみたいな分かりやすさもないので要注意。 何がどこにあって、それぞれの空間が何に使われていたかを頭に入れてから行くのがおすすめです。 私が読んだ中では「世界のイスラーム建築」(参考文献[1])と「物語イスタンブールの歴史」(参考文献[2])に詳しい情報があり、特に[2]はそれぞれの空間の用途が詳しい上に、往時の賑わいの様子も(もちろん想像ですが)描写されていて、時間を超えて旅行しているような気持になれて素晴らしかったです。私は現地に[2]を持って行って、宮殿内で対応する箇所を読んだりもしました。

宮殿自体は、複数の庭園(中庭)とそれを囲む建物(と庭園に立つキョスク)から構成されています。 大きな建造物が連なる西欧や中国の宮殿とは異なる様相を呈しています。 これは、草原にテントをはっていた遊牧民の伝統の影響を受けたものかもしれない、という説もありました*2*3

さて広大なトプカプ宮殿ですが、大雑把に分けると、4つの庭園と1つのハレムから成ります(上の写真の案内図参照。)。

第1の庭園

一番外側の第1の庭園は入場券なしで入れます。

往時も、許可を得た市民も立ち入りができたそうです*4。 また、動物を放して狩猟にも興じていたとか*5*6

上の写真の「挨拶の門」と呼ばれる門をくぐって第2の庭園に入ります。 ここでチケットの確認がありました。

第2の庭園(外廷)

第2の庭園は外廷とも呼ばれ、公的な政治の場としての役割を担っていたようです*7*8

厨房の展示など

第2の中庭入って右手には厨房が広がっています(写真でも微妙に煙突が見えます。)。

中から厨房の天井を見たところ。ドーム構造の上に煙突がついているようです。 上の2つの写真でドームのかけ方が異なるように見えるのが面白い。

厨房内部には当時の調理器具や食器などが展示されています。 右の写真はタジンみたいなのですが、解説には"helva dishes"と書いてあったので違うようです(helvaはお菓子の一種)。

シャルベット*9を入れる容器いろいろ。 一番左のものは明朝の永楽年間のものと書かれていました。 これ元から蓋や注ぎ口がついていたのか、それとも中国で作られた当初はついていなくて後からつけたのか、気になりました。 当初の想定とは異なる用途で使われているとしたら面白いし、逆に中国でわざわざシャルベット容器として生産されていたとしても面白い。

中国陶磁のコレクションもありました。 ここに見える3つの青花(染付)は元朝時代14世紀のものと書かれていました。 元朝の青花が好きなので美術的な面でも気になるのですが、一方でどういう経路で元朝の青花がここまでたどり着いたのかも気になりました*10

たぶんこの本とかに詳しそう。 www.nhk-book.co.jp

こちらはもう少し新しめの中国陶磁たち。

円蓋下の間/議会の間

庭園をはさんで厨房の向かい側には、塔を戴く建物があります。 この建物(部屋?)は「円蓋下の間/議会の間」と呼ばれ、ここで御前会議が開かれていたとのことです*11オスマン帝国の政治的中枢がまさにこの目の前の場所にあったのだと思うと感慨深いです。

議会の間の入り口。解説パネルによると、建物は16世紀の建造のようですが、正面の装飾などは18世紀末から19世紀初めに今の形になったようです。 いかにもそのあたりの時代のロココ様式っぽさを感じます(偏見)。 入り口両側にスルタンの花押(トゥグラ)と銘文が書かれているのが印象的です。

銘文自体は私には読めないのですが、銘文の左下をよーく見ると年の記載があり、これは読めました(以前イラン旅行のためにアラビア語・ペルシア語での数字表記を覚えた記憶がギリギリ残ってた。)。 おそらく1207年と書かれていて、西暦に換算すると1792年~1793年頃のようです*12

内部は意外と簡素でした。 御前会議の際、スルタンは奥の透かし窓の裏に座し、会議を見守っていた(?)そうです*13

続いて、「至福門」をくぐって第3の庭園に入ります。 ちなみに、第2の中庭で儀式を行う際には、ここにスルタンの玉座が置かれたそうです*14

第3の庭園(内廷)

第3の庭園は内廷という別称からも示唆される通り、第2の庭園と比べると公的な色彩は弱くなるようです*15*16*17

ここには内廷学校と呼ばれる教育機関も置かれ、デヴシルメで徴用された少年たちの中から選抜されたエリート予備軍たちが教育を受けていたそうです。このへんは「物語イスタンブールの歴史」(参考文献[2])のp.43~p.46が詳しかったです。往時の姿が生き生きと目に浮かぶような描写だったので、おすすめです。

現在、第3の庭園を囲む部屋の数々は、現在は数々の美術・工芸品などが展示される空間となっていました。

こちらは16世紀のカフタン。

少し驚いたのが、こちらの服。

よーく見ると細かい文字がびっしりと書き込まれていました。 解説パネルにはTalismanic Shirtsと書かれており、厄除け(?)のためにクルアーンからの聖句などが書き込まれているそうです。 このへん、文化圏は違えども日本の耳なし芳一の話と近いものを感じます。

文字だけでなく、魔法陣のようなものが描かれたものもありました。

他にも多数の豪奢で美しい服が展示されていました。 服飾への興味が薄い私でも面白く感じられたので、興味がある人はもっと楽しめそうです。

宝物室

宝物室にはまばゆいばかりの品々が展示されていました。 上のはクルアーンのためのカバー(?)。

こちらは武器の数々。とはいえ豪華な装飾が施されているので、儀礼用のものでしょうか。

これはなんとゆりかご。 実用に供されていたのかどうか疑ってしまうくらい豪華です。 こんな豪勢なゆりかごで過ごせる子供は将来も人生イージーモードかと思いきや、兄弟殺し*18の話もあるのでたぶんそうでもない気がする。ということで、どこも大変だな、などとよくわからん感想を抱きました。

あ、でも帰ってから本をきちんと読み直したら17世紀には兄弟殺しの慣習は廃れたようなので、このゆりかごが作られた時代*19にはもうちょっと平和になっていたようです*20。軟禁に近い状態ではあったようですが。。。*21

聖遺物の展示室

トプカプ宮殿自体は世俗の建物ですが、ここだけはモスクに準じた服装を求められました。

聖遺物の展示室ではクルアーンの朗誦が流れていて、録音と思いきやその場で朗誦している人がいました。 観光客でごった返す中で写真や動画を撮られながら読むの大変だろうな。。。

私はあっさりとしてか見ていませんが、他にもイスラームに関わる様々な品々が展示されていました。 「物語イスタンブールの歴史」(参考文献[2])p.42によると、第三代カリフのウスマーンが暗殺されたときに手にしていたとされる(本当かどうかは不明らしいです)クルアーンも展示されているそうです(もしかしたら上の写真のものかも?)。

図書館

第3の内廷の中には小さな図書館もありました。 本好きとしてはとても気になる。

入り口には銘文が記されていました。 1131年という紀年だけは分かる。 写真右はその翻訳(たぶん)。

ちょっと面白かったのが、本が縦ではなく横に寝かせる形でおかれていたこと。 当時も実際にこのように置かれていたのかが気になるのですが、そうだとしたら下の本を取り出すのが大変そうなので、なんでこの置き方をしているのか気になるところです。

あとそもそもどんな蔵書があってどう活用されていたかも気になります。 クルアーンとかが一番ありそうだけど、内廷学校の生徒の教育のための本とかもあったのかな。

第4の庭園

続いて門をくぐり、最奥部の第4の庭園に向かいます。

バグダード・キョスク。1638年のバグダード征服を記念して建てられたそうです*22*23。 かつてはスルタンが朝食を摂る場所だったとか*24

メジディエ館と呼ばれる西洋風の建物もあったのですが、そちらは軽く見ただけで写真は撮っていません。

ここの庭園からはボスフォラス海峡(たぶん)を望むことができます。 ところで右の写真の左側遠くに巨大な塔のようなものが映っていて正体が気になるところ。

ハレム

最後にハレムに向かいます。ハレムへの入り口は第2の中庭にあるので、いったん来た道を戻る必要があります。 また、ハレムは別料金ですが、MUSEUMPASS TÜRKİYEには含まれていました。

ハレムに足を踏み入れたときの最初の感想は「空が狭いな」というものでした。

ハレムというと豪奢に飾られた空間かと思っていたのですが、ハレムの女性の大半を占める女奴隷は上の写真のような意外と質素な部屋で集団で生活していたようです*25

こちらは一転して優美な装飾が施された帝王の間。 ちなみにトプカプ宮殿はガイドに率いられた団体客も多く、特にハレムのこの部屋は団体客が滞留しがちでした。

泉亭と昼食

トプカプ宮殿、9時に入ったのにまったり見てたらあっという間に時間が経ち、出てきた頃には14時過ぎになっていました。 お腹もすいたので、昼食のお店を探します。

歩いている途中で見かけた建物。 確かアフメト3世のチェシメ(泉亭)のはず*26*27。 人々に水を供給するための場であると同時に、この泉亭は豪華な記念碑的な建物でもあったようです*28*29

このときは気に留めなかったのですが、銘板にはオスマン語の詩が書かれており、詩の結びの句に含まれるアラビア文字の数価を足しあわせると、泉亭の完成した年になる、というなんとも風流な工夫がこらされているそうです*30。これを現地で確認できなかったのは悔しい。。。 ちなみに泉亭の詩を巡るのを趣味にする人もいるそうです*31

このへんの話は東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の以下のエッセイとサイトに詳しい説明や具体例がありました。特に、後者では計算したい詩句を入力すると、自動で数価の合計を計算してくれるそうです。次は現地で使ってみたい(と言いつつ、そもそも先にこの文字を読めるようになる必要があるわけですが。。。)。

お昼は近くのケバブ屋さんで食べることにしました。 255TLでした。観光地価格お高い。。。

アギア・イレネー

昼食後、再びトプカプ宮殿方面に戻って、トプカプ宮殿の第一の中庭に建つアギア・イレネーを見学しました。

こちらは東ローマ帝国時代の教会で、オスマン帝国時代には倉庫に転用されたそうです*32

内部は装飾などもなく壁がむき出しになっていますが、そのぶん構造が分かりやすいです。

下の方は石材、上の方はレンガを組んでいることが見て取れます。

こちらも同様。 なお、このときアギア・イレネーは工事中で、工事用のネットがはられていました(上の写真左上に映りこんでいるのがそれ。)。

ということで、残念ながら室内を見渡すことはできず、ドームもこんな感じ。

イスタンブール考古学博物館

続いて、イスタンブール考古学博物館観光です。 アギア・イレネー、トプカプ宮殿いずれからも近く歩いてすぐでした。

  • このときは併設の古代オリエント博物館、チニリ・キョシュクはいずれも上の写真の通り閉鎖中でした。
  • 解説パネルはトルコ語だけでなく英語もある親切仕様でした。
  • トルコ全土のものが満遍なく展示されているわけではなく、西側のエーゲ海岸地域のものが多かったと思います。ギリシャ・ローマの文化を感じるものが目立ちました。
  • 展示品の配列ですが、時代別ではなく展示品の種類別(棺、コイン、土器/陶磁器)に並べられているところが多かったです。そのため、「トルコの歴史の流れを見る」という気持ちで行くと少し分かりにくいかもしれません。
  • 2時間半~3時間ほど滞在しました。

1階の棺を集めた展示エリアでは、シドン(現レバノンのサイダー)で発掘された豪勢な石棺がいくつも展示されていました。

中でもひときわ目を惹くのが、こちら、通称「アレクサンドロスの棺」。 といっても、アレクサンドロス大王が埋葬されているわけではないようです(要出典)。

人の背丈を超える高さも強烈な印象を与えますが、周囲の4面に精巧な彫刻も素晴らしく、思わず見入ってしまいました。

  • ペルシア?とマケドニア?の兵士が戦う場面(上の写真1枚目)がある一方、協力して狩りをしてるように見える場面(上の写真2枚目)もありました。なお、いずれの場面でも、マケドニア?側は全裸の兵士がいますが、これはギリシア彫刻の伝統でしょうか。。。
  • 浮き彫りの人物で腕が石棺の平面から浮いてる者は、手に何も持っていない者が多かったです。ただ、ポーズからして剣や弓などの武器を持っていたはずのように見えます。後から欠損した?
  • ところどころ、彩色の跡がある気がします。

屋根部分も芸が細かい。

アレクサンドロスの棺」以外にも、様々な棺が展示されていました。

個人的に気になったのはこちらの古代エジプトっぽい形の棺。 紀元前5世紀後半のものと書いてあって、この時期のレバノンあたりはアケメネス朝ペルシアの支配下だったと思うのですが、エジプトの文化が広がっていたとしたら少し意外に感じました。

彫刻など

こちらはバルケシル出土の紀元前5世紀の葬送碑(?)。 馬が運ぶのは被葬者が納められた石棺でしょうか。 その下の文字が何の文字*33で何が書かれているのか気になります。

古代ローマ時代の彫刻もこれでもかとばかりに展示されていました。

こちらはテュケーの石像。2世紀に造られたものだそうです。 石棺もそうでしたが、2000年前の造形技術の高さと保存状態の良さには思わずため息がでるほどでした。

土器/陶器など

2階には土器/陶器なども展示されていました。 写真のものは絵柄の部分が赤で背景が黒のタイプのものなのですが、逆に絵柄が黒で背景が赤のものもあったと思います。 どういう違いがあるのか気になる。

棺や彫像の展示(あと午前中のトプカプ宮殿も)で既にお腹いっぱいで、2階はざっと見るだけになってしまいました。 消化不良なところもあるので、また行きたいです。

夕食

今日の分は一通り観光し終えたので、ホテルに歩いて戻ります。

こういう街並みを眺めながら歩くのが好き。

夕食は前日と同じロカンタにしました。 スープはたぶんtavuk suyu、右奥のものはほうれん草+卵、手前のはたぶんtas kebabı。 確か170TL。

翌日に続きます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

参考文献

*1:たぶん、普通はもっと短時間のはず。

*2:参考文献[1]p.130「トルコ族はもともと中央アジア出自の遊牧民だったので、その血の中に故地からの風習が根づいていたのかもしれない。民族性から考えれば、小亭が好んで造られたのはテントへの憧憬があったのかもしれないし、起伏を利用した庭園を造ることも、遊牧時代の生活空間の再現だったのかもしれない。」

*3: 参考文献[3]p.54「宮殿内部にいくつも建設されたキオスクは、おそらく遊牧民のテントに由来する独立した小規模建築で、それぞれの時代の趣味を反映した贅沢な造りを示す。」

*4:参考文献[2]p.38「この第一庭園までは、許可があれば民草も入城を許された、いわば宮中と市中を接続する外苑にあたった。」

*5:参考文献[2]p.38「獲物を放って狩競が楽しまれたほど広大」

*6:参考文献[3]p.54「一番外側の第一宮廷は広大な庭園で、狩りや宮廷行事が行われ、兵士が常住した。」

*7:参考文献[2]p.38「外廷は政庁や国庫が置かれた政の空間だ。」p.50「一方、いまは観光客が行きかうここ外廷庭園もただの庭ではない。よく晴れた吉日には内廷に通じる至福門の屋根の下に玉座が引き出され、論功行賞や各国大使の受任式が行われる儀式空間にさま変わりしたからだ。」

*8:参考文献[1]p.120「第二中庭には政庁、宮廷金庫、台所、厩舎などが配置され、公会議や王位継承式、使節の歓待などが行われた。小学校の校庭くらいの広さで、限られた人々の公的な空間であった。」

*9:解説パネルによると、果物、花、ハーブ、蜂蜜などで作った甘い飲料とのこと。

*10:というのも、これらの青花が作られた頃はこの宮殿はなかったはずだからです。元朝の滅亡が1368年、コンスタンティノープル陥落が1453年なので。

*11:参考文献[2]p.50「宮殿でもっとも高い塔を頂くこの建物が円蓋下の間。いまは観光客が日よけ代わりに群がる柱廊も、往時には屈強なイェニチェリたちによって厳しく警備されていた。この円蓋下の間こそが、オスマン帝国の意思決定を行う御前会議の開催場所であったからだ。」

*12:ヒジュラ暦から西暦変換」 https://keisan.casio.jp/exec/system/1299235060 を利用しました。

*13:参考文献[1]p.120「スルタンは議会の間で開かれる御前会議に、塔の中に設けられた玉座から格子越しに臨んだという。」

*14:参考文献[2]p.50「一方、いまは観光客が行きかうここ外廷庭園もただの庭ではない。よく晴れた吉日には内廷に通じる至福門の屋根の下に玉座が引き出され、論功行賞や各国大使の受任式が行われる儀式空間にさま変わりしたからだ。」

*15:参考文献[1]p.122「スルタンは平生の日中をここで生活していた。」

*16:参考文献[2]p.38~p.40「この外廷の北東に佇む第三の門が至福門、その先が内廷である。帝王の住まいやその個人的な富を収めた宝物庫、内廷学校と呼ばれるエリート養成機関が置かれた第三の庭園域である。」

*17:参考文献[3]p.54「至福門から入る第3宮廷はスルタンの執政と生活の場で、謁見の間や宝物庫、スルタンの私室(のちの執務室)、モスク、スルタンに直接仕える小姓の寄宿学校があった。」

*18:参考文献[5]p.65 : (メフメト2世の即位の文脈で)「即位したスルタンが、特に即位をめぐる係争がなくても予防的措置として行う「兄弟殺し」は、この時期から慣例として定着した。」

*19:現地のパネルによると18世紀

*20:参考文献[5]p.184「このため、次に即位したアフメト一世は、弟ムスタファを殺さずに残し、以後、新スルタン即位時の兄弟殺しは行われなくなった(一六○三年)。」

*21:参考文献[6]p.166「殺されなかった現スルタンの兄弟は、宮殿の奥深くに隔離され、そこで外界との接触を断って育てられた。これを、「鳥籠」(カフェス)」制度と呼ぶ。とはいえ、現スルタンの方針によっては一定の自由が与えられる場合もあり、王位継承候補と目される王子には十分な教育が与えられていた。

*22:参考文献[1]p.122~p.123「さらに北には一六三八年のバグダード征服を記念するバグダード・キョシュクがある。」

*23:参考文献[3]p.55(「バグダード・キオスク」の写真のキャプション「ムラト4世がイラクバグダードでの戦勝を記念して建てた。」

*24:参考文献[2]p.49「さきほどは足を踏み入れなかったハレム庭園の西の隅には、バグダード館が佇んでいる。帝王が金角湾を眺めながら朝食を摂る館であるが、この隣に噴水と池が設えられ、往時にはハレムの女性たちが遊ぶことがあったのだ。」

*25:参考文献[2]p.47「彼女たちの多くはギリシア系かスラヴ系の奴隷で、大半は広い小上がりに布団を並べて起居する大部屋暮らしの身の上。」

*26:参考文献[2]p.55「帝王門を出ると目の前に、灰色の鉛屋根を頂く東屋のような建物が目に入る。チューリップ時代(一七一八-一七三〇)の象徴としていまも愛されるアフメト三世の泉亭(チェシメ)だ。」

*27:参考文献[4]p.255の写真。

*28:参考文献[2]p.55~p.56「泉亭とは市民に無料で水を供する施設で、オスマン期には帝都の津々浦々に泉亭が造られた。」

*29:参考文献[4]p.255「チェシメは昔から田舎の村の広場や辻などにも建設され、様々な形態のものがあるが、ここで扱うチェシメ建築は、街の広場を飾る目的で建てられた特に豪華なものである。」

*30:参考文献[2]p.68(ドイツの泉の文脈で)「それがたとえどんな小さな泉であっても、必ず記年詩(紀年銘とも)と呼ばれるオスマン語の詩をあしらった銘板が掲げられ、その結句のアラビア文字の数価を足すと、泉亭の完成年が現れるという趣向が凝らされているのである。

*31:参考文献[2]p.68~p.69「こうした記年詩大全の類は帝国期から今日まで出版され続け、いまでも泉亭・記年詩探訪を愛好する人が一定数いる。泉亭巡りは、言うなればイスタンブールの街歩きの隠れた人気者なのだ。」

*32:参考文献[2] p.53「オスマン期、ビザンツ教会は往々にしてモスクへと転用されたが、聖エイレーネー教会は具足工房(ジェベハーネ)へ改組され、宮殿外郭の倉庫として便利に用いられて今日に至る。」

*33:フェニキア文字とかアラム文字あたり???

2023年 河西回廊の旅 11日目 + 12日目 : 兵馬俑観光 → 帰国

2023年シルクロード河西回廊の旅11日目(2023-09-24)と12日目(2023-09-25)の記録です。

今回の旅全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

朝食

今日も朝食はホテルビュッフェにしました。

おかゆと咸蛋があるのがいかにも中国で良い。

移動

ホテルを出て、雨降ってて寒いし、地下鉄2本とバスを乗り継ぐのが面倒だなーと思っていたところ、ちょうど目の前をタクシーが通りがかったので、タクシーで兵馬俑に向かいました。西安鐘楼近くから兵馬俑博物館まで、だいたい1~1.5時間で、147元でした。

タクシー運転手さんとは道中いろいろと話したのですが、陝西への郷土愛が強い方のようでいろいろと面白い話が聞けました。

  • 「陝西の人は異文化を受け入れるし、西安は国際都市」と言われた。南アジアからの留学生が多いらしい。主に医学。
  • 「陝西人は外からの客人を歓迎してもてなす」と話していて、対照として北京や上海をdisっていて苦笑しましたw 「道を聞いたら、陝西省の人は詳しく優しく教えてくれる。北京の人は舌を巻いた訛でまくしたてるだけ。」「レストランに『5人で入れますか?』と訊いて、上海だったら『ダメ、4人の席しかない』と四角四面に断られることもあるけど、陝西なら融通して入れてくれる」とか。ほんまかいなw
  • 「日本で生まれ育ったのになんでそんなに中国語話せるの?」と言われたのは嬉しかったです。

9:30頃に兵馬俑博物館に到着しました。

秦始皇帝陵博物院

概要

  • 公式webサイト : https://www.bmy.com.cn/index.html
  • 秦始皇帝陵博物院は、「秦始皇兵马俑博物馆」と「秦始皇陵考古遗址公园」(高德地图などでは「丽山园」とも)の2か所からなります。前者が兵馬俑を展示している場所で、後者が陵墓本体です。両者の間は少し離れていますが、シャトルバスで移動できます。
  • チケットは前日に予約していきました。お代は120元。中国の身分証は不要で、パスポート番号で登録可能。ただし、中国の電話番号が必要でした*1
  • なお、当日朝確認した時点でもまだチケットの枠には1000枚近く余裕がありました*2。タクシーの運転手いわく、この時期は当日でも買えるとのことで、実際、紙のチケットを持っている人もいました。
  • 入場時は、パスポートを機械にあてて画像認識で通りました*3
  • 門の外で「ガイドいりますかー?」と声をかけてくる人が多いのですが、一方で「野良ガイドに注意」みたいな放送も流れていました。私は公式の音声ガイド(30元)を借りました。

兵馬俑博物館

雨の日ですが、朝からかなりの人混みです。ただ、この日は日曜日だったので、平日ならもう少し空くかもしれません。 一応の手荷物検査があり、上にも書いた通り予約済みだったので、パスポートをスキャンして入りました。

案内図を見ても分かる通り、入場ゲートからまで兵馬俑本体までそこそこの距離を歩きます。 これはもしや繁忙期の行列を収めるためのバッファー...?

1号坑

まずは一番大きな1号坑に行きました。

内容の前に、混雑について : 当たり前かもしれませんが、3つの坑の中で、ここが一番混んでいました。 たぶん兵馬俑より人間の方がはるかに多かったと思います。 ガイドに引率された団体客が多いので、団体客が去っていくときにスッとその位置に入ると最前列を確保しやすいです。 また、他の坑を見た後に1号坑にはもう一度来たのですが、昼時は朝よりは空いていました(下の写真はほとんど昼時に撮ったものです)。 ただ、そもそも土日に来るのは避けた方が良いかもしれません。 なお、ガイドさんが話している内容を聞いたところ、平日の中では月曜が比較的混んでいるらしいです*4

で、無事に人混みを抜けると、目の前にはなんとも壮大な眺めが広がります。 写真では見たことがあるのですが、実物のスケール感は圧巻ですね。

とんでもない財力と権力や。。。

よーく観察すると、みんながみんな鎧を身に着けているわけではないことが見て取れます(手前の人々は鎧なし)。 また、馬のすぐ後ろの2人は、立派な冠のようなものを被っていることが分かります。たぶん士官とかでしょうか。

俑の足元は板状になっています。 音声ガイド情報によると、俑が重い(1体で100~300kg)ので負荷分散と安定のためではないか、とのこと。 また、この板の発掘時の向きが、兵馬俑の立っていた向きを明らかにするのに役立つそうです(これも音声ガイド情報)。

実はきれいに並んでるのは手前半分*5くらいで、残りのスペースでは修復などが行われているようでした。

3号坑

続いて、3号坑に。

1号坑と2号坑に比べると規模は小さかったです。 ここは軍団そのものではなく司令部と見られているそうです*6

言われてみると、兵馬俑の配置が、隊列と言うよりかは歩哨に近いかも...?

2号坑

最後に、2号坑に。

解説パネルにも明言されていましたが、こちらはまだ発掘中です。 くぼんだ部分の下に兵馬俑が埋まってるのかなー、と想像。

なお、ついつい中央の発掘現場に目が行ってしまったのですが、上のスペースにはいくつかの兵馬俑が展示されており、ガラスケース越しながら間近で見ることができました*7

博物館(陈列厅)

敷地内には陈列厅もありました。時期によって展示は変わるようです。

このときは跪射俑と立射俑を1体ずつとりあげて詳しく解説し、間近で観察できるようになっていました。

鎧の造形が細かくてすごい。ちなみに、「朝」のような文字がさかさまに彫られているのが見えますが、解説パネルによるとこれは製作担当者の名前だそうです。

後ろに回ったところ。髪の結び方がなかなか複雑。

靴の裏がまっ平じゃないのは、滑り止めか何かでしょうか。

食事について

敷地内には小さな飲食店があり、そこで簡単な昼食を摂りました(写真は撮りそびれました。)。

また、出口に向かう途中には多数の飲食店やお土産屋などが立ち並んでいました。

たぶん、敷地内で食べるよりもこっちで食べたほうが良かった気がします。

麗山園

移動

兵馬俑博物館の出口を出て少し歩くと、シャトルバスが乗り場あります。 発車タイミングが決まっているかはよくわかりませんが、私が並んだときは大して待たずに発車し、10分もかからずに陵墓本体(麗山園)に着きました。

麗山園の敷地はとても広いので、全て歩きだと大変だと思います。

散在する見どころを結ぶように電動カードが走っているので、これを利用するのがおすすめです。 有料で、代金は15元でした。

百人俑

K9901と名付けられた陪葬坑。

兵馬俑博物館の俑は軍隊の俑でしたが、こちらではまた違った姿の俑が展示されていました。

何やら変わった衣装を身に着けた俑で、いったい何をする人を再現したものなのか気になります。

銅車馬博物館

続いて電動カートで、敷地内の銅車馬博物館に。 ここでは始皇帝の副葬品の中でも有名な、青銅製の馬車を展示しています*8

冒頭は解説系の展示が多く、

始皇帝陵の全容を示したジオラマや、

出土当時の様子を示したパネルなどがありました。 出土時は破片になっていたのをつなぎ合わせて修復したとか。

で、こちらが肝心の馬車。 麗山園は空いていましたが、ここだけはすごい人だかりでした。 2台あるうち、写真奥のものはレプリカでした。

これは複製じゃないほうの馬車。 よくぞここまで綺麗に修復したものです。

後ろから。馬車の背面にドアがあり、ここから乗り降りしていたようです。 あと、よく見たら、馬のしっぽはもしかしたら邪魔にならないように束ねられているのかも...?

当時の馬車の技術的側面を紹介した展示もあり、興味を惹かれました。 思えば2000年以上前の馬車が*9綺麗に残っているわけで、往時の技術を知る手掛かりとしてとても有用そう。

陵墓本体

最後に、陵墓本体も見てきました。 このくらい離れたところから見ると規模感がすごい。

陵墓そのものはほぼ山と言ってよく、近くで見ると森にしか見えません。

発掘はされていないそうです。発掘技術が進んでから発掘するらしいと聞きました。

なお、電動カートは通常はここには止まりません。 言えばおろしてくれますが、ここで乗車はできないので、降りた場合はここから入場ゲートのあたりまで自力で歩くことになります。 ほとんどの観光客はここではカートを降りず、素通りしていました。

ホテルへの移動と夕食

シャトルバスで兵馬俑博物館に戻ろうとしたのですが、バスがなかなか来ないので、居合わせた人と割り勘して白タクで地下鉄駅まで移動しました。 そこから地下鉄で空港まで行き*10、さらにタクシーで空港近くのホテルに移動しました。

なお、空港のターミナル(T3)内に上の写真のカプセルホテル(?)があったので、ここに泊まった方が移動なしですぐチェックインに向かえるので楽だったと思います。

夕食はホテル近くのお店で臊子面と肉夹馍にしました。

待っているときに気づいたのですが、上の写真の通り、レジ奥に「内有凶猛厨师...请耐心等候!!!」という注意書きががあって笑いました。 ぶっちぎりで、今回の旅の面白中国語ナンバー1。

帰国

翌朝、ホテルの送迎で西安咸陽国際空港に移動しました。

保安検査後にの国内線出発エリアです。 朝食は出発ゲート近くで食べました*11

国内線で上海に飛び、そこから日本に帰国しました。

*1:SMS認証はありませんでした。

*2:5/1, 夏休み, 10/1などの繁忙期はこの限りではないかと思います。

*3:ただし、私は中国籍なので、中国のパスポートです。日本のパスポートでも同様に通れるかは未確認です。

*4:他の博物館は月曜休みのことが多いので。

*5:半分ないかもしれません

*6:確か音声ガイド情報。

*7:目立たなかったので、一周目のときは存在に気が付きませんでした。

*8:以前は兵馬俑博物館の方にあった気がします。

*9:破片をつなげたとはいえ

*10:2時間以上かかった。。。たぶんもっと良い方法があった気がします。

*11:ちなみに、上海浦東空港の国際線出発エリアは店舗も休業しているものが多く閑散としており、こちらとは好対照でした。

2023年 河西回廊の旅 10日目 : 蘭州から西安への移動と西安観光

2023年シルクロード河西回廊の旅10日目(2023-09-23)の記録です。この日は西安に戻り、大雁塔を観光しました。

今回の旅全体のまとめページはこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

前日の旅行記はこちら amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

西安への移動

前日夜に敦煌からの寝台列車に乗車し、目を覚ますと蘭州の近くまで来ていました。 夜行寝台列車の「横になってすやすや寝て、目を覚ましたら別の都市にいる」という体験が好きです。

蘭州西駅で降ります。ここで高速鉄道に乗り換えて西安に向かいます。

蘭州西駅では駅から出ずに乗り換えができて便利でした。 写真の階段の右側に書いてある通り、階段を上った先で乗り換えです。

もしかすると、本来は乗車改札になっているものを乗り換え口として運用してる...?

乗り継ぎに1時間程度の余裕を取っておいたので、ここで朝食にします。

朝から牛肉麺。さすが蘭州だけあって、駅の中に牛肉麺のお店が5店舗くらいありました。

中欧班列(中国とヨーロッパを結ぶ貨物鉄道、くらいの雑な理解)で輸入されたと思しき商品を扱うお店。 原産地とか確認しそびれた。

高速鉄道に乗り、西安北駅で下車。西安地下鉄に乗り換えて市街地に向かい、ホテルにチェックインしました。 このとき風邪っぽくて体調いまいちだったので、写真少なめです。

なお、前日まで敦煌で、気温は30℃近く、かつ日差しが強かったのですが...西安に来て、最高気温17℃くらい、かつ雨と風、と気温差に驚きました。

昼食

ホテルの近くのお店で、西安名物の凉皮と肉夹馍の昼食にしました。

凉皮のタレは底にたまっているので、よく混ぜていただきます。ツルっとした麺とラー油や黒酢の組合せが爽やかで美味しいです。 肉夹馍は日本で行ったお店よりもスパイスの香りが効いていて好き。 どちらも美味しいので、日本にいても定期的に食べたくなるメニューです(特に夏の凉皮)。

昼食を食べたら、地下鉄で大雁塔(というか正しくは寺自体は大慈恩寺)に移動しました。 なお、西安は公共交通がかなり便利で、市街地であれば地下鉄と路線バスで全ての移動が済みました。

地下鉄の乗り方については別記事に書きました。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com なお、初日はWeChat Payが使えなくて単発の切符を買ったのですが、この日はWeChat Payの「乘车码」ミニアプリで乗車しました。

大慈恩寺・大雁塔

大慈恩寺には予約無しで、当日入場券を購入して入れました。 WeChat Payで入場券を購入し、QRコードを見せて入場しました。 入場料と音声ガイドで、まとめて60元でした。

入ってすぐのところからの写真。左に見えるのは清代の鐘楼か鼓楼です(鐘楼か鼓楼、どっちだったか忘れた。。。) 朝と夕に鳴らして、お努めの開始と終了を知らせたとのこと。 なお、清代の鐘楼と鼓楼と、唐代の大雁塔を除くと、古い建物は実は少なかったと思います。

大雄宝殿。跪いて礼拝している人が絶えませんでした。 なお、礼拝する場所は跪く用のクッション?が置かれていました。 当然と言えば当然ですが、寺での礼拝の作法が日本とは異なるのが印象的。

「財神」なる神も祀られていました。 像の造形を見るに、おそらく仏教ではなく道教民間信仰の神様かな...? だとしたら、日本の神仏習合のようで興味深いです。

近代に建てられた建物が多いとはいえ、風情があります。

大雁塔。唐の時代から1000年の時を超えてそびえたつと思うと驚きを禁じえません。 レンガ造りですが、よく見ると柱や梁のような模様が表面にあしらわれています。 たぶん構造的な意味はなくて純粋に装飾的なものかと思うのですが、木造建築を模した装飾だとしたら面白いです。

さて、この塔ですが、追加料金(25元)で中に入って登れます。 中は近代の改装?がなされているようです。 世界遺産のはずなので、どうやってユネスコの許可を取りつつ工事したのか気になります。

塔の窓からは伽藍や周囲の景色を眺めることができます。

周囲は「大唐不夜城」としてかなり派手に開発されていて、夜はかなり賑わうようです*1

塔の中にはささやかながら展示もありました。 写真は明の万歴年間の銘がある風鈴。 唐代に建てられた塔に明代の風鈴が吊るされて、それが今は塔内に収蔵されていて...という歴史の積み重ねに思いを馳せました。

ちなみに、塔の1階?には様々な石碑があります*2

暗い中スマホのライトで撮ったので観にくいですが、こちらは「題名」と言って、科挙の合格者がその名前を刻んだもののようです。 この慣習自体は唐代からあるようですが、私が見たものは明清のものでした。 上の写真のものは明の嘉靖年間に刻まれたもののようです。氏名や出身の県が書かれているのが見て取れます。 よーく見ると1人名前が判読できない人がいるようなのですが、何かやらかして削られたのでしょうか。。。

こちらは唐代の書の名手、褚遂良の手による「大唐三蔵聖教序記碑」です。 碑文の文面は唐高宗によるもので、三蔵法師玄奘の経典翻訳に寄せたものだそうです*3。 なんとも豪華な歴史上の人物が勢ぞろいしており、感慨深いです。 ただ、あまり近づいてみることはできませんでした。あと、表面には拓本を貼ってある...?

唐の裏には現代の新しい建物があり、玄奘の功績がレリーフなどで表現されていました。 ちょっと面白かったのがこちらの注意書き。「谢谢合作」の後に「阿弥陀佛」とあって、さすが仏教寺院だなと思いました*4

まさかの社会主義核心価値観。

再び大雁塔に戻ると、塔の周りを何やら唱えながら*5ぐるぐる回ってる人たちがいました。 服装を見る限り僧侶ではなさそう。

また、このときは風が強く、塔の四隅につるされた風鈴が風に揺れて音を響かせていたのも印象的でした。

夕食

寒いので夕飯は温かいものが食べたいなー、ということで、地下鉄で移動し、高德地图で見つけたお店で羊肉泡馍を食べました。

レジで注文し、食券を受け取ります。 注文時に「馍を自分でちぎるか、お店で切ったものにするか」を訊かれました。 せっかくなので自分でちぎる方にしました。

上の写真のお焼きのようなものが馍。 これを小さくちぎります。馍は意外と硬く、力を入れてちぎる必要がありました。 細かくちぎった方が美味しい気がするけど、根気が足りなかったので少しさぼりました。

ちぎり終わったら、食券と一緒にカウンターに持っていって、スープを注いでもらいます。

と言ってもすぐに注いでもらえるわけではなく、番号札を渡されて呼ばれるまで待ちます。 このときは人も多く、けっこう待ちました。 相席の人と「お店が切ったものにしたほうが早かったかも?」「でもせっかくだから自分でちぎる体験をしたいね」という話をしました。 番号を呼ばれたので取りに行くと、できあがった羊肉泡馍を渡されます。

スパイスと羊の香りの組合せが調和し、スープを一口すするだけでじんわりと五臓六腑に染み渡る美味しさでした。 やはり寒いときに食べる温かいものは正義。 脂も多いはずですが、つけあわせの酢漬けのにんにくを齧りながらいただくとさっぱりしてなお良かったです。

鐘楼

食後、ホテルへの帰り道の途中に鐘楼に立ち寄りました。

明代に建てられた建物とのことですが、今でも幹線道路のど真ん中に鎮座しています*6

ちなみに周りはたくさんの人で混雑していました。 漢服コスプレ(?)で写真を撮る人も多数いたので、つい写真に収めてしまいました。

翌日に続きます。 amber-hist-lang-travel.hatenablog.com

*1:私は日没前に撤収したので、幸いにしてこの人混みには遭遇しませんでした。

*2:これらの石碑は、いずれも塔に登るチケットが必要なエリアにありました。

*3:現地の解説パネルより。

*4:昔観た中国の歴史ドラマとかで僧侶が何かあるごとに「阿弥陀佛」を枕詞のように使っていた記憶があるのですが、現実世界でもあるのか、、、と妙な感動をしてしまいました。

*5:釈迦牟尼」だけは聞き取れた気がする

*6:トルコのカイセリを訪れたときに見た「道路の中央分離帯に鎮座するキュンベット(墓塔)」を思い出しました https://amber-hist-lang-travel.hatenablog.com/entry/2023/09/03/213102